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過去2回の薬物逮捕、度重なる解雇。それでも僕は諦めない【後半】

※この記事は薬物乱用の危険性を理解・周知していただくために書いたものです。違法薬物の所持・使用等の行為は、法律で厳しく罰せられる犯罪行為であり、薬物の乱用は、本人の身体や精神に大きな悪影響を与えます。

一回目の逮捕

 東京に戻ったSさんは2年初頭で大学院を中退した。理由はついていけなくなったからだ。
「修士課程中退だと就職先がなくて、しばらくは公務員の専門学校に行ったんですけど、また勉強しなきゃいけないじゃないですか。するとふっと頭に浮かんだです、あれが。それでまた買いに行きました」
 そこからSさんは再び薬を使用するようになる。その時消費者金融などから借りていた金額が150万円ほどになっていて、それ以上借金が出来ない状態だった。
「職務質問を避けるために移動はタクシーを使っていたのですが、そのタクシーに乗るお金がないんです。でもタクシーに乗りたいから、身分証明書だと言って、どこかのお店の会員証とかを運転手に渡して無賃乗車をしたりしていました」
 最初はSさんの言うことを信じていた運転手だったが、そういつまでもその手法が通用するはずはなかった。
 タクシー料金を支払うタイミングになり、いつものようにSさんが会員証を出した、その時だった。
「お前ちょっと来い」
 急に運転手にそう言われたSさんはそのまま交番に連れて行かれた。ちょうど薬を買った帰り道だった。
「お前いくら持ってるんだ?」
 警官にそう言われてSさんが財布の中身をじゃらじゃらっと出すと、覚醒剤が入っているパケがポロっと机に落ち、警官の目に留まった。
「なんだこれは?」警官はすかさずSさんを問い詰めた。
 警官がパケの中の物質を特殊な液体に漬けるとたちまち液体が青に変わり「はい、出るね。はい、色変わりました。何時何分何秒現行犯逮捕」
 それがSさんの一回目の逮捕の瞬間だった。
 Sさんを連れて来たタクシーの運転手は、想定外の展開になったせいか、タクシー料金をせがむことなく途中で帰った。

 警察署に連れて行かれて、取り調べが始まった時に暗かった空は、取り調べが終わった頃には明るくなっていた。
 Sさんは実はこの時、帰ったら寝るつもりで睡眠薬を飲んでいた。それがちょうど取り調べ中に効いてきて、警察署で寝てしまった。まともに歩けなくなったSさんは独房に入れられた。
「薬のせいもあり、逮捕された実感はなかったです。3日後くらいに、『ガチ檻の中かよ』と思いました。でも留置場生活も楽しかったです。ラオス人と一緒の部屋だったんですが、彼が英語をしゃべっていたので、これはチャンスだと思ってずっと英会話を楽しんでいました」
 その様子を普段から見ていた担当さん(留置所担当の警察官)から、ある時こんなお願い事をされた。
「お前英語出来るだろ。ちょっとこっちに来てくれないか?」
 そう言われてSさんが連れて行かれた留置場内の別の場所に行くと、英語で叫んでいる西洋人風の男がいた。
「落ち着け、落ち着け」と、Sさんはその男をなだめた。
「どうしたんだ?」とSさんが尋ねると
「なんでタバコ吸えないんだ!」とその男はSさんに向かって答えた。
「それはレギュレーションだから」と、Sさんは1日2本までしか吸えないことを説明してその男を落ち着かせた。
「留置場でもちやほやされました。同じ音楽の趣味の人とかも入って来たりとかして、楽しい修学旅行みたいな感じでした」
 留置場生活で辛かったことといえば、床が硬くて痛かったことくらいだった。

 留置所にいる時にSさんは刑事からこんなことを言われたことがある。
「お前はX大学だからいいなぁ。変わって欲しいなぁ」と。
 今捕まっているというのに何を言うんだ?と思ったSさんは「捕まっているんですけど変わりますか?」と言い返した。
 Sさんの両親がSさんの保釈を許さなかったため、Sさんは裁判が行われるまでの2か月半ずっと留置場にいることとなった。
 裁判の日は、前回の逮捕の時にも何も言わなかったSさんの父親が情状証人として立ち会った。
 Sさんの父親はSさん会った時に一言こう言い放った。
「馬鹿野郎!」
 父親に怒られたのは初めてだった。Sさんは仕方ないなという感情だった。
 突然の逮捕で大した着替えなどの用意もなかったSさんは釈放時もサンダルとスエットという姿だった。Sさんは、警察署へ私物を取りに行かなければならなかったのだが、そんな姿で外を歩きたくなかったので、タクシーで行きたいと父親にお願いした。しかし聞き入れてもらえず、仕方なく電車で向かった。

再び地元へ

 警察署を出たSさんは一旦自宅に戻り、手早く荷物をまとめて、父親と一緒に地元に戻るため新幹線に乗りこんだ。
 脳裏にシャ乱Qの『上・京・物・語』の歌詞が流れてきた。

~いつの日か 東京で 夢かなえ ぼくは君のことを迎えにゆく~

「あともう少しで成功したはずだったのに。バンドでも売れたし大学院にも行った。なのに、こんなことになってしまった。薬って。薬って。薬のせいにしちゃいけないんだけど」
 西の方から新幹線で東京に来るときに最初に見えるビル群がある。品川のビル群だ。眩しいくらいに光輝いた夢を抱き上京した18歳のSさんが東京に向かう時、左側にそのビル群が見え始めると「あぁ、東京に来たんだ」と実感した。品川のビル群はSさんにとって東京の象徴だった。
「新幹線に乗って地元に戻る時、品川のビル群が見えました。これがもう最後なのかと思いました」
 Sさんは以前母親に言われた言葉を思い出した。
「X大学に受かったあなたは東京の人になるはずだった。東京に住んでいるあなたの家に泊まって東京で遊びたかった」
 Sさんの母親の願いは叶わなかった。
 その時Sさんの隣にはSさんの父親がいたが、Sさんの頬には涙が伝っていた。悔し涙だった。
「あれだけ全速力で走ってここまで来たのに、遂にここで終わったのだと思いました」
 Sさんは、順調に行っていたら、音楽で有名なバークリー音楽大学に行ってジャズを学んだり、ハーバード大学に行って博士を目指したりといった未来を想像していた。
 だが結局、どちらも叶わなかった。さらに皮肉なことにバンドの後輩がバークリーに行き、プロの作曲家になってしまった。
 本当だったら自分がバークリーに行ってプロのミュージシャンになるはずだったのに。

 実家に戻ったSさんは塾の講師になり、しばらく講師を続けた後、とある上場企業に内定が決まった。配属されたのは、ヨーロッパから商品を輸入販売している部署だった。そこからまた順調な生活が始まった。入社2年目にはヨーロッパ出張にも行かせてもらえた。またある時は、取引先から億単位の発注を受けたこともあった。
「執行猶予中は限定条件でしか海外には行けないので、1回目の海外出張は、周りにバレずに海外に行く段取りを組むのにめちゃめちゃ苦労しました。会社を休んで判決謄本や起訴状の写しを取りに行ったり、こそこそ隠れながら社外から電話をしたりしてパスポートを手配しました。パスポートが出来たのはドイツに行く3日前くらいのギリギリのタイミングでした。僕のパスポートは色が違うから同僚に見られると怪しまれるので、出入国審査の時は一緒に行ったメンバーの一番最後に並んで絶対同僚達に僕のパスポートを見られないようにしました」
 Sさんにとっては、執行猶予中だから入国できなかったらどうしよう、同僚にバレたらどうしようとかいう不安よりも、海外出張に行ける喜びの方が大きかった。そしてその”執行猶予中なのに海外に行けた”という経験も、Sさんにとっての成功体験となった。
「海外営業とかで色んな国に行って。合コンばかりやっていて、楽しかったです」

快楽のための薬から、生きるための薬に

 当時Sさんは、毎日アサヒスーパードライを5缶と睡眠薬を飲むのが習慣だった。
「突然、”手押し 氷”(手押し=手渡し 氷=覚醒剤の隠語)とかってネットで調べたんですよね。すると覚醒剤を売っているサイトが出てきたんですよ。家まで配達してくれるところがあって問い合わせると、『今どこですか』と聞かれたので『〇です』と伝えると『20分で行きます』と言って、本当にバイクに乗った男が来たんです。今思ってもなぜそんな行動をとったのか分からないのですが。8年ぶりにやりました。その時は鼻で。『懐かしいな、これだわ。やっぱこれこれ』と言った感じで」
 そこから2か月に一回くらいの頻度で薬を使用するようになった。
「買うと毎回ポンプ(注射器)がついてくるのですが、それを毎回ペンチで折ってトイレに捨てていたんですけど、それが結構面倒で、半年くらい経ったときに、一回打ってみようかと思ってやってみたんです。それはそれはびっくりするほどの気持ち良さでした。やり方はYouTubeとかでいくらでも出てきますから。そこからは一気にエロにしか興味が行きませんでした」 
 その日Sさんは夜8時くらいからずっとエロビデオ見続けて、寝ずに朝そのまま仕事に行った。
 それからSさんは会社でも使用するようになった。薬を使用する頻度も初めは毎週金土だけだったのが、だんだん間隔が狭くなっていき、遂には毎日打つようになった。
 薬物常習者になると、薬が切れる度に強い倦怠感が現れて全てに於いてやる気がなくなる。その倦怠感を払拭するために薬を使用してしまうため、永久に薬を使い続けるはめになる。
 初めは快楽や会社に行くために打っていた薬は、最終的には生きるために打つようになっていた。

二回目の逮捕

 ゴールデンウィークに入ると、Sさんの薬の使用はさらに拍車がかかった。1日5回、10回という頻度で毎日打つようになった。そうなるともう会社に行く気力はすっかり失せた。会社には骨折したなどと言って嘘をついた。
「部屋で薬をやっていると、エアコンや換気扇が話し出すようになりました。換気扇は”自主した方が罪が軽くなるぞ”とか語りかけてきて、”隣には母親がいる”、”下の階は警察が借りている”、”ベランダには警察が立っている”という妄想に取りつかれたんです」
 パニックに陥ったSさんは自らの手で110番をした。2016年5月末日のことだった。
 それまで散々職務質問対策のため、真面目な会社員に見えるように夏でもスーツを着たり、移動もタクシーを使ったりしていたのに、結局は自分で自白して捕まってしまった。
「皮肉な話だなって思いましたが、あそこで捕まっていなければもっと狂っていたので捕まって良かったと思います」
 留置場に行き3日間くらい経った時、近くの学校のスピーカーから、”Sさんが運転中に人を跳ねた”と聞こえてきた。もしかして自分は死刑なのか?Sさんは不安になった。さらに幻視で死刑場のある東京拘置所が見え、『殺さないでくれ!』と叫んだ。そして、気づけば伸びるスエットを首にかけていた。
 人生で初めての自殺未遂だった。
 そんな日々が10日間くらい続いた。

 警察はSさん逮捕の件をなぜかSさんの勤め先に連絡し、勤め先の取締役が来た。
「もうクビだと思ったので『自主退職でお願いします』と言ったら『やめさせる気はないよ』と言われました」
 二回目の逮捕では、Sさんの弟が私選弁護士をつけてくれて保釈もされた。家族からは完全に病気だと言われて、Sさんは薬物依存症治療のため千葉県にある治療センターに入院した。
「ご飯も美味しくないし、条件反射制御法という治療法がすごく厳しかったです。留置場よりもしんどかったです。でもその治療法をまじめにしっかりやったら、全く欲求も記憶さえもなくなりました。今はもう薬がどれだけ気持ち良かったかも思い出せないです。最高だったというのは覚えているんですが、どう最高だったかというのを完全に忘れているんです」

 Sさんが行った条件反射制御法は、注射の行為に直結するミネラルウォーターのボトルを見たり、注射を打つ疑似動作をしたり、目を閉じて朝起きてから打つまでのイメージをしたりするというもの。本来ならそれらの行動の後に快感が得られていたものが、それらの行動を行っても快感が得られないという癖をつけて行き、最終的には薬物使用に関連する刺激を受けても欲求を感じさせなくさせる。
 条件反射制御法は薬物乱用以外にも、反応性抑うつ、PTSD、パニック、リストカット、放火、病的窃盗、病的賭博、摂食障害、盗撮、下着泥棒、露出症、痴漢、ストーカー、過度の喫煙、過度の飲酒等の治療にも行われている。
 センター内での治療が終えると、幻聴が聞こえていた自宅に一人戻って治療を行った。すると、”やりたい”という欲求はもう消えていた。
 治療は成功したとみなされた。

 二回目の逮捕は、保護観察付の懲役2年執行猶予4年という判決が下された。
 その時消費者金融から借りていたSさんの借金は6、700万ほどになっていた。毎月、当時の給料の半分の約20万を薬に使っていた。タクシーも利用していたので、それも合わせると給料の半分以上を薬のために使っていたことになる。

10年以上務めた会社の解雇

 逮捕後Sさんは薬から離れ、何事もなく過ごせていた。しかしある時、唐突に幻聴が戻って来た。きっかけと思える出来事は思い当たらなかった。幻聴は普通の社会人生活が送れないくらい酷かった。午後3時くらいになると幻聴が聞こえてくる。エアコンをつけたらエアコンが話かけてくる。雨が降ると雨が話しかけてくる。
 幻聴から逃れるため布団を被るような生活が2年続いたが、2018年ようやくSさんの幻聴が抑まる薬が見つかり、元の生活に戻れた。
 薬を飲んでいると比較的調子は良かったが、バリバリの営業ができるほどではなく、後輩を指導するような立場だった。社内で時間を持て余していたSさんは、アフェリエイト目的でブログを始めた。するとそのブログが意外にもバズって上位に上がった。Sさんの中に眠っていた承認欲求がまたむくむくと起き上がってきた。
 もっと上位にあげたい。
 そう思ったSさんは最初は茶化したような内容を書いていたが、それじゃ駄目だと思い、自分の人生について書き始めた。そしてつい調子に乗って勤め先の社長からもらった手紙を載せてしまった。私は2回目の逮捕を隠していますという文とともに。
 その直後だった。Sさんの勤務先に匿名で密告メールが入ったのは。
 密告メールには、Sさんの本名、ブログの内容や、そのブログはSさんの勤務先社員です。という文章と、さらにはブログとは全く関係のないSさんの過去の行動歴を示す内容も書かれていた。その密告メールはSさんの勤務先全管理職に送られていて、Sさんのブログとツイッターはその全員に見られることとなった。流石に逮捕の際にSさんをクビにしなかった取締役もSさんを庇いきれなくなり、10年以上務めた会社をやめることになった。

 仕事を失ったSさんは東京で転職活動を始めた。
 その時、企業によっては社員を採用する際にはネットでその人物を調べられることもあるという話を聞いたSさんは、自分の名前も試しに調べてみた。
 すると、トップページに自分の名前や犯罪歴などがしっかりと出てきた。だがその時は気にせず転職活動を続けた。

 しかしある企業に採用が決まり、普通に働いている時だった。Sさんは急に上司に呼び出された。
「ネットにこう書かれているんだけど」
 そして、過去に1回だけ寝坊で無断遅刻をしてしまった時のことを持ち出された。結局そのたった1回の無断遅刻が原因で解雇された。きっとその遅刻が無かったとしても結果は同じだったことだろう。

 次に内定となった企業では、前科のことを正直に話した。すると内定決定後に内定を取り消すメールが届いた。メールの内容は理不尽なもので納得は行かなかったが、そういった判断をした企業に行く気はもう無かったので素直に内定取消を受け入れた。

 悲劇はさらに続いた。次に就職が決まった企業にまたもや匿名メールが届いたのだ。そうしてその匿名メールがきっかけでSさんはその企業を解雇された。

過去を振り返って

 今Sさんが目指していることがいくつかある。一つは前科がある人を海外に行く為の手続きを手伝ったり、前科が有る人を生きやすくサポートしてあげること。もう一つは保護司になること。現在、薬物経験者の保護司がほとんどいないため、経験者としてサポートをしたいからだ。だから、その活動のために必要な行政書士の資格を取る勉強をしている。
 「今まで僕に嫌がらせをしてきた人への対抗策は、名誉棄損で民事訴訟を起こすことでも何でもなく僕が幸せになることだと思います。彼らは僕が幸せになっている姿を見るのが一番悔しいと思うんです」
 Sさんは過去に戻ってやり直したいとは決して思っていない。あの過去が無ければ今のこの人生は無いからだ。

 もし今薬物をやろうとしている人や、やってしまった人に伝えたい、とSさんは言う。
 薬物をやると自分の夢を潰してしまう可能性があるかもしれない。ただ言っておきたいのは、”必ずやり直せる”ということ。
 一つのことに囚われずに色々なことをやって欲しい。遊びに行ったり、YouTubeを観たり、仕事をちゃんとしたりとか、何でもいいから色々なことをやって視野を広く持って欲しい。
 規則正しい生活をしていたら依存している暇なんかないはずだから。

 最後に私はSさんに一つ質問した。
「今、幸せですか?」
 既に空になったアサヒスーパードライ5缶を横にしてSさんは笑顔で答えた。
「はい。とても」


この記事に登場する人物名、場所名などは仮名にしてあります。
Sさんのインタビューを始める時、Sさんは私に強く言った。
「絶対に身バレしたくないんです。今まで世話になった両親に迷惑をかけたくないですから」と。

過去2回の薬物逮捕、度重なる解雇。それでも僕は諦めない【前半】はこちら


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