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戦国時代~織豊期の主に城下町に見られるヴィスタ(見通し)の例

ヴィスタ編集

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なお、各図は以下のものに加筆した。

*「三田」は安政二年の町絵図(山崎敏昭氏作成1998年頃のレジュメより孫引き)

*「山下」は拙図(「ひょうごの城紀行 下」の角田誠氏執筆"山下城"掲載。 朽木史郎、 橘川真一編 神戸新聞総合出版 1998年)

*「小浜」は現地に設けられた説明板掲載図に加筆。毫摂寺(ごうしょうじ)が、山上の「中世中山寺」跡、「中世清澄寺(清荒神)」跡を見通した方位を基準に都市プランが形成されている。

*「茨木」は 豊田裕章氏「茨木城・城下町の復元案と廃城の経過」(中村博司編著『よみがえる茨木城』清文堂出版株式会社 2007) P86図復元図における推定天守位置(H点)に対して。

*「有岡」は 小長谷正治氏「研究ノート 有岡城大溝筋堀跡と地割-惣構え成立過程の検討-」( 『地域研究いたみ』34号 平成17年)掲載図に加筆。なお「天守位置」の推定は藤本史子氏の「伊丹城(有岡城)跡主郭部調査の再検討」(同46号 平成29年)を大いに参考にさせて頂いた。

*「長浜」は佐藤滋氏 作成図(「図説城下町都市」鹿島出版会, 2002) 。

*「高屋、古市」は明治十年代の「陸軍仮製図」。

*「岐阜」と「近江八幡」は宮本雅明氏「織豊期の城下町」( 高橋 康夫 , 宮本 雅明 , 吉田 伸之 編集 「図集 日本都市史」東京大学出版会 1993)。

なお「岐阜」(井の口)は、現在展望台のある「七間櫓」跡に対して城下の三本の通りがヴィスタをとっており、これは永禄期以前の「斎藤氏時代」の遺産と推定されている。

(2022.0414 文責 : 中島康隆)


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