「妖怪ぶつかりおじさん」の救えなさと、救いについて思うところなど
ネタの発端は昨年末、俺氏が妹氏とその友人らの忘年会に招かれたときのこと。
妹友「このまえ日本橋行ったときに変なおじさんにいきなり後ろから悪口言われて~、なんかすっごいボソボソとした声で、最初何言ってるのかわかんなかったんだけど、よく聞いたらドアホとかグズとか人間失格とか言ってて~」
妹氏「うわ~きっしょ~、んでどないしたん?おまわりさん呼んだ?」
妹友「ううん、気色悪すぎて振り返りもせずにパッと走って逃げたんやけど、そしたら『お前みたいな女どうせロクな人生送れんわ、ざまあみろ』とか言ってて、距離とってからチラ見したらすごい貧相なおっさんで」
妹氏「貧相?どんな?」
妹友「キャバで女の子に悪がらみして追い出されましたみたいな感じの陰険そうで小汚いおっさん」
妹氏「wwww(ゲラゲラ笑う)」
俺氏「世に『悪口は自己紹介』というけど‥‥つまりそのおっさんは結局、妹友ちゃんに自己紹介しにきただけってことか?よっぽど暇だったのかな?」
妹氏「自己紹介wwww兄上辛辣でござるwwww」
妹友「ぶはははwwwwたしかにあれはロクな人生送れてない感じでしたけどwwww」
で、それから一月ほど経った今日、偶然ですがこちらの記事に出くわしまして。
そこで、ああなるほど‥‥と思うところがありまして、妖怪ぶつかりおじさんについてあれこれ考えたもの軽くまとめました。
お高かった鍋代をネタにすることで心持ちだけでも回収しようとした、という感じでもあります。
1/現代社会だから顕在化した「妖怪ぶつかりおじさん」
妖怪ぶつかりおじさん、あるいは先例のような罵詈雑言系の亜種。
俺氏は残念?ながら現物と出くわしたことがないので、世間の情報をもとに全体的な(ステレオタイプな)イメージをひねり出してみましたが、だいたい「自分より弱そうな相手を狙って鬱憤晴らしをしようとする小汚くてみすぼらしいおっさん型の妖怪」という感じでしょうかね?
偏見のかたまりのような気もしますが、実際こんなもんなのではないでしょうか。
さて、ここであえて「顕在化」といったのは、ネット社会によって「こんな気持ち悪いおっさんがいる」という情報が社会を駆け巡るからであって、こんな感じのおっさんは昔からいたと思います。
大きな会社の窓際に。
小さな会社の年功序列の椅子の上に。
ジャラジャラと音を立てるパチンコ台の列の片隅に。
平日昼すぎの場外馬券売り場に。
深夜の飲み屋街のゴミ箱の横に。
日の当たらない築数十年のボロアパートの一室に。
もちろんX(ペケ)などのSNSにもいるでしょう。
誹謗中傷を繰り返してるアカウントの多くが50代60代のいい年したおっさんだそうで、こういうのはネット版の妖怪ぶつかりおじさんといえるでしょうね。
誰もができる対処法はただ一つ、近寄らないことです。
まあ、そうはいってもなかなかに難しいもので、また相手の方からホーミングしてくるとなれば避けるのは容易ではないでしょう。
野良犬に吠えられたようなものと思ってやりすごすのが嫌なら、素直に公権力を頼りましょう。
2/救えないし救わなくてもよい
さて、先に妖怪ぶつかりおじさんのイメージを挙げました。
一方で、実はその人がそうなってしまった原因というものがあるのかもしれません。
ただまあ、それと向き合おうというのもまた、実に厄介なもんです。
その道のプロのはずの牧師さんでさえこの有り様ですよ。
いわんや素人の我々をや。
この救いようのなさというものを当人が自覚しているかどうかは定かではありませんし知ったこっちゃありませんが、そういう属性の人たちは、だいたいが自ら世間と関わろうとしない傾向にあったり、福祉政策にもひっかかってこなかったり、それでいて、あるとき何かしらのきっかけでプッツンして、法律も道徳も忘れ去って凶行に走りだす‥‥いわゆる「妖怪ぶつかりおじさん」の誕生と相成るわけでしょ?
どうすりゃいいんだ一体。
ま~厄介なもんですよ、ひょっとしたら福祉政策上のラスボスかもしれませんな。
もうここまで来ると、人道上がどうの道徳がどうのという問題では解決しないんじゃないかと。
過誤だとわかっていても「ほっとけ」としか言いようがないんじゃないかと。
そもそもですよ、そこに至るまでの経緯はともかく、妖怪ぶつかりおじさんやその亜種がやってることはただの暴行傷害、あるいはただの誹謗中傷なわけで、しかもいい年こいてるはずの大人がやってるのですから、庇い立てのしようなどありません。
俺氏なら見捨てます、ええ。
3/ほっとけの過誤より仏の加護がよかろうて
ただまあ、ここまで書き連ねておいて「はいおしまい」ではそれこそ座りが悪いので、ちょっとだけ蜘蛛の糸を垂らしてみましょうか。
ここで俺氏としては、仏教の可能性に賭けたいと思います。
いわゆる新宗教とか変なカルトとかに放り込んでしまえ、ではなくて、地域に根づいたお寺ならばどうか?という提案です。
時代は昭和、平成、令和と流れてきて、多様性という名の無秩序がもたらされて、多くの権威はその力を失いました。
現代日本で残っている権威はそう多くはないんですが、その中で、まだ「仏様」という宗教的権威は健在なのではないかなと思っています。
震災などでも、宗教は何をしていたのか?何の役に立つのか?という問いが投げかけられることがあるのですが、それこそ避難所、駆け込み寺として機能しているところもありました。
そもそも、人間の苦悩の解決を求めたお釈迦様が悟りを開いたことから始まったのが仏教です。
人々の苦悩に向き合うのは本分なわけですから、もしかしたらこういった話については非常に適任なのではないかな、という発想です。
もっと本音を言ってしまえば、どこの馬の骨かもわからないような公金チューチュー系の怪しい福祉団体にまかせるよりは何万倍もマシではないか、というところもありますが。
4/天は自ら助くる者を助く
仏教が福祉と異なるのは、当事者に金銭や生活の支援をするのが目的なのではなく、あくまで当人が「悟り」に至るという目的を達成するまでの補助、すなわち修行を行わせるということです。
よって、まず不健康な心身を引き締めるところからがスタートになるかと思うんですが、これが案外効くと思うんですよ、認知療法とか行動療法な意味合いで。
あと、躾って「身を美しく」と書くのは皆様ご存知の通りかと思うんですが、身なりを整えて、姿勢を正して、作法を守って、そういうことができるようになった人は、もう妖怪ではないですよ。
ちゃんとした人間、ちゃんとした大人です。
暴行傷害、あるいは誹謗中傷を、いい年こいてるはずの大人がやってる?
いい年こいた大人なら、そもそもそんなことしないんですよ。
だから、大人になれと。
正直これしかないと思うんです。
自己責任論として言っているわけではありませんよ?
しょせん、自分自身の人生に対して向き合っていけるのは自分自身でしかないんですから、それを成し遂げられるよう、まずはちゃんとした考えや立ち振る舞いができるようにお寺で躾けられてこい、ということです。
また、天は自ら助くる者を助くといいます。
まっとうに生きることができるようになった人を、天は見捨てたりはしないでしょう。
5/退治できないなら封印だ
さて、ここまでは希望的観測を込めて上げましたので、ここからはオチのために絶望的なくらい落とそうかと思います。
福祉も宗教も善意も全部テメーの汚い足で蹴っ飛ばしてツバ吐きかけておいたくせに「あーもうダメだどうにもならない、そのへんの弱そうな女子供にぶつかったり悪口言い立てたりして憂さ晴らししてやろう」なんていう悪い妖怪は‥‥もはや退治するほかありません。
ただ、妖怪にも人権とやらが存在するという、神妙不可思議にして胡散臭い現代において、直接的に退治するのはどうもハードルが高いらしいです。
退治できない妖怪だったら封印しちゃえばいいんですよ。
「防犯カメラ」と「顔認識システム」と「AI」を駆使して、現代社会に妖怪を防ぐ結界を作り上げるのです。
防犯カメラの映像をAIで常時チェックし、わざとぶつかったという動きを検出したら顔認識システムで過去の情報と照会しつつ人混みの中から逃げられないように追尾監視、あとは警察と連携して捕縛し、高い壁に囲まれた祠っぽいところへ丁重に封印。
それでいいんじゃないですかね?
親鸞でしたっけ、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言ったのは。
だったらこの救いようのない妖怪は、高い壁に囲まれた祠っぽいところにいるはずの神様だか仏様だかがどうにかしてくれますよ、たぶん。