南平台の記憶・その13 渋谷でこの間取りなら今でも住みたいかも
その12で話したとおり、その南平台アパートには二棟の建物があって、古い方を仮に「第1棟」、新しい方を「第2棟」とすると、第1棟と第2棟の間取りはかなり違っていた。(ちなみに、この二棟が正式にはなんと呼ばれていたのか、全く覚えていない。「むこう」「こっち」とか、「奥」「手前」などと呼んでいたと思う。でも、○号室に当たる呼び方は、忘れもしないイロハ順だった。第1棟の向かって左側の一階が「いー1」、二階が「いー2」、三階が「いー3」。真ん中が「ろー1」「ろー2」「ろー3」。右側が「はー1」「はー2」「はー3」。第1棟は以上の9戸で、第2棟に続く。向かって右側の一階から「にー1」・・・と続いて、「へー3」で終わる合計18戸だった。うちは「へー2」に住んでいたので、デパートなどで住所欄に「へ-」と書くのと、店員さんが一瞬「えっ?」という顔をすると言って、母はとても嫌がっていた。)
間取りの話に戻る。
こちらの記事を参考にさせていただくと、
【1957年(昭和32年)東京都板橋区に建てられた代表的な中層集合住宅「蓮根団地」。これまでの集合住宅は部屋数が少なかったため、食事と就寝を同じスペースで行っていました。しかしダイニングキッチンと2つの寝室を持つ2DKの登場により「食寝分離」が実現した】
ということが昭和32年にあったそうで、南平台アパートの二棟は、「蓮根団地以前」と「蓮根団地以後」の様相にかなり近いのではないかと思われる。
とはいえ第1棟の間取りは、2Kではなく3Kだった。玄関を入って廊下のすぐ左手に水回りのスペース。すなわち台所、風呂場、便所、洗面所がかたまってあり、その奥に四畳半の畳の部屋があった。玄関入って右側には、六畳の畳の間が二間つながっていた。四畳半と六畳の一つの部屋は、奥で襖で仕切られてつながっている。
部屋は全部畳の間だったので、どこに布団を敷くことも可能だったから、家によって食卓を置いている部屋が違っていたと思う。四畳半を食堂兼居間にしているうちもあれば、六畳の一つに食卓を置いているうちもあった。
一方の第2棟の間取りは2DKで、第1棟に比べて一戸あたりの面積がやや広く、印象的にもゆったりしていた。
独立したキッチンと6畳のダイニングルームがひとかたまりに、それに畳の六畳間の二間続き。
部屋数は第1棟と同じだが、板張りのダイニングルームが設計され、寝室となる畳の部屋とは明確に用途が分けられていた。木のダイニングテーブルと椅子四脚も備品として設置されていた。
水回りは二分され、玄関入った廊下左手に風呂場とトイレ、洗面所。台所は右手にあった。台所と玄関の間には、どちらからも開けられる収納庫があり、ダイニングテーブルを使っていない時期にはこの収納庫にしまっていたから、狭くはないスペースだったはずだ。
ちなみに、なぜダイニングテーブルを使っていなかったか。それは、やはり床に座る方が親の世代には快適だったからだと思う。板張りの床にちゃぶ台のようなものを置き、座布団に座っていた。そして、母は、「むこう(すなわち第1棟)」は全部の部屋が「畳」だから、いいわねえ、と言っていた!
というわけで、使用する人間にとってはまだまだ先進的にすぎたかもしれない洋間を取り入れた住宅だったわけだが、今思い出してみると、狭いながらも使い勝手はめちゃくちゃ良さそうで、この棟の設計者は、いったい誰だったのだろう、と感心する。質の良い、住みやすい社宅を作ろうという意気込みが感じられるし、じっさい新しい考え方を取り入れ、知恵を絞り、心から楽しんで新しい住宅像を形にしていったのではないかという気がしてならない。
木をふんだんに使った内装はとてもモダンだった。
台所と食堂の境にはハッチが設けられて、もののやり取りができるうえ、目隠ししたい時には閉められるようになっていたり、玄関正面の廊下の両側が天井までの収納スペースに当てられ、靴箱やワードローブ(洋服かけ)も組み込まれていた。
ダイニングにも、廊下側の壁全体に作り付けの収納棚があった。
それらが全て木製だった。
収納としては、ほかに、畳の部屋の一つに二間の押入れ、その上にも独立した天袋があった。
台所を入れても四つしか部屋がないので、全ての部屋に窓があったのは当然としても、台所、風呂場、洗面所、便所にも窓があり、採光、風通しともに申し分なかった。
ベランダは前面すべてをカバーする形で、ダイニングルームからも六畳間からも出られるようになっていた。
あと六畳間と言っても畳はいわゆる「団地サイズ」ではなかった。ゆったりと感じられたのは、わたしが小さかったからだけではないと思う。次にマンションというものに引っ越した時、その八畳間がアパートの六畳間よりほんのわずかしか大きくなくてがっかりした覚えがある。
今思うと、30代の夫婦に小さな子供が一人か二人住むには、かなり快適な使いやすい間取りだったし、何よりも渋谷駅から徒歩10分、なんてすばらしいロケーションだったのだろう、と思う。
まあそれでも、子供心に大きな家への憧れは強く、従兄弟が住む千葉県市原市にあった三井の社宅アパートに遊びに行った時、間取りが一部屋多い3DKで、同じ団地暮らしだというのにそれは大した違いで、うらやましさのあまりその後もしばらく忘れられなかったし(そして今でも覚えているわけで・・・)、小学生になった頃、つまり昭和40年代後半に現れてきた「億ション」の新聞折り込み広告を眺めて、こんな家に住めたらなあ、この家に住んだら、ここがわたしの部屋で、ここが・・・、と限りない夢想の翼を広げたものだった。
そういえば、都内で一戸建てに住む、という発想は、この団地メンタリティの子供にはなかったような気がする・・・。
※上に掲載させていただいた記事にある「八王子・集合住宅歴史館」はすでに閉館し、今年2023年秋に北区赤羽台に場所を変え、「URまちとくらしのミュージアム」として新たにオープンするということを知りました。
https://www.ur-net.go.jp/aboutus/press/hndcds000000b1va-att/ur2022_press_1027_museum.pdf
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?