シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第二十五回 飯盛城の山下(さんげ)「北条」を考える(その4) 諸々を一旦仕舞いこんで
[議論の際は「城下町」という用語を一旦”使用禁止“にした方がよい]
(註:現在PCが使えない環境にあり、リンクが貼れていませんが、後に改正予定です)
さて、繰返しになりますが、本稿は、一言で言えば、現在の「定説」であるところの
「飯盛城には城下町は無かった」 を
「飯盛城には“大城下町”は無かった」
くらいに訂正いただけないでしょうか?というものです。
これにより、基本「“大”の一文字を加えるだけ」で、多くの「可能性」が「潰されずに生かされ」また「現在の"定説"へのダメージコントロール」にも繋がる、と思えたからです。
加えてこれも繰返しになりますが、「飯盛城下」に関して「研究者が議論」をする際は、この「城下町」という単語を、せいぜい括弧付で「いわゆる城下町」という程度に使用を控え、
「“城下町”という用語を基本使用禁止」
で進めると、よりスムーズに議論が「噛み合う」かと思います。
言うまでもなく、「城下町」という言葉には
「城の麓に城主の居館や侍屋敷(侍町、内山下)がある」
という意味合いがその「半分」を占めています。
よって、これらを「山上の城内」に取り込んでいる「飯盛城」や「芥川山城」「滝山城」「信貴山城」「置塩城」(「観音寺城」は"微妙")に関しては、「実態から遊離」してしまうからです。
そこで、「城下町」という用語の代わりに以下の「5つの言葉」で「城下町の構成要素」を表わすことをご提案いたします。その内わけは以下のとおりです。
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まず「位置」を表現するものとして①「山上」(さんじょう)、②「山下」(さんげ)の2つに分け、
次にその「構成要素」として、③「居館、侍屋敷」、④「町場(商人、職人、サービス業者や定期市)」、⑤「神社、寺院、キリスト教会」の3つに分類します。
(なお、③を「塔頭、政所、僧坊」などに入れ替えると、山岳寺院や神社にも応用可能です。)
これらから「飯盛城における要素」を、以下「2×3=6」つの言葉で表わし、各々のその概略を述べますと、
* 山上の居館、侍屋敷→存在した
* 山下の居館、侍屋敷→存在が「確認されていない」(拙論では若干の「番衆」くらいは居たと推定している。また「木沢氏」や「安見氏」段階も考察する必要あり)
* 山上の町場→存在が確認されていない(日本では稀少(高野山など)だが、海外にはそこそこ存在する模様)
* 山下の町場→ささやかながらも「北条」には存在したと思われる(拙論)。また、本稿では触れていないが「南野」の「御机神社」においても「定期市」くらいは想定している
* 山上の神社、寺院、キリスト教会→存在した。氏神(新羅社)や、城内における“仏僧”や"キリスト教会"の存在など。但しキリスト教会は永禄八年(1565)の「大うすはらい」以降、廃されたと思われる(拙論)
* 山下の神社、寺院、キリスト教会→存在した。キリスト教会に関しては拙論のみの主張。但しこちらも永禄八年以降は廃され、三箇島へ一括されたと思われる
* 他に「外港」として「三箇村」の飛び地である「津の辺」 があった。
[前回連載に「瓦の資料」を追加しました]
さて前回は、封印していた個人的な苦い過去を「発掘調査」してしまう結果となり、私はこの1週間、20~24年前の出来事が様々に思い出されてきて心穏やかではありませんでした。
特に、当時作成した獅子山城(“山下城”)の「瓦の資料」に関しては、やはりこのくだりにおいて呈示しておく必要性を感じ、「画像」等もあらためて大幅に追加しましたので、またご参照頂ければ幸です。https://note.com/tohbee_/n/n657bf28b67f4
(上画像は、地形模型(仮仕上げ)上における、「山下町」より獅子山城の「総瓦葺天守」(仮製、想像)に向けた「ヴィスタ」。「第3回東谷ズム(2014.11.22)」会場にて)
「歴史は勝者のもの」というのは、「研究者の世界」においても全く同じです。
しかしながら、「城郭談話会」や「中西裕樹氏」(高槻市文化財)に関しては、最近の本稿において批判的な記述ばかりが続き、これはこれでバランスを欠くものでもあり、正直自分でも“寝覚めが悪い”ものでした。
そこで今回は、気分転換に、ちょっと違うテイストのエピソードをご紹介します。
年の「締め」でもありますし…。
[“トキワ荘”ならぬ“若葉荘の青春?”@嵐山]
「塩川氏の誤解を解く」第23回の「東谷ズム版・導入部」(https://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding23/)のラスト「三好さん」の項において、二十数年前に「嵐山城」(京都市)が本当に「嵐の山」になった(汗)という不思議なエピソードをご紹介しましたが、実はあの頃、この他にも数名の方々と「嵐山城」を訪れたことがあります。
それは、当時私がさんざんお世話になった「城郭談話会」の方々5~6名?との訪城でした。
多分その中では私が1番「新人」(オッサンでしたが)だったかと思われます。当日の夜に「談話会」の会合(大阪市アピオ)があった「ある晴れた土曜日」のことでした。
そして城山から下りてくると、一行の一人、「高田徹」さんが「それじゃあ中島さんの家にちょっと寄ってみようか」などと提案されたので、私はあわてふためきました。
当時私は嵐山の旧街道沿いの小汚くて狭いアパートに住んでいたのです。
正直、恥ずかしい限りでしたが、断るのもなんかアレなので、清水の舞台から飛び降りるような気分で「どうぞ、どうぞ」なんて言ってしまいました。そもそもあの狭い拙宅に5~6名もの「大人数」の客人が来たなんて、この時くらいのものでした。
昨年、20年ぶり?くらいに再会した「高田徹」さんから、この時の私の
「紅茶の入れ方が面白かった」
旨を聞かされました(汗)。あと、“フライパンに向きあっていた”記憶があるので、餃子かなんかをお出ししたかもしれません。
実は私は「緊張感」のあまり?その時の事をあまり記憶していないのです。
ただ、一行の一人であった「中西裕樹」さんが拙宅の「エレキギター」に「ちょっとだけ反応」しておられたのは妙に覚えています。
狭い拙宅の壁には中古で購入したGrecoの「ストラト」と「ES-335モドキ(実はセミアコではなく“ホロウボディ”)」を立てかけていました。
(まだ使ってる…)
当時は「国産コピーモデル」などと卑下されてた時代でしたが、近年においては、なんか“Japanese Vintage”なんて持ち上げられており、えらく“隔世の感”があります。
なお、中西さんご自身はシャイな方で、私以上に「固まって」おられたように記憶しています。
加えて当時はまだ「中世城郭」に興味を示すなんて、一般世間からは「よほどの異人種」に見られていた時代で、こちらもまた“隔世の感”があります。
「そうか、“城屋さん”にもギターをされる方がいるのか…」
というのが中西裕樹さんを通じての「発見」でしたね。昨今はこんなかたちで本稿にご登場頂いて(汗)おりますが。
なお、シリーズ「京の山城とギタリスト」(?)といえば、当「塩ゴカ」第9回(https://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding-bangai9/)のラスト「レインソング」の項においては、「中尾城とジミー・ページ氏」との不思議な関係(汗)についても触れております。
次回は、久々に「一条内基の政所(妻)」であった(荒木略記)ことが確実となった、塩川長満の娘(妹)こと「慈光院」(https://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding19/ )について触れてみたいと思います。
本当は今年の春にアップ予定だった記事ですが…。
それでは皆様、来る令和三年も良い年でありますことを。
(つづく。2020,1227 文責:中島康隆)