「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」第28回 土御門泰重が見た“一条家政所”「慈光院殿」
①“ヲサゴの方”の死後、二条家の「政所」の地位は「二条昭実」の母「位子」が引き継いでいた?(「一条か?二条か?問題」の補足)
②土御門泰重(つちみかどやすしげ)の日記「泰重卿記」に登場する「慈光院殿」
(1)きっかけは
(2)初登場
(3)慈光院、禁裏において“生御霊”(いきみたま)を祝われる(“御目出度事”という行事)
(4)「一条家政所」としての“御振舞”
(5)関白「二条昭実」の訃報に接するも、「姉の夫」であった気配は?
(6)徐々に貫禄を見せてゆく慈光院殿
(7)一条家と中和門院(近衛前子)との間に小トラブル発生?、土御門泰重は事態を解決すべく慈光院殿と相談する。
(8)寛永初頭には「政所」引退か?
①“ヲサゴの方”の死後、二条家の「政所」の地位は「二条昭実」の母「位子」が引き継いでいた?(「一条か?二条か?問題」の補足)
[“ヲサゴの方”は二条家「政所」だったが…]
前回の第3章「「姉」が再嫁したのは「一条内基」?「二条昭実」? 「荒木略記」再検討」において、「二条昭実」の二人の妻について検討してみました。
ひとりは、天正三年(1575)に嫁いだ「ヲサゴの御方」(赤松氏、慶長元年(1596)没)であり、もう一人は、慶長五年~八年(1600-1603)に妻であった「三之丸殿」(織田信長息女、豊臣秀吉室)です。そして目下、この両名とも「北之政所」と称された史料に接していません。
今回補足したいのは、この二人の「妻」が「摂関家の家政機関の長」たる「政所」であったか?についてです。
まずは、「ヲサゴノ御方」についてですが、「二条昭実」の実弟「醍醐寺座主」の記した「義演准后日記」の慶長二年(1597)正月四日条において、「義演」は「彼女の訃報」を以下の様に伝えています。
「政所 二条殿 旧冬廿九日頓死云々 仍 出京 弔申入了 申刻帰寺」
冒頭に「政所 二条殿」(“二条殿”は割註)と明記されていることから、「ヲサゴの御方」が二条家の「政所」であったことは間違いないでしょう。
よって、天正十三年(1585)に「近衛信輔」(信尹)が「関白相論」を「二条昭実」に取り次いでもらった「二條殿政所」(「三藐院別記」中の「羽柴秀吉関白宣下次第」)もまた、この「ヲサゴの御方」を指す(橋本政宣「近世公家社会の研究」(吉川弘文館、2002)P203-205)のでしょう。
[“三之丸殿”は「政所」ではなかった?]
しかし、一方の「三之丸殿」については、「二條殿御簾中」(慶長日件録)、「二条殿北御方」(時慶記)、「三ノ丸様」(北野社家日記)、「二条関白昭實公の室」(寛政重修諸家譜・織田氏系図)といった表記はあるものの、目下、安政四年(1857)頃に成立した「系図纂要・平氏・織田」のみ、彼女のことを「二條関白昭實公政所」と記しています。
[西笑承兌(せいしょうじょうたい)の日記から]
そして「鹿苑日録」(続群書類従完成会)「慶長七年(1602)七月廿五日」条に、以下の意外な記述がありました。これは「三之丸」の死の前年のものでもあります。
「~未明ニ出洛。先至豊光(寺)。懺法前に有粥~中略~粥了テ懺法~」
「~今日之功徳主 二條之政所様也。政所様御親父 妙荘厳院殿之卅三年忌ト云々。雖為二年以後。政所御行年故 如此ト云々。二条殿(昭実) 三寶院殿(義演) 橿井殿(梶井宮最胤親王)・九条殿(兼孝)出御~」
執筆者の「西笑承兌」は、「相国寺鹿苑院」の院主であり、境内にこの「豊光寺」を創設した人物でもありますが、歴史的にはむしろ、豊臣政権~初期徳川政権の下で活躍した「外交僧」として知られています。
[二条家の「政所」は、昭実の母「位子」だった]
文中、「二條殿之政所」とあるこの法要の「功徳主」の父親が、「妙荘厳院殿」(伏見宮貞敦親王)と記されていることから、彼女は目下存命中の昭実妻、「三之丸殿」ではなく、「二条昭実」や「九条兼孝」「義演」ら兄弟の母親、「位子」(二条晴良の妻)であることがわかります。
この「二條殿之政所」の紹介が正しければ、二条家の「家政機関」の長は、「ヲサゴの御方」の死後、二条昭実の「母親」が引き継いでいた(或いは“返り咲いた”?)ということになります。
「ヲサゴの御方」は、前回紹介したように、「外交官」としての経歴が豊富であった(日々記、大外記中原師廉記)ようですが、一方の「三之丸殿」にはこうしたポジションは「重荷」と判断されたのかもしれません。
因みに、この法要に参加した「義演」(三寶院殿)の「義演准后日記」同日(慶長七年七月廿五日)条にも
「伏見殿妙荘厳院(貞敦)卅三回忌被引上 相國寺ニテ 政所御作善御沙汰 仍予(義演)為焼香罷向了 二条殿 鷹司殿 并 梶井宮同御成也 観音懺法執行 齋受用了 香典少遣之」
とあり、「鹿苑日録」とほぼ整合する内容ですが、「義演」がこの法要の参加者の一人を実兄「鷹司信房」(昭実の弟)と記しているので、上記「鹿苑日録」に「九条殿(長兄、兼孝)」と記されたのは「西笑承兌」が“勘違い”したのでしょうか。
ともあれ、「三之丸殿」は、和田裕弘氏(「織田信忠」(中公新書)P43-44)が「林家本・摂津國荒木一家之事(荒木略記)」の記載から「二條殿北之政所」(塩川伯耆守娘)に比定されていますが、実際の彼女は「北政所」どころか、「政所」ですらなかった、ということになります。
となれば、もし「二条昭実」に「北之政所」の称号が正式に「治定」されていた妻がいたとすれば、それは「昭実」が関白に再任された、元和元年~五年(1615-19)である可能性が考えられます。
そのあたりのことを、次の第2章で少し検討してみます。
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[一条兼良・冬良の「妻」、及び「母」が仕切った「家政」においても]
なお、戦乱の激しかった15世紀半ばにおける、零落した「一条家」の事例ですが、海老澤美基氏が論考「中世後期の一条家の妻たち 「家」の妻、その存立基盤と継承」(前近代女性史研究会編「家・社会・女性 古代から中世へ」所収、吉川弘文館、1997)において、興味深い事例を挙げておられます。
当時、おそらく混乱と経済状態により、正妻を持てなかった「一条兼良」の「東御方」という「家女房」(近世風に言えば「側室」)が一条家の「家政」を統率していたというものです。
この「東御方」はその後、「美濃」へ去ってしまうのですが、今度は「一条兼良」と「南御方」(やはり兼良の「側室」)との子である「一条冬良」が当主になった時代においても、その「正妻・二条姫君」(二条政嗣の息女)が「一条家の家政」に関与しておらず、やはり、「冬良」の実母「南御方」が「一条家の家政」を引き継いでいたというものでした。
「政所」という言葉が使われていないものの、必ずしも「摂関家当主の正妻」が「家政機関の長」ではなかったという点、上記の「二条昭実」の例と似ています。
そしてこれらの事例は、「別の意味で混乱期」とも言える、織豊期の「一条内基」時代における「政所」、及び「北政所」への考察においても、大きな示唆を与えてくれるように思います。
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②土御門泰重(つちみかどやすしげ)の日記「泰重卿記」に登場する「慈光院殿」
(1)きっかけは
[「妹」こと「慈光院」のこれまでの調査おさらい]
さて、この章からはいよいよ「塩川姉妹」(本稿における“通称”であり、実際はいずれが姉か妹かは不明)のうち、「池田元助」未亡人であった「妹」こと「慈光院」と「一条家」との関わりを具体的にお伝えしてまいります。
幾度もの繰返しになりますが、「荒木略記」(群書類従版)に
「塩川伯耆守 是は満仲の子孫と申伝へ候 それ故 伊丹兵庫頭(忠親)妹の腹に娘二人御座候 壱人は信長公嫡子城之助殿(信忠)の御前 壱人は池田三左衛門殿(輝政)之兄 庄九朗(元助)室にて御座候 池田出羽守(由之)継母にて御座候 後に城之助殿御前は一條殿(林家本では「二條殿」)北之政所 庄九朗後家は一條殿之政所に成申被れ候」
における、太字の部分が「妹」に関する記事です。
私はこの記事から、平成13(2001)年に、彼女が最初に嫁いだ「池田家」の史料を所蔵する「岡山大学附属図書館」(池田文庫)の「備前・池田家譜(マイクロフィルム、請求番号を失念)」にたどり着きました。その中の「之助」(ママ。補注1)の条に
「継室 塩川伯耆守信氏(ママ)ノ女 之助戦死ノ後 秀吉公ノ命ニ依テ一條関白内基公ニ再嫁 寛永十四年丁丑七月十日京都ニテ卒ス 妙心寺塔頭護國院ニ葬ル 戒号 慈光院花上(ママ)永春」
とあったことから、彼女が妙心寺の塔頭「護國院」(江戸時代前期に廃絶)に葬られていたことを知り、同時に彼女の「戒名」をも知りました。
次いで昨年(2020)初頭、この「護國院」の「墓所」を近代以降に引き継いでいた妙心寺塔頭、「慈雲院」境内の「池田家墓所」において、「慈光院殿花生永春大禅大姉」と刻まれた墓石を確認し、彼女の実在、及び、「荒木略記」や「備前・池田家譜」に記された彼女に関する情報の正しさもまた、ほぼ証明されました。この経緯に関しては、連載第19回(リンク)に詳しくお伝えしています。
上:妙心寺「慈雲院」の備前・池田家墓所
上:「慈光院殿花生永春大禅大姉」と刻まれた墓石
しかしながら、彼女の墓が、再嫁先である「一条家の墓所」(京・東福寺)ではなく、最初の嫁ぎ先である「池田家の墓所」に葬られていたという事実は、「彼女と一条家との関係」を「やや心もとない」ものにしていました。
「慈光院」は、慶長十六年(1611)七月二日に薨去(公卿補任)した夫「一条内基」の墓所である「東福寺」の「一条家墓所」(下画像)には葬られなかったというわけですから。
因みに後藤みち子氏の「戦国を生きた公家の妻たち」(吉川弘文館・2009)によれば、この時代には「夫婦同墓地」という形式が一般化されつつあり、その条件として
「夫婦の意思・夫の意思・後継者の意思」に加え、
「妻は基本的に正室であり」、「後継者の実母である」
ことが紹介されています。
しかし最後の点については結局、「一条内基」は実子に恵まれず、晩年に「後陽成天皇」の第九皇子を養子(一条兼遐(昭良、恵観)、後述)に迎えています。
(補註1)近世の備前、因幡の大名となった「池田家」の文書類においては、「池田元助」の名を、誤って崩字体のよく似た「池田之助」で統一されてしまいました。よって彼の嫡男「由之」(伊勢貞良娘の子)なども本当は「由元」であったと思われます。そんな中で唯一、「元」の通字を後世に伝えたのが「元助」の妻(塩川長満娘、慈光院)こと「妹」の子、「池田元信」の子孫でした。
[ひょっとしたら?と「泰重卿記」を見てみたら…]
こうした“心もとない”気分の中、昨年(2020)の3月~4月頃でしたが、「三人の公家の日記」において、彼女が本当に「一条家の政所」であったことを示す記述があることがわかりました。
それを知ったきっかけは、たまたま別件で猪名川町の眞田憲氏にご教示頂いた松澤克行氏によるコラム、「あるプリンスの晩年 一条昭良置文案」(日本古書通信881)でした。
結果的に嫡子に恵まれなかった最晩年の「一条内基」が、「後陽成天皇」と「近衛前子」(近衛前久の娘、のち「中和門院」)との間に生まれた「九宮」を養子に迎えたのが「一条兼遐」(「かねはる」か。のち「昭良」)でした。
そして教育熱心だった彼の実母「近衛前子」の依頼により、勉学に不熱心だった“兼遐少年”の「漢学の家庭教師」となった「土御門泰重」の「苦労話のエピソード」が、この「あるプリンスの晩年 一条昭良置文案」に紹介されていた、というわけでした。
なお「一条兼遐」は、もし現在に生まれていれば、ヴィジュアルアートや音楽等の“創作”に才能を発揮した芸術肌であったと思われ、その片鱗は、かろうじて現代に伝わった彼の邸宅「一条恵観(えかん)山荘」(国指定重要文化財)に伝えられています。また晩年の彼に仕えていた「杉森信盛」という若い侍が後年、戯曲家「近松門左衛門」として開花するようですが(杉森家系図)、これにも「一条兼遐」の影響が推測されています(河竹繁俊「近松門左衛門」・吉川人物叢書)。
大人に成長してからはともかく、こういった性質の子供に「漢学」を強要するのはさすがに不憫というか、この「近衛前子」の教育ママゴン(死語)ぶりには、家庭教師の泰重も迷惑がっています。また「兼遐」の学問、行儀への不熱心さについては、後年「中院通村」(なかのいんみちむら、後述)もまた、彼に訓戒を垂れているようです(日下幸男「中院通村年譜稿 中年期元和三年~八年」)。
しかしながらこの“面々”は後年、「日本の歴史」において、兼遐の実の兄「後水尾天皇」と「大御所・徳川秀忠」が対立を深める中、誰もが知っている「寛永」という年号を生み出す立役者となり、加えて「朝廷と幕府の確執」が頂点に達した寛永六年(1629)の「後水尾天皇の突然の譲位」際の、「関白」→「摂政」(一条兼遐)であり、天皇の「腹心」(中院通村、土御門泰重)であった、という位置付けになります。
それはともかく、松澤克行氏が紹介された「家庭教師の苦労話」のエピソードは、「泰重卿記」(宮内庁蔵)という「土御門泰重」の日記からの引用であることを知り、行き当たりバッタリで調べ物をしていた私は今更ながら、初めてこの史料の存在を知ったわけでした。
そして「土御門泰重」が「一条兼遐の家庭教師」であったということは、当然彼は「一条邸」にしばしば出入りしているはずなので、或いは彼の日記に「故・一条内基」の未亡人である「塩川姉妹」もまた登場しているのではないか?との“淡い期待”を抱き、半信半疑ながら、図書館から「泰重卿記」三冊を借りて来ました。
そして「巻末索引」はなかったので、取りあえず全巻を「ざっと流して」みたら、本当に「慈光院殿」が出てきたのです(!!)。
「アラーは偉大…」もとい、「“荒木略記”は偉大なり!」という感じです(汗)。
なお、私は翻刻されたこの「泰重卿記」三巻分(寛永七年六月まで)を通読というか、全体に流してみて、この「土御門泰重」という、「誠実な人物」のファンになりました。
「日記」というものは“通して”読んでみると、一見「建前ばかり」かも知れない「漢字の羅列」に見えながらも、やはり「人柄」が滲み出るものだ、とあらためて知りました。
なお、宮内庁書陵部の「泰重卿記」自筆本はこの翻刻された分以外に、「寛永九年」「同十九年」「同二十年」及び「正保五年」分が所蔵されているようです。
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[塩川長満・姉の方は?]
ただ残念ながら、「荒木略記」(群書類従版)に「城之助殿御前は一條殿北之政所」と記された「織田信忠未亡人」である「姉」(徳寿院??)の方は一切登場しないのです…。
また前回「荒木略記」(林家本)においては彼女が「二條殿北之政所」と記されていることを紹介しましたが、この「土御門泰重」は元和五(1619)年七月十四日、「急死」した「二条昭実」の訃報に接してその翌「十五日」に「二条邸」にまで出向いており、その直前には「慈光院」にも会っているのです。しかしながら「十五日」における「慈光院」への用件としては、「中元」の「御礼参り」という要素のみが記され、「慈光院」の「姉」が「二条昭実の妻」であったならば「慈光院の義理の兄の死」でもあるはずにもかかわらず、「泰重」がこの日、一切の“お悔やみ”すら記していないことから、やはり私は、「姉」が「二條殿北之政所」だったという「林家本・荒木略記」の記述は誤りではないか、と感じています。これについては後述します。
また、慶長二十年(1615)より始まっている「泰重卿記」の記事は全て「一条内基の死後」であることから、加えて上記「一条か二条か問題」を検討してみた現時点における総合的な印象から、私は目下、「荒木略記・群書類従本」が記した通り、「一条内基」が「塩川姉妹の両名」を娶り、「姉」こと「北政所」の方は、慶長十六年(1611)の夫の死に伴い、出家して「徳寿院」となった彼女は「政所」の地位を「妹」に譲って「一条家」を離れ、かつての天正十一年(1583)に羽柴秀吉の「近江・坂本城」に“囲われていた”(連載第16回の[坂本城に“飼い殺し”された三法師とその母](リンク))時の“縁”から、坂本の「聖衆来迎寺」(大津市比叡辻)に隠棲したのではないか、と推測しています。
(聖衆来迎寺の「織田秀信母・徳寿院」の墓)
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[「一条兼遐」こと「一条昭良」おさらい]
なお「一条兼遐」は既に本稿第19回(リンク)において、後年の「一条昭良」の名で大々的にご登場頂いております。
なお「兼遐」は「かねとお」ではなく「かねはる」と読む方が正しいように思われます。(中村昌生氏(「数寄屋と五十年」P183、淡交社、2007)による。ほか「兼遐」と接触があった「林羅山」の後裔「林大学頭家」の手になる「続本朝通鑑」には「カネハル」とわざわざフリ仮名がふられています)
なお彼が寛永十三年(1636)に改名した「昭良」という、あたかも「故・二条昭実」からの偏諱(結果的に「足利義昭」由来でもある?)を思わせる実名は、私はこの「改名」自体が「一条家と二条家との関係融和」を象徴するものなのではないか?と思っています(つまりそれまでは「確執」があったということ)。
兼遐はまた、“茶関白”こと「恵観(えかん)禅閤」の名で、戦後、神奈川県鎌倉市に移築された「一条恵観山荘」を建てた人物としても知られています。
上:東福寺芬陀院 (ふんだいん)の「一条兼遐(昭良)」像
上:鎌倉市に移築される前の「一条恵観山荘」の旧地、彼の子孫「醍醐家」所有の「西賀茂邸」の昭和23年のステレオ空中写真
さらに「一条昭良」と「摂津・塩川氏」とを結ぶ、もうひとつの“ご縁”というか、ある「大事件」についても、連載第19回(リンク)に長々とご紹介しましたが、ここでもう一度“おさらい”しておきましょう。
以下は「尾山茂樹」氏の「備前キリシタン史」(1978)、及び、そこから引用、新たな情報をも加えられている「柏木輝久」氏による「大坂の陣 豊臣方人物事典」(2016)中の項目「塩川信濃」(塩川長満の子)において、既に詳述されております。
「一条昭良」は寛永年間半ば、彼の「養母」であった「慈光院」(後述)の実家である「摂津・塩川氏」との縁から、塩川長満の孫である「塩川八右衛門」とその「妹」の二人(慈光院の甥と姪にあたる)を養育、「宗門改め」の世話を経て、「備前・岡山の池田家」への仕官、及び、池田家臣・「湯浅家」への縁談をも斡旋推薦しているのです(岡山・池田家文書、池田光政日記、)。
なぜ「宗門改め」を経たか?といえば、「伏見で病死」した「八右衛門」らの「父親」が、大坂夏の陣において、キリシタン武将として知られる「明石掃部頭」の組下の武将であった「塩川信濃」(塩川長満の子)という、やはり「キリシタン」であったからです。
しかしこの「塩川八右衛門」もまた、結局キリシタンを棄てられなかったものとみられ、寛永二十一(1644)年に、彼と湯浅家に嫁いでいた「妹」、及び「八右衛門の母」を加えた三人に対して、幕府の大目付・宗門改役である「井上筑後守政重」からキリシタンとして告発されてしまいます。
(この「井上筑後守」は、アメリカ映画「沈黙 サイレンス」(原作:遠藤周作、マーチン・スコセッシ監督、2016)において俳優「イッセー・尾形」さんが演じられている奉行でもあります。)
この「告発」の知らせを受けて驚いた「一条昭良」は、書状を家司「保田主膳」に持たせて藩主「池田光政」に送っており(池田光政日記)、書状もまた今に伝わっています。
この書状については上記「尾山茂樹」氏が「備前キリシタン史」(1978、手書き印刷!)に翻刻及び詳細な情勢分析をなされています。なお、「塩川八右衛門」らの処分に関しては、連載第19回(リンク)を御参照下さい。
ともあれ、そんな塩川氏との関係やトラブルさえも“触媒”となって、「一条家」と岡山「池田家」との縁戚関係も深まり、それは結局、幕末まで継続したのでした。
[土御門泰重とは?]
さて、「一条兼遐の家庭教師」を依頼された「土御門泰重」(つちみかどやすしげ)の家である「土御門家」は、陰陽師「安倍家」の末裔としても知られ、家格としては禁裏御所の「昇殿」資格をもつ「堂上公家」の中では最下位にあたる「半家」に属しています。
木場明志氏の「江戸時代初期の土御門家とその職掌」(陰陽道叢書③近世、2017)によると、「泰重」の父「土御門久脩」(ひさなが)は、かつて「豊臣秀次事件」に連座した可能性があるらしく「豊臣秀吉」の晩年期に「追放」処分を受けています。
その後ようやく、慶長五年(1600)の「徳川家康」の“関ヶ原”の圧勝直後に朝廷への「再出仕」が認められ、以後は徳川家の「公家昵懇衆」として、比較的“徳川寄りの公家衆”となるなど、やや「山科言経」や「冷泉為満」らに似た経歴でした。
しかしながら、その後「朝廷と将軍家との軋轢」が強まってゆく中、特に「後水尾天皇」への「徳川和子」入内時の確執に伴い、元和五年(1619)に「徳川秀忠」の奏請により、「土御門久脩」が再び「出仕停止処分」(実際はあやうく「流罪」になりかけた)を受けるに至り、「土御門家」は反幕色を強めていきます。
こうした経緯により、「土御門泰重」は歴史上においては、彼の盟友「中院通村」(なかのいんみちむら)と共に、近世初頭の「徳川幕府による朝廷への圧迫」に対峙した「後水尾天皇」の“側近中の側近”としても知られる存在となっています。
さらに、元々「土御門久脩・泰重」親子は、「家職としての陰陽道を中心とする有職」に加え「連歌や漢詩詠誦、漢籍購読」にも造詣が深かったので、それを見込まれて「一条兼遐」の少年~青年期における「家庭教師」を「近衛前子」から直々に頼まれるに至り、「見廻」(パトロール)をも兼ねて、頻繁に「一条邸」に通うことになった、というわけでした。
上:京都御苑内西北部の一条邸跡付近(北から)
[あの”武田信玄の娘「松姫」”と「土御門家」との絡み]
なお、和田裕弘氏の「織田信忠」(中公新書)P46から孫引きさせていただくと、元亀三年(1572)に「織田信忠」と「武田信玄」の息女「松姫、のち信松尼」との縁談交渉を担当していたのが、「土御門泰重」の祖父にあたる「陰陽頭・土御門有脩」(ありなが)であったようです(遠藤珠紀氏の論考「織田信長子息と武田信玄息女の婚姻」から)。
それによると、この縁談交渉は当初、「明智光秀」に担当指名があったとのことですが、光秀が「坂本築城」で多忙であったためにこの「土御門有脩」に変更されたようです。
なお土御門家の収入源たる「旧・陰陽寮領」には、「若狭・遠敷郡・名田荘内上村」があり(日本荘園史大辞典、現・大飯郡おおい町)、土御門家は、戦乱時に他の多くの公家が荘園に下向したのと同様、しばしば若狭に下向しており、結果「若狭守護の武田氏」とも縁戚関係があったので(泰重の弟も「武田信勝」)、その「武田氏繋がり」から「土御門有脩」に白羽の矢が立ったのでしょうか。
なお土御門家と「若狭・名田荘」との関係については、最近復刊した「ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち」所収の「菅原正子」氏の論考「公家の生活基盤を支えていたものは何か」(P119-123)にも詳しく紹介されていますので、是非ご参照ください。
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[久保貴子氏の「後水尾天皇 千年の坂も踏みわけて」]
また、今回の本稿の「時代背景をつかむ媒体」としては、久保貴子氏の「後水尾天皇 千年の坂も踏みわけて」(ミネルヴァ書房、2008)の、特に「前半部」を併せて読んでいただければ、時代の緊張度を、時間軸で感じられるのではないかと思います。
今回の本稿の内容は、言わば「基礎資料のダイジェスト紹介」でもあり、「慈光院」という超マイナーな歴史人物を取り扱っているあたり、“非常に地味なコンテンツ”ではあるのですが、本書でこの当時の「時代背景」を知ることによって、実は彼女が「歴史の中枢部の傍らに居たのだ」ということを実感出来るようになります。
[大河ドラマ「葵 徳川三代」第30回~第49回]
加えて、平成12年(2000)に放映されたNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」(脚本:ジェームス三木)における、特に「第30回~第49回(最終回)」の視聴も、是非お薦めしたい「動画媒体」です。
この「最後20回分」に相当するくだりは、歴史的には「大坂夏の陣以後~徳川家光の盛期」に至る、「後水尾天皇」と「徳川秀忠・家光」時代における「朝廷と将軍家」間の、対立や融和を含めた“駆け引き”が主な見せ場となっています。
加えて、令和3年(2021)の今これを視聴してみると、「こういう(良い意味で)“重厚な”大河ドラマって、今はもう無いなぁ…」という観点においても、「時代の移り変わり」を感じさせてくれるものでもあります。
前回もご紹介した「水戸・彰考館」における「徳川光圀」(演:中村梅雀さん)らを“狂言廻し”にしたユニークな設定、演出、解説も秀逸で、正直、私はこのドラマをリアルタイムで観ていなかったことを後悔しています。
なお、研究者の方からみれば、幾分「朝廷 VS 幕府の対立」の側面が「ドラマチックに強調」されているキライがあるかもしれません。加えて、シリーズの初盤~中盤における「関ヶ原の合戦」~「大坂の陣」に至る描写の方は、今や「歴史叙述」自体が急速に“書き換えられつつある”ようですので、幾分「旧説によるドラマ」といった印象は拭えないかもしれません。
ともあれ、ここでお奨めしたいのは、「第30回以降」です。なんといっても「この時代」のことを殆んど何も知らない自分(汗)にとって、このドラマの最後20回分は優れた「入門ガイド」には違いありません。これはおそらく、「大半の歴史好き」の方々にとっても同様ではなかろうか、と思います。
今回の本稿に登場する「後水尾天皇」、「近衛信尋」(兼遐の実兄)、「近衛前子」や「中院通村(なかのいんみちむら)」などが、特に第46話の「女帝誕生」に至っては、「一条兼遐」(「明正天皇」の摂政、演:綱島郷太郎さん)や「土御門泰重」(演:佐藤裕四さん)も短時間ながら「セリフ付きで登場」していて、私は昨年(2020)の春頃、本稿を書きながらこのドラマにハマって「朝廷がんばれ~!」などとスポーツ観戦でもするように見入って(汗)おりました。
もちろん、さすがに「慈光院」自身は登場しないものの、実際にこれらの人物達と深い関係にもあった彼女が、まさに彼らの背景に居るのが感じられるドラマでした。
また、「荒木略記」を著わした「荒木元政」の主君「徳川忠長」もフィーチャーされているので、そういった意味においても中々レアな存在です。
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(2)初登場
さて、しつこい前置き解説(汗)はここまでにして、「泰重卿記」自体をどんどん呈示してまいります。
以下「泰重卿記(一~三)」(校訂:武部敏夫・川田貞夫・本田慧子、続群書類従完成会、1993・1998・2004)をメインに引用させていただき、「慈光院」が登場するくだりを年代順にご紹介していきます。
[元和三(1617)年十月廿九日、一条兼遐の快癒の祝いに]
「廿九日、辛酉、晴、禁中御番二番詰也、院御所(後陽成上皇の仙洞御所)御番三番詰也、則直参候、晩ニ一条殿(兼遐)伺公(しこう)候、今日御はしか御湯懸之目出度事(快癒)也、二荷二種・一樽進上也、御相伴衆 富小路秀直卿・予(泰重)也、上ハ國母(近衛前子)・故一条殿政所・近衛殿政所(前久後室)也、初夜過ニ院御番参候、今夜ハ院中衆不残退出、数多殿閣無主、寂莫トシテ 涙欄干」
まず、前半の舞台は「一条邸」です。
「土御門泰重」が家庭教師として仕えている「一条兼遐」(この時十三歳)は、去る二十日から「御はしか」を煩っていたという状態でしたが、ここ十日目にしてようやく「快癒の祝い」が行われており、泰重も祝いの酒等を持参すると、その場に「兼遐」の実母「近衛前子」や“前子の継母”にあたる「近衛殿政所」(故・近衛前久後室)に混じって、「故一条殿(内基)政所」が居合わせていました。
彼女こそ、まさに塩川長満の娘「慈光院」であることは、日記を読み進めるにつれ、次第にわかってまいります(!)。
なお「一条内基」はこの“6年前”である慶長十六年(1611)七月二日に薨去しており(公卿補任、言緒卿記など)、「慈光院」の戎号は夫の死に伴う落飾で授けられたものでしょう。
また「近衛殿政所」は「近衛前久後室」と註釈されいますが、彼女は「神龍院梵舜」の日記「舜旧記」にも晩年の「龍山」(前久)と共に「御新造」としてしばしば登場しています。彼女の出自等については目下把握しておりませんが、前久の嫡子「近衛信尹」の死の3年後でもあるこの時点で、「近衛前久後室」(信尹養母)が「近衛家政所」であったという事実は、冒頭で紹介した「二条晴良未亡人」(位子)の事例にやや似ています。
そして、この日記の末尾における、僅か「三十文字のくだり」も、歴史的には「大きな転換点の一断面」にあたるのです。
こちらの舞台は、前回の終章(リンク)において「山名禅高の連歌論(テニヲハ)」を所望された「後陽成上皇」の「院の御所」です。時期としては、あれから「四年後」にあたります。
「初夜過ニ院御番参候」とあるのは、この夜、「土御門泰重」が「院の御所」の「禁裏小番」という任務に着いたという意味です。
水野智之氏の「禁裏で天皇を警護する公家たち」(「ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち」P49)によれば、「禁裏小番とは、摂関家と大臣を除く公家が輪番で内裏や仙洞(上皇の御所)に宿直し、その警護にあたることを指す」もので、これは15世紀には制度化され、やがて上位の「内々衆」と下位の「外様衆」に分かれ、土御門泰重は「外様衆」に属していました(泰重卿記)。
この夜のくだりに話を戻すと、実はこの「院御所(仙洞御所)」の主であった「後陽成上皇」は、つい二ヶ月前の「八月二十六日」に「崩御」したばかり(!)、という時点にあたります。
泰重自身、上皇の崩御直前には「病気平癒」の祈祷「泰山府君祭」を行うなど、上皇の延命を祈願しましたが力及ばず、崩御の知らせを受けて祈祷を中止していました(木場明志氏前褐書)。
そして院の御所内部の什器等の搬出も、つい先ごろ終了したばかりであり、「今夜ハ院中衆不残退出、数多殿閣無主」といった有様で、この夜の仙洞御所は、土御門泰重が「輪番」に着いて以来、初めて、“主の居ない空虚なもの”となっていました。
泰重が「欄干」に滴らせた「涙」には、そういった“背景の重み”があったのです。
(3)「慈光院」、禁裏において“生御霊”(いきみたま)を祝われる(“御目出度事”という行事)
[元和四(1618)年七月十日、慈光院への「御目出度」?]
「十日、丙申、晴、召候、智光院(慈光院)殿へ御目出度ニ御成候、予御相伴也」
この日「土御門泰重」は禁裏に召されて「智光院殿」への「御目出度」(おめでた)に「御相伴」しています。
ついに「智光院」(じこういん)という名前が登場しましたが、この人物が既出の「故一条殿政所」と同一人物である「慈光院」を指すことは次第に判ってまいります。
ところで、禁裏におけるこの「御目出度」(おめでた)とはいったい何なのでしょうか?。
「泰重卿記」に出現する他の「御目出度事」の記事をざっと流して見ると、元和五(1619)年「七月七日」に「近衛政所殿(近衛前久後室)御目出度事 御呼被成候故 則伺公申候 晩雨降申候 琴御傳授也」と、泰重が呼ばれており、その四日後の「七月十一日」には「一条殿(兼遐)御目出度事在之也」があり、これには泰重ほか十三名が招かれて「午より四ツ時分(午後10時)まて大御酒也」とありました。他にも「元和九年(1623)七月九日」に「家君(泰重の父・久脩、ひさなが)御目出度事」や「御所(近衛前子か)御目出度事」というのもあります。
また寛永三年(1626)七月七日には、「禁中御盃伺公申候、則御目出度事也」という記事があり、どうやらこれは「泰重本人」への「御目出度」で「後水尾天皇」から「御盃」が下されているようです。泰重へは寛永六年(1629)七月九日にも「予 目出度事申候」と「盃献酬」されています。
「日付」は、「七月」の「七日」「九日」「十日」「十一日」などと、時期としては七月七日から十一日という、「七夕」と「盂蘭盆会」(お盆)や「中元」(七月十五日)の間に行われているようです。
どうやらこの「御目出度」とはこの時期に、何らかの理由で特定の人物に、天皇も交えて御祝い事をする「宮中行事」のようです。
要するに、禁裏において「慈光院」個人が「祝われている」わけです。
[禁裏における「御目出度事」とは?]
「御目出度事」について調べてみると、江戸時代後期の幕府御家人で国学者でもあった「屋代弘賢」(1758-1841)が著わした「古今要覧稿・第1巻 神祇部、姓氏部、時令部」(国書刊行会1907、国立国会図書館デジタルコレクション)の「巻第六十九 いきみたま(生御霊 生見玉 御めでた)」という項目にその解説が出ています。
それによれば、この行事は元々「盂蘭盆会」に父母を「生前時(生見玉)に祝う」世俗の風習が公家にも伝わって、寛正期頃(15世紀)より記録が現れ、次第に「五献目の天酌(天皇のお酌)」や「音曲」を含む「全七献」の宴席のスタイルが確立されてゆき、どうやら参内資格のある者が不特定順繰りに指名、招待されて祝われている饗宴のようです。
なお「御めてた事」の記録は「お湯殿の上日記」の各年七月七日~十三日頃にも詳しく記されていますが、大変残念ながら、上記「泰重卿記」と重複する「後水尾天皇」の時代の日記を欠いています。
また「お湯殿の上日記」天正十四年(1586)年には、七月九日における「七こん」の賑やかな「御めてた」とは別に、十二日に「とんけいんとの(尼である曇華院門跡)御めてた事」が「御みまにて御さか月(盃)二こんまいる」などといった「一~三献」のものも見られるので、賑やかな全「七献」のものと、静かな「略式」のものとがあったようです。
おそらく祝われる側の年齢や性格、体力、「酒との相性」や、「御相伴の人選」等も配慮されたうえで準備されたものと思われます。
「泰重卿記」に記された上記「慈光院」への饗応は、おそらく「やや静かな略式」のもので、一方の「一条殿(兼遐)」へのものは「フルバージョンの方」ではなかったかと思われます。
なお、「お湯殿の上日記」には「御めてた事」の「会場」として、「御みま」、「御さと」(里内裏?)、「つねの御所」(常御殿)、「あわ」、「きてう所」(几張所)、「申のくち」(申口の間)、「御かくもん所」(学問所)、「く御」(供御?)等の記載がみられ、「固定された儀式」とは違った、祝われる側の立場に応じたバリエーション豊富なものであったのでしょう。
また「山科言継」も元亀二年(1571)七月十三日に、宮中「議定所」で開催された「禁裏御目出事」に他の「廿三人」と共に招かれており、「暮々」から「子刻」(午前0時)まで、「正親町天皇」による「五獻天酌」を含む「七獻(献)」、および「三獻より音曲如例」の接待を受けています。(言継卿記)
ともあれ「教師生活25年!」ではなく(汗)「塩川氏研究25年!」、地味な一”国人”のつもりで調べて来た「塩川氏」でしたが、ついに「塩川長満の娘」が宮中において「天皇からお酌」をされて祝われているらしい”記録”に出会い、今や“感慨”をも禁じえない「塩ゴカ」でございます。
加えて(これは言わずもながですが)「慈光院」がやはり「五位以上」の「女叙位」を受けて「昇殿」が出来る位階を持っていたということになります。
金井静香氏の「北政所考 中世社会における公家女性」などの論考を概観させていただくと、摂関家の正妻であれば、少なくとも「北政所」であれば「従三位」の叙位が規定であったようではあります。
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なお、「御目出度事」を受ける人選の基準についてはよくわかりません。
私ははじめ、「還暦」など、年齢に関わる祝い事かと思い、もし塩川長満の娘・「妹」が、天正九(1581)年に「十三歳」で「池田元助」に嫁いだと仮定」すると、この元和四(1618)年には「五十歳」であり、嫁いだのが「二十三歳」であれば「六十歳」だが…などと考えたりしました。
しかしながら、「泰重卿記」における「祝われる側」の年齢は、「一条兼遐」が十五歳、「土御門久脩」六十四歳、「近衛前子」四十九歳、「土御門泰重」は四十一、及び四十四歳にあたり、その「法則性」がよく判りませんが、“年配者ほど例年に渡って祝われる”傾向もあって、元々の「父母を“生前時(生見玉)に祝う”世俗の風習」の名残を思わせます。
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(4)「一条家政所」としての「御振舞」
[元和四(1618)年七月十八日、慈光院主催の「御振舞」]
「十八日、甲辰、雨気、御灵祭礼、御物忌、禁中三十枚、女院(勧修寺晴子)・國母(近衛前子)廿枚宛進上申候也、朝飯一条殿にて御相伴、倉橋(泰重の弟)同道申候、智光院(慈光院)殿御振舞、終日御慰、薄暮御帰候、清涼殿奉行御服御風はめの故 召候へとも、留主不参也」
仏教では盆明けにあたる時期です。
陰陽師でもある土御門泰重が禁中等に配っているのは「御霊会物忌」の札らしく、これは毎年恒例の彼の「職務」であるようです。
その記事以外のこの日の大半は、泰重は弟と共に「一条兼遐邸」において、なんと「智光院殿」(慈光院)による「御振舞」(接待)を受けているのです。
この行為は、彼女が「一条家政所(家政機関の長)」であるからでしょう。
また「終日御慰(接待いただいた)」及び「御帰」の主語も、智光院(慈光院)を指すようなので、彼女は「一条邸」とは別の場所に居住していたのでしょうか。
なお「慈光院邸」の位置は不明ながら、私は慶長十七年(1612)頃に描かれた「中むかし公家町絵図」(左下に見えます・京都府歴彩館蔵)に描かれた「一條殿」の「北に隣接する無記名」の一画こそがそれではないかと推定しています。
上画像:東から見た「慈光院邸?」跡(右絵図赤色)あたり。青色が「一條殿」。緑色が当時の「後陽成院の仙洞御所」区画で、写真の御所西北隅にほぼ一致すると思われる。
そしてこの区画は元々、この絵図作成の前年に没した「故・一条内基」の最晩年の隠居所であったと思われます。
「中むかし公家町絵図」において、「摂関家のいんきょ邸」が「当主宅に接している例」としては、「九条殿」と「鷹司殿」があります。また「こんゑ殿まん所(近衛殿政所)」邸も、「近衛邸」から通りを挟んだ「東隣」に近接しています。これらは便宜性を考慮すれば当然でしょう。
ともあれ、理由は不明ながら、同絵図における「一條殿」の区画は、他の摂家に比べて異常なまでに“狭い”ので、「慈光院邸」が本邸と「別」に在ったことは極めて自然であり、且つ、次に紹介する記事にも整合しています。
[元和四(1618)年七月廿五日]
「辛亥、晴、晩一条殿致伺公、智光院(慈光院)殿御供仕参候、持参ほしひ(乾飯)十裹(つつみ)」
これも「晩に智光院(慈光院)殿の御供をして一条邸に伺候した」と読めるので、やはり彼女は(北隣の?)「別邸」に住んで居たのではないでしょうか?
(5)関白「二条昭実」の訃報に接するも、「姉の夫」であった気配は?
[元和五(1619)年七月十四、“盂蘭盆会”の最中、「関白・二条昭実」の訃報が!]
「十四日、晴、將來(精霊)マツリ、糺林(ただすのはやし、下鴨社)ニ 家公(父・久脩)御供仕涼、及夕陽罷帰候、二条関白殿薨給之由、公私之御為偏笑止千万難申盡存候、御灯籠見物御禁制也、二条殿御死去之故也」
お盆の最中のこの日、父と共に下鴨社「精霊祀り」から帰宅した泰重に、なんと関白「二条昭実」が急死したという驚くべき知らせが舞い込みました(享年六十四)。そのため、天皇の「御灯籠見物」もまた中止となりました。
なお、中盤は「公私の御為、偏(ひとえに)笑止千万の難、申盡(もうすままに)存じ候」と読み下すのか?このくだりは「笑止千万」のフレーズから軽々しく「意訳」することが憚られるように思えます。
豊臣氏滅亡以降、徳川家の肝煎りで二度目の「関白」に任じられた「二条昭実」は、「禁中并公家諸法度」に朝廷側を代表して署名するなど、「朝廷VS幕府の対立」のイメージにおいては、「やや幕府寄り」或いは「両者の軋轢で死んだ」等の印象が根強くあり(「公卿人名大事典」では「中風で没す」とある)、前述の大河ドラマ、「葵 徳川三代」においては「寺田農」さん演じる「二条昭実」が、「徳川和子入内」前の朝廷側の不祥事を「徳川秀忠」(演:西田敏行さん)に咎められた「ストレス」から、“伏見城で急死”するという「ドラマ演出」(それ自体は"フィクション")もなされていました。
なお、「近衛前子」の腹心でもある「土御門泰重」は、かつて前子の兄「故・近衛信尹」と関白の地位を争った(関白相論)「二条昭実」を快く思っていない可能性が高く、元和六年(1620)十一月廿五日における「近衛信尹七回忌」の法要記事に文字数を割いているのに比べ「泰重卿記」における「二条昭実」の記事自体、稀少であり、上記の記事も私には“冷淡すぎる”印象を受けてしまいます。
ともあれ、本稿において最重要なのはこの問題ではなく、前回特集した「慈光院」の「姉」(織田信忠未亡人)が「一条内基」か「二条昭実」いずれの「北政所」だったか?という事についてです。
というのは、冒頭でも触れましたが、「姉」がもし「二条昭実の北政所」であったとすれば、今回「慈光院の義理の兄が死んだ」ということになるからです。ともあれ「慈光院」も登場する「翌日の日記」を見てみましょう。
[元和五(1619)年七月十五日、「慈光院」には「中元の挨拶」のみ?]
「十五日、丙申、祝義過御所へ致伺公候、國母様・女院御所様・一条殿・近衛殿(信尋)・同政所殿(近衛前久後室)・地光院(慈光院)殿へ御礼申入候、二条殿御門外まて参候、申置罷帰候、晩雨降」
時期としてはまさに「盆」にあたりますが、「陰陽道」を司る「土御門泰重」としては、この「祝義」はむしろ「中元」に関係するものと思われます。
しかもこの日、泰重はなんと「地光院殿」(慈光院)にも会っているのですが、用件としてはあくまで「祝義の御礼申入」の相手のひとりであり、もし「慈光院」の「姉」が「二条昭実」の「北政所」であるならば、彼女にとって「義理の兄の死」でもあるはずなので、「泰重」が一切の“お悔やみ”や“喪中”に関する事を記していない点、やはり塩川長満娘(「姉」)は「二条昭実妻」ではなかったのでは?。もっとも、こういった話題を「泰重が敢えて記述しなかった」という可能性もあります。
泰重はその後、「二条殿御門外まて参候、申置罷帰候」と、「二条邸の門外」で「申置」いた、とある方は「お悔やみ」を述べに参上したのでしょう。加えて「御門外」であったというのは、「家格」や「親密度」、或いは「死穢」を避けて(?)、弔問を済ませたようにも思え、それは「十五日の最後に」二条家を訪問している点からも類推されます。
なお日記では翌十六日、十七日条共には「晴、晩雨降」とのみ記されています。そしてさらに翌日…
[元和五(1619)年七月十八日、「一条殿御養母地光院」の記述、そして近衛前子が一条邸に来訪]
「十八日、己亥、晴、物忌、禁中・女院御所・國母 進上申上候、昼 一條殿へ國母様御成候、予 御取持致伺公候、供献上候而 入夜還御也、一条殿御養母地光院(慈光院)との御出候、今昼 従禁中 御双子虫掃ニ召候へも、一條殿ヨリ御理(断り)ニテ不参也、未刻雨気、頓而(やがて)晴天也」
冒頭の「物忌」は“二条昭実の死”とは関係なく、例年恒例の「御霊会物忌」の「札」を「進上」する行事のことです(上記の元和四(1618)年七月十八日項参照)。
そしてまず特筆すべき事は、この日、初めて「一条殿御養母地光院との」(慈光院)というフレーズが記されている(!!)ことで、この「じこういん」こと「故・一條殿(内基)政所」の立場が「一条兼遐」の「養母」であることが明記され、これまで積み上げてきた岡山、鳥取の「池田家文書」類や「荒木略記」、「高代寺日記」、妙心寺「慈雲院」の墓石、等の情報とも合わせて、彼女の一条家における存在と地位は、もはや疑いのないものとなりました。
そして昼間、泰重の「御取持」によって「國母」こと「近衛前子」は「一条兼遐」邸に赴き、夜に「還御」しています。
なお、この会合自体、泰重自身が設定した為、彼は宮中から呼ばれた「御双子虫掃」(書物の虫干行事か)参加を「一条兼遐」を通じてわざわざ欠席させてもらっています。
そして「前子」による「供献上」とあるのは「御霊会物忌」に伴うものでしょう。というのは、翌年同日の「中和門院(前子)御所」における「御霊会物忌」時の記事にも「御供献下」の文字があるからです。ともあれ「慈光院」が「御出候」とあるので、彼女は「近衛前子」に対面しています。
この文中においては、四日前死んだ「二条昭実」に関する「喪中」を思わせる記述は一応ありません。
ただ、もし「二条昭実」の「北之政所」が「慈光院」の「姉」(織田信忠未亡人)であったとすれば…
「国母 近衛前子」がこの日に一条邸を訪れる事は「例年」にはない事なので、「二条昭実は"政敵"ではあったが「慈光院殿」の「義理の兄」にあたるので、特別にお見舞い申し上げた」といった解釈も、或いは可能かもしれません。
「一条か?二条か?問題」、依然引きずっております…
(6)徐々に貫禄を見せてゆく「慈光院」
[元和六(1620)年二月一日、「後水尾天皇」の私的「御振舞」に「慈光院」と御相伴]
「一日、己酉、雨天、政所殿(近衛前久後室)・近衛殿(信尋) 韓長老(文英清韓)講尺・一条殿御礼、各御對面、白衣ニテ和泉殿局まて國母様(近衛前子)へ御礼申上候、御前召候故、俄ニ狩衣取寄罷出候、御振舞御相伴、一条殿御養母(慈光院)御出候」
これは「月はじめの御礼参り」だと思うのですが、最後の「御前召候故」のくだりは「後水尾天皇」に呼ばれたという意味でしょう。「私的な振舞」なので、あわてて業務上の「白衣」から、普段着である「狩衣」に着替えて出直した、ということのようです。
この天皇の御前に「一条殿御養母」(慈光院)が同席しているのがなんとも凄い。
なお前年九月、「徳川和子入内」前のトラブル(四辻公遠の娘“およつ”御寮人が天皇の子を懐妊した)への復讐か?、泰重の父「久脩」ら六人が「公家衆行儀法度」逸脱を理由に、徳川秀忠の執奏による「禁裏出仕停止」(うち三人は流罪)の処分を受けており、既に泰重の幕府への「怒り」には火が着いており、「後水尾天皇」自身もまた、抗議の意味を込めて前年十月に「譲位」の意向を幕府に伝えているほどで、それはまた「徳川和子入内」を反故にするものでもありました。
そして問題解決に向けて、現在朝廷側の「近衛信尋」と、幕府の京都所司代「板倉勝重」及び「藤堂高虎」の両者が、上記六人の「赦免」に向けて交渉中、という時勢における天皇の「私的会合」なのです。
繰り返しますが、そんな場に「慈光院」が同席しているのです。
[元和六(1620)年四月八日]
「八日、丙辰、晴、従一条殿御養母(慈光院) 沙糖桶三ツ・錫一双預御音信候、御点取御聊句廻候」
「慈光院」から贈られた「砂糖」は、この時代に急速に普及し出した「新しい甘味料」でした。
また私はこの「錫(一双)」の意味が判らなくて随分苦しみましたが(汗)、今風に言えば「お銚子2本」の酒なんですね。
最後の「御点取御聊句廻候」は「後水尾天皇」に対するものでしょう。
そして「女御・徳川和子」の入内は二ヶ月後に迫っています。既に「入内」と引き換えに、「流罪」や「出仕停止」処分を受けていた上記「六人の公家衆」には「大赦」が内定していたようです(久保貴子氏「後水尾天皇」P51-52)。
[元和七(1621)年正月十八日]
「辛酉、神事、晴、飯 飯(後カ)御番参候、蒙求表題不審 紙付返仕候、未刻 一条殿御養母(慈光院) 一条殿にて 御振舞伺公、予(泰重)・五条(為適)・櫛笥(くしげ、隆朝)・橋本(實村)・白川侍従(雅陳)等也、大酒沈酔罷帰候、晩ト宿ニハ倉橋被参候」
これは「一条家」における“正月明け”の「左義長」(さぎちょう)の振舞を、「一条殿御養母」(慈光院)が主催しているという記事で、またもや「一条家の家政」を仕切っている彼女の「貫禄」、「面目躍如」といったところです。
一方の振舞われている側は皆、一条家の「家礼」、「門流」を勤める「半家」の公家衆でしょうか。
なお原文では「一条殿にて」の部分は「割り註」ですが、敢えて「一条殿にて」と記されているのは、やはり「慈光院」が日常的には「別宅」に住んでいるからではないでしょうか。
[元和七(1621)年二月一日、初めて「慈光院」が正しく表記される]
「一日、癸酉、晴、午時 近衛政所殿(前久後室・寶樹院)御礼、御見参也、近衛殿(信尋)御留主也、一条殿(兼遐)御對面、御振舞御相伴也、晩ニ 三宮様(好仁親王)御成、又 慈光院殿 御出也、屢(しばし)侍、頓而(やがて)帰宅申候」
「二月一日」の「御礼」は毎年恒例のようですが、今回は「近衛政所殿」(龍山(前久)未亡人)が近衛邸?に挨拶に出向いています。慶長十七年の「中むかし公家町絵図」においては、「こんゑ殿まん所(近衛殿政所)」邸が「近衛邸」から通りを挟んだ「東隣」に近接しています。
上:京都御苑北端付近。17世紀初頭には、中央の通りを挟んで左が「近衛邸」、右手前が「近衛殿政所邸」だった
この日、当主「近衛信尋」(左大臣、彼女の“孫”にあたる)が留守だったので、実弟「一条兼遐」が代りに「御対面」しています。また「三宮様(好仁親王)」はちょうど「近衛信尋」と「一条兼遐」に挟まれた兄弟にあたります。
そして「慈光院」もまた同席していますが、「土御門泰重」はここで初めて「慈光院」を正しく漢字表記しています。以後暫くこの表記で定着します。
(7)一条家と中和門院(近衛前子)との間に小トラブル発生!?土御門泰重は事態を解決すべく、慈光院と相談する。
[元和七(1621)年三月四日]
「四日、丙午、晴、慈光院殿 御見廻申入候、御見参、入江民部權少輔(則量)事 申出候、言語断道(道断)曲事(くせごと)也、雖然(しかりといえども)何とそ申直候ハんよし 各談合申合候也、晩 女院(中和門院・近衛前子)御所へ致伺公候、依召也、」
さて、本章こそは今回のまさに“ハイライト~☆”であります(!)。
この日、泰重が相談をもちかけた「問題」というのがいったい何であったのか、私は未だに把握しておりませんが、ともあれ、一条家の家政を担う「家司の長」というべき「諸大夫」(しょだいぶ)の「入江則量」が、何やら「言語道断」の「手違い」?をおかしたようなのです。
1/28追記 : 橋本政宣編「公家事典」の「諸大夫」の項(P954)「一条家諸大夫入江家」系図には、「入江則量」が「二代目」として記されており、「入江家」はおそらく「土佐一条家」から本家の諸大夫に移った、一条家の「家司」としては比較的新しい家なのでしょう。
土御門泰重は「何とそ申直候ハんよし」(この件、なんとか修正、撤回できないか?)と「慈光院」邸を訪れ、二人は共に合意に達した模様です。これまた「慈光院」がまさに「一条家政所」(家政機関のトップ)に他ならないからです。
その後泰重は「女院(近衛前子)」にも呼ばれています。(近衛前子は前年六月の「徳川和子入内」の折に「中和門院」(ちゅうかもんいん)の院号を下されています。)
本件はどうやら「一条家」と「近衛家」との間に発生した「公的なトラブル」というか何か「手違い」のようなのです。
なお「一条兼遐」はこの年正月に「右大臣」になったばかりであり、「正二位」で「右大将」も兼ねています。兄「近衛信尋」は昨年以来「従一位」「左大臣」です。
なお、土御門泰重は「一条兼遐」を頻繁に訪れてはいるものの、これまで一条家の「家政」に触れたことはありません。
むしろ泰重自身は「近衛家」の「門流」、もしくは「家礼」というのか、まさに「近衛前子」の「腹心」として諸事動いています。
よって、泰重はこの場合、「近衛」と「一条」両家を取り持つ存在であり、その相談を持ちかけた相手は「一条兼遐」(十七歳、右大臣)自身にではなく「慈光院」であったという機微は、こんにちの例で申せば「タレント」と「芸能事務所」との関係に似ているでしょう。
「一条兼遐事務所」の「社長」(慈光院)に対して、同社の「部長」(入江則量)が公的な場でやっちまった“ボタンの掛け違い”の修復を持ちかけた、といったところでしょう。
ささやかながら本件は、「慈光院」自身が「歴史の表舞台に引っ張り上げられた」観があります。
[元和七(1621)年三月十六日]
「十六日、戌午、雨天、頓而晴、今日九郎右衛門來也、懇切之返事有之也、慈光院殿へ女院御所(中和門院前子)之依仰(おおせにより) 御使伺公申候」
上記の「相談」から12日後の条です。泰重は「近衛前子」のメッセージを伝えるべく「慈光院」邸を訪れています。というのは、前日「十五日条」の末尾に「入夜 女院召也、則致伺公候」とあるからです。
なお冒頭の「關(関)九郎右衛門」は、二日前の十四日の条に「諸白(もろはく、酒)一荷書状遣候」とあるので、その返礼に来たようです。
[元和七(1621)年三月二十日]
「廿日、壬戌、雨天、頓而晴、慈光院殿御使、權三郎、一条殿召□□(虫喰)条 肝煎(きもいり)可申候由候、畏之由 御返事申入、則参候、慈光院殿御口承、其以後 權三郎同道仕、一条殿御礼申させ候、其以後 女院御所様(近衛前子)御たい所まてめし連 御理申上候、帰宅、午時 一条殿御一巡被下候」
さらに4日後のこの日、土御門泰重は「奔走」しまくっています。
まず泰重の元に「慈光院」の使者「權三郎」が来訪して「一条兼遐」自身が(?)力を貸してくれる旨を伝え、泰重は速攻で「慈光院」を訪ねて直接彼女からも話しを聴き、そのまま折り返し「權三郎」を伴って、まず「一条兼遐」に御礼を申し上げ、さらには女院御所に出向いて「中和門院」(近衛前子)にも「權三郎」を引き合わせて今回の件を伝えています。
そして昼に帰宅すると、一条兼遐から「御一巡下され候」とあるので、これは或いは、例えば事態解決に繋がる関連資料(??)などを一式(一巡)渡されたという意味でしょうか。
[元和七(1621)年四月十二日]
「癸未、晴、未刻雨降也、中院(なかのいん・通村)へ振舞参候、女院御所へ伺公申候、依召也、權少輔(入江則量)事 御侘言申入候、御合点、萬目出度(よろずめでたく)存候事候」
さらに22日後、土御門泰重は未刻(午後2時)頃に、彼の盟友「中院通村」の「振舞」にあずかったのち、近衛前子に呼ばれて女院御所に出向きます。
「御侘言申入候」というのは「一条家」側からのものなのか?、ともかく「ボタンの掛け違い」の原因が判った、という雰囲気があり、「事態の解決も近い」様相が窺える記事です。
[元和七(1621)年四月十四日、「細川忠興邸」で朝食を、「慈光院邸」で夕食を]
「十四日、乙酉、晴、朝飯ニ細川三斎(忠興)へ参候、飯後 罷帰さまに同内記(細川忠利)見廻申候、晩 慈光院殿参候、入江民部權少輔(則量)事 為御談合也、夕供御(食膳)御振舞」
その2日後のこの記事、極めて短いものながら、この日の「登場人物の組合せ」またなんとも凄すぎて、ある意味「日本史」の縮図を観るようでもあり、私としてはその「説明」が超大変(汗)です。
[「土御門泰重」は「細川忠興」のイトコ筋だった!?]
まず「土御門泰重」が「細川忠興」邸で気軽に(?)「朝飯」を食べているのは何故なのか?
実は「土御門泰重」の「母親」は「系図纂要・安倍氏」には「細川伊豆守女」と記されています。
「細川伊豆守」なんて知らんぞ、と言われそうですが、近年話題の「細川藤孝の出自問題」に敏感な方には「ピンとくる名前」であるようです。あと、足利義晴クラスタの方々にも。
「忠興」の父「細川藤孝」(幽斎)は、従来「三淵晴員」の次男として「和泉上守護・細川元常」の養子となったと云われ続けてきました。
以下、小川剛生氏の「細川幽斎 人と時代」(「細川幽斎 戦塵の中の学芸」所収、2010)、及びサイト「佐々木哲学校」さん(2013,12,19)から引用、孫引きさせて頂くと、
「細川藤孝」が「細川元常の養子」だった、というのは後世の比定であり、(前回紹介した)17世紀半ばの「寛永諸家系図伝」の系図あたりが「ボタンの掛け違い」の始まりのようですが、元々「寛永諸家系~」編纂時における調査においては、「故・細川幽斎」や当時“九十歳”であった侍女「しゆゑい」の証言により、「細川藤孝」(幽斎)の“養父”が「伊豆守細川高久、刑部少輔晴広父子」という「謎の」人物であったことが証言されていました。
しかし結局彼女らの証言は無視されてしまい、後世の「綿考輯録」や系図類において、この「藤孝は細川元常の養子 説」は定着、定説化されてしまいました。
それを近年、設楽薫氏の「足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察」(遥かなる中世(2001)、及び、「足利義晴」(戎光祥 2017)に再録)、及び、山田康宏氏の「細川幽斎の養父について」(日本歴史、2009)により、この江戸前期の「伊豆守細川高久、刑部少輔晴広父子」に養われたという、「しゆゑい」らの「証言」が400年ぶりに正しかったことが提唱、復権されて話題になったようです。
なおこの「細川伊豆守高久」は、「守護大名細川氏」とは何ら血縁関係がなく、なんと「佐々木六角氏」の一族「大原氏」(奉公衆)の出身でした(上記 設楽薫氏による)。
「細川藤孝」が生まれた年である天文三年(1534)、将軍「足利義晴」の幕府は、「六角定頼」の庇護のもと「近江・観音寺城」山の中腹の「桑実寺」に在りました。
「細川伊豆守高久」はその折、将軍「義晴」を輔佐する「内談衆」として、「三淵晴員」と「朋輩」の関係にあったようです。(伊豆守は「大館常興日記」に「豆州」として頻出しています)
(この非常にややこしい問題については「右京大夫政元」さんの優れた動画解説(オールナイト幕府#10)もあり、お奨めです。一瞬ながら(解説は無いのですが)、「土御門文書」に「細川晴久が“又次郎”と見える」旨の“スライド”も映ります。(2021.12.15追記 :「細川又次郎」の出典は、 上記 設楽薫氏の「足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察」の註記29番参照のこと。さらに泰重の父、土御門久脩の「久」の字は、その岳父「細川伊豆頭高久」からの偏諱であったであろうことにも今更ながら気付かされました ! 。因みに「泰重」の「重」もまた、その岳父「織田信重」からの偏諱であったらしい事には次回で触れています。)
また小川剛生氏(前褐書)によれば、「藤孝」の母方「清原氏」による証言を基にしたという「藤孝の実父が足利義晴である説」(藤孝事記)というものまであり、となれば「細川藤孝」は、「足利義輝」や「義昭」の「兄弟」であったことになり、これもまた決して荒唐無稽な解釈でもないようです。
目下、話が反れまくっている(汗)ように見えますが、「細川藤孝」の「養祖父」であった「細川伊豆守」の娘を母とする「土御門泰重」(系図纂要)の日記「泰重卿記」には、「細川忠興」や「忠利」、「三淵藤十郎」といった名前が、非常に近しい「人間関係」としてしばしば出ており、それはまさに上記の論考を補完するものでもありましょう。
[“公家同士”の会合?、それとも“武家同士”?]
さて話を戻しまして(ため息)、ともあれ「土御門泰重」はこの日、まず「イトコ筋」?にあたる「細川忠興」の邸で「朝食」によばれ、晩に「慈光院」を訪問して相談したのち、ここでも「晩飯」をよばれているのです。
「土御門泰重は上手くメシ代を浮かせたなぁ~」ではなく(汗)、「慈光院」がいかにも「歴史に参加していたのだなあ~!」という実感が迫ってきませんか?。
そして「入江民部權少輔(則量)事 為御談合也」とあるので、二人の間で、件の「一条家諸大夫」に起因する問題解決に向けて、着々と進行が続けられているようです。
そしてこの二人、表面的には「一条家政所」(慈光院)と「陰陽師 兼 一条兼遐の教師 兼 後水尾天皇、近衛前子の“腹心”」(泰重)との会合ではありますが、見方を変えると、前者は「塩川氏と伊丹氏のハーフ 兼 池田元助未亡人」でもあり、後者もまた「佐々木六角氏被官大原氏(奉公衆)」の血筋が流れており「細川幽斎、忠興」や「若狭武田氏」とも「縁戚」でもあって、しかもこの両者とも「織田家」と血縁関係があり、互いの親、祖父の世代はかつて「足利義晴」の下で奔走していたのです。(2021.12.18追記 : そう言えば、細川忠興は故「織田信忠」から「忠」の字を拝領しており(系図纂要)、「信忠」は慈光院の義理の兄でもあり、彼女の亡夫「池田元助」は「信忠」の仮名「勘九郎」から「九郎」を賜って「勝九郎」と称していた(和田裕弘「織田信忠」)という繋がりでもありました。)
この両者のみならず、この時代は「公家と武家」が誠に複雑に絡み合っている、という「余談」でありました。
[元和七(1621)年四月二十九日、事件はほぼ解決、打ち上げ@女院御所]
「廿九日、庚子、雨天、今晩女院御所より召候、則伺公申候、諸白大樽一ツ進上申候、御酒一段風味相勝、御満足之由仰也、慈光院殿御参候也、權少輔(入江則量)事相濟也、一条殿御詫言被仰出候へとも難成事也」
さらに15日後、様相一転して「問題解決後の御祝い」の雰囲気です。
晩に「中和門院」(近衛前子)に呼ばれた泰重は「諸白大樽」を持参、酒は旨いし「中和門院」も「御満足」だし、「慈光院殿」も同席しているし、万事めでたしめでたし!という感じです。
但し最後に「一条殿御詫言被仰出候へとも難成事也」とあるのは、「一条兼遐」が本件についてお詫びしたい旨おっしゃっているけれども、やはり公的には難しいだろう、といったところでしょうか。
[元和七(1621)年四月三十日]
「卅日、辛丑、雨天、午晴、御聊句御會、五吟也、柔長老(剛外令柔)・光西堂・勝西堂・予(泰重)・御製(後水尾帝)等也、御會相漫(充実して)、柔長老白御祫三ツ拜領也、初夜時分 相漫退出也、一条殿御衆 御車寄相付、待被申候、則同道仕、民部權少輔(入江則量)事申置候也」
翌日雨上がりの午後、泰重は「後水尾天皇」の「御聊句御會」に参内、充実した内容に満足しています。
そして宵の口、御所の「車寄せ」まで出たところ、「一条家の家司達」が待機していたので「同道」し、今回の「民部權少輔(入江則量)事」の処置などを伝えたようです。
このようにわざわざ「道中で話した」ということは、今回の件がやはり「公的に処置」出来る性格のものではなかったのでしょう。それにしてもこの場面、「映画」や「ドラマ」によくある「ラスト近くのシーン」みたいなシチュエーションでもあり、「映像」がまざまざと浮んでしまいます。
[元和七(1621)年七月十六日]
「十六日、丙辰、晴、申刻雨降、慈光院殿御礼申入候」
これは中元(盆)時における挨拶まわりの一環です。
この年「土御門泰重」は、七月十四日に「中院道村」、「高倉永慶」と共に泉湧寺の「後陽成院」の墓に参詣し、翌十五日には宮中の燈籠(泰重が製作を担当したらしい)を見るべく参内した後、「一条兼遐」、「近衛信尋」(共に対面出来ず)、「中和門院・前子」、「近衛殿政所」(近衛前久後室)、「三宮」(好仁親王、近衛前子の子)といった「近衛家血縁者」に挨拶廻りに出向いています。
しかし今年のように泰重がわざわざ「慈光院」にだけ、挨拶に出向く事は例年にはなく、やはり三~四月の一連の出来事が反映されているのでしょう。
[元和七(1621)年七月二十二日、慈光院、土御門泰重を招待する]
「廿二日、壬戌、晴、慈光院殿 御振舞伺公申候、事外(ことのほか)御奔走、器物以下新造也、晩雨降、帰宅、門外 中院黄門(中納言通村)行逢、御灵(霊)参社同道申候」
さらに6日後、今度は「慈光院側」からの返礼でありましょう。「土御門泰重」を招いています。
「この度の中務少輔殿(泰重)のお働き、一条家として心より御礼申上げます」といったところでしょう。
それにしても、「ことのほか奔走なされたようで、器なども新調であった」なんて、「慈光院」がまるで「料亭の女将」の如く振舞い、「笑顔」や「息遣い」まで感じられるようで、私はあたかも「彼女の動画」を観る思いで感動に堪えません。
上:夜の「慈光院邸?」跡(北から)
そう!「慈光院」は普通の未亡人ではなく、まさに「一条兼遐事務所・代表取締役」たる「政所」でした。「荒木略記」に記された通りだったのです。
加えて私は、「器物以下新造也」 というフレーズも気になっています。
私はたまたま2008年頃、のちに「京都市有形文化財」にも指定された、17世紀の「公家町遺跡」の遺物整理のアルバイト(京都市埋蔵文化財研究所)で食いつないだことがあって、天正期とは様相を異にする、いわゆる「古伊万里」や「古唐津」と云われる「肥前陶磁器」を豊富に含む様相が非常に印象的でしたので、「慈光院」もまたこういったもので新調したのでしょうか。
上:旧公家町「安禅寺杦之坊」出土品。京都市埋蔵文化財研究所。(写真の遺物は17世紀後半のものが主体)
[あたかも“映画のラストシーン”のごとく…]
そして帰宅した泰重が自宅門前で同志、「中院通村」とバッタリ出会い、雨の中、共に御霊神社まで参詣するエピローグも、あたかも「映画のラストシーン」のように素晴らしいくだりです。
上:夜の「土御門泰重邸」跡(東から)
なお「中院家」は「堂上公家」としては、「土御門家」より三段階上の家格である「大臣家」に属していますが、この二人はもはや「親友」といってよいように思います。
この「中院通村」は本章冒頭でもお奨めした例の大河ドラマ、「葵 徳川三代」の末期においても、徳川家に対する“ふてぶてしい”言動により、「武家伝奏」を解かれる「通村」(演:井川哲也さん)が結構登場しています。
「中院通村」邸の位置は、慶長十七年(1612)の「中むかし公家町絵図」には記されていませんが、この日記の記事より20~40年後である「寛永後萬治前洛中絵図」(リンク)においては、「土御門」邸から南南東300m辺りの現「染殿町」西の「御苑内」辺りに、「中ノ院大納言殿」の付箋が貼られており、二人がこの夜、「土御門」邸門前でばったり出会ったという記事とも整合する位置関係です。
上:「中ノ院大納言殿」邸宅があった現・「染殿町」あたり(南から、左側の暗闇が京都御苑)
そして「門外 中院黄門(中納言通村)行逢、御灵(霊)参社同道申候」とあるので、“ほろ酔い気分”で「慈光院邸」から真東に向けて帰って来た泰重は、自宅門前で、「御霊神社」参拝のために北上して来た(方違(かたたがえ)も含めての経路か?)「中院通村」の“提灯”を目撃して、「おおっ」という具合だったのでしょう。
ここから距離的には「下御霊神社」の方がやや近いのですが、地理的にはおそらく、「つもる話」の中、二人が肩を並べて参詣したのは、1km程北にある、古来の「上御霊神社」であったのでしょう。
上:夜の上御霊神社前
[元和七(1621)年九月十六日、伊勢帰りの挨拶回り]
「十六日、甲寅、晴、咳嗽(うがい)散々、五辻(之仲)三位へ宝光庵 明日御持之由可参候由旨候、今朝 家君(父・久脩)其外方々、一条殿(兼遐)・中院(通村)・近衛政所殿(前久後室寶樹院)・雲松院(勧修寺晴豊後室)・泉州・一条殿御乳人・慈光院殿・宝光庵・半右衛門・いつミ殿・大御乳人、十三処也、一条殿御見廻申入候、雲松院見廻申候、方違(かたたがえ)同前」
土御門泰重は去る九月四日、「中和門院」(近衛前子)から「伊勢御代官参、御立願」を依頼され、七日から伊勢参宮に出かけていて、つい昨日十五日に帰洛したばかりでした。
ということは、この記事は「伊勢帰り」の挨拶がてら、彼の「陰陽師」としての立場からすれば、文字通り「宮下」(みやげ)としての「札」などを配り歩いているのではないでしょうか。
因みにこの「九月十六日」は西暦では「10月30日」に相当し(reki.gozaaru.com)、時節柄、及び、旅の疲れからか、泰重は「咳嗽散々」な状態で十三人も訪ねていますが(汗)。
[元和九(1623)年二月十七日、妻を亡くした喪中明けの、年始お見舞い]
「十七日、丁丑、従早朝 御学文講伺公、白紙・双子共拜領、予(泰重)・中院(通村)・中御門(宣衡)・阿野(實顕)・高倉(嗣良)等也、留守ニ烏丸(光賢カ)内義ヨリ串柿五わ給候、慈光院殿御音信アリ」
早朝から後水尾天皇の講義があり、帰宅すると留守中の自宅に烏丸光賢(?)の妻君から「干し柿」が届けられており、また「慈光院殿御音信」とある方は手紙が届けられていたのでしょう。
「泰重卿記」はこの前年、元和八(1622)年分が失われているようですが、元和九年日記の年頭における記述から、泰重は暮れの十一月十二日に愛妻(織田氏)を亡くしており、年頭の挨拶も控えていて、四十九日が明ける正月三日には盟友、中院通村から労わりの和歌が届いています。
「烏丸家」や「慈光院」からの届き物は、そういった意味も込められた“挨拶状”なのかもしれません。
なお、泰重の亡妻は「系図纂要」に「泰廣」の母として「織田民部少輔女」と記されており、泰重の祖母(久脩の母)もまた「織田甲斐守女」とあります。
[元和十年正月十一日、一条兼遐の「祝言」の件で近衛前子から呼ばれる]
そして次もまた、「織田」関連の記事が続きます。
同日条に「~晩少雨降、女院御所(中和門院・前子)へ召伺公、一条殿祝言ノ事也」
という記事があり、十日後の廿一日の最後には
「~一条殿 御祝言有之也 珎(珍)重人々存候」
と記されています。
「陰陽師」としての「土御門家」の重要な職掌に「諸儀礼や出立、建物造営などに際して、その吉なる決行日および時刻を求めに応じて調進する日時勘進」があり(木場明志「江戸時代初期の土御門家とその職掌」陰陽道叢書③近世)、十一日の近衛前子による相談はその「祝言の日取り」のことであったのでしょう。
[♪花嫁は~夜輿に乗って~嫁い~でゆ~くの~♪]
という歌がありましたが(汗)、後藤みち子氏の「戦国を生きた公家の妻たち」(P41-50)によれば、当時の「婚姻儀式」は、妻が「夜」に「輿」に乗って夫の家に“輿入れ”し、そのまま「式三献」がはじまり「酒宴」が行われたようです。
上: 後陽成院の御所跡北西角越に、夜の「一条邸跡」をのぞむ
そして、この時の兼遐の妻は、「織田左門頼長」の娘「千」であったと思われます。
彼女は茶人、風流人としても著名な「織田有楽斎長益」の孫であり、同じく茶人「織田三五郎長好」の姉でもありました。
上:京都東山「正伝永源院」に眠る一条兼遐の妻「千」(左)と「織田長好」(右)。右端には「織田有楽斎長益」の墓塔も見える
彼女に関しては柏木輝久氏の「大坂の陣 豊臣方人物事典」(2016)における彼女の父親「織田左門頼長」の項に詳しく書かれています。
それによると、彼女は寛永五年四月十一日に薨去しているので、残念ながらこの四年後には亡くなったのでしょう。しかし「寛政重修諸家譜」には彼女が「一條関白兼遐公の室」と記されているので、それが事実であれば、「慈光院」はこの婚儀に伴って一時的に「政所」を退いた可能性があります。
なお、本稿がアップされる頃には、柏木輝久氏による新刊、「天下一のかぶき者 織田左門」(宮帯出版社、4950円)という書籍も刊行されます。おそらく膨大な情報量であることが予測され、彼女を含めた「一条家関連」の情報にも期待出来そうです。
なお、「一条兼遐」と彼女の兄「織田三五郎長好」とは、「数寄」や「茶道」つながりで関係が深かったようで、「池田光政日記」(国書刊行会)の「寛永十七年(1640)四月二日、三日」条に、「一条兼遐」を通じた「藤堂高次」の「養子斡旋」を依頼する使者として「織田三五郎殿」が登場しており、また「織田三五郎遺品分配目録」(茶道全集・六、1936)の第三番目には「一條関白様 から物海茶入」が記されています。
既に第19回(リンク)において触れたように、「一条家」と「備前・池田家」とは江戸期を通じて深い関係を構築しますが、それは元々この「慈光院の再嫁」が「発端」となっています。
「塩ゴカ」として目下気になっていることは、彼女の「姉」(織田信忠未亡人、「寿々」)と「一条内基」との縁が、この「一条兼遐」と「織田氏」との婚姻に、何らかの影響を及ぼしてはいなかったか?ということです。
(8)寛永初頭には「政所」引退か?
[「寛永」改元の立役者、中院通村、土御門泰重、一条兼遐]
その「一条兼遐の婚儀」からひと月後、世は「元和」から「寛永」に改元されました。
もし仮に、明治以前の「日本最強の“年号”選手権」なんてテレビ番組があるとすれば、「寛永」は間違いなく上位に食い込むどころか、ダントツで“1位”になるのではないでしょうか。(「寛永」と言えば個人的には、今だに幼少期に目撃した「銭形平次」のオープニングの「寛永通宝」の「巨大モノクロ映像」が反射的に思い浮かんでしまいますが(汗))
「寛永」はまた、「三代将軍・家光」や「鎖国」、「島原の乱」といった歴史的事象とも絡んで、どうしても「徳川幕府の最強時代」のイメージに覆われています。
しかし、意外かもしれませんが、この「寛永改元」に徳川幕府が積極的に関与した形跡はありません。
実は「寛永」は、当時“押され気味”であった「朝廷側」の、特に「中院通村」と「土御門泰重」のコンビが積極的に動き、最終的に「右大臣・一条兼遐」を「上卿」に立ててこれを執り行わせた「改元」、「年号」なのです。
なお、昨年8月30日に放映された「麒麟がくる」第22回において、永禄七年(1564)における(六十年に一度行われる)「甲子(きのえね)改元」に関して、関白「近衛前久」と将軍「足利義輝」とのやりとりの、特に「足利義輝の“やる気の無さ”」が結構話題になりました。この場合は“「改元」を執り行いたい朝廷側”と、“非協力的な将軍側”といった“ドラマの構図”でした。
そして、まさにその「六十年後」にあたる元和十年(1624)二月末における「甲子改元」こそ、この「寛永改元」なのです。以下、日下幸男氏の「寛永改元について」(「後水尾院の研究 上冊」所収、2017)を主に参考にさせて頂くと、
この前回にあたる慶長二十年(1615)年七月における「元和改元」は、まさに「豊臣家滅亡」の二ヵ月後でもあり、「元和」という年号の選定をも含めて、この「改元」の「一因」に徳川幕府の意向があったことは十分推測されるでしょう。
なお、日下氏(前褐書)によれば、この間、元和六年三月にも凶災」を名目とした、及び、同七年八月にも「辛酉(かのととり)革命」を名目とした、二度に渡る「幻の改元騒動」があった模様です。
「泰重卿記」においてはこの「辛酉革命」の二ヶ月後である、元和七年(1621)十月四日条に
「壬申、雨天、女院御所(中和門院・前子)伺候、源氏聴聞仕候、夕退出之折節、近衛殿(信尋)中院(通村)御異見申入候、予(泰重)御傍承候、改元之事 予 存分申入候」
とあり、これは女院御所で定期的に行われている「中院通村」による「源氏講釈」の終了後、前子の子「近衛信尋」(左大臣、「元和」改元時の「上卿」(しょうけい、担当大臣)だった)と「中院通村」が「改元」に対する「御異見」を「中和門院前子」に「申入」れ、傍らで聞いていた「土御門泰重」も我慢出来なくなったのか、思う存念を「前子」に申し入れた(以上1/27若干修正)という、後の彼らの動きを予見させる出来事でありました。
既に述べたように、土御門泰重はこの二年前の元和五年(1619)九月、「後水尾天皇」への「徳川和子」の入内に伴う朝幕間のイザコザから父「久脩」が幕府によって一時「出仕停止処分」にされた、という屈辱にあっており、以来「後水尾天皇」の下にあって、彼の“怒りのボルテージ”は基本、高いままを維持していたと思われます。
そして期たる「甲子改元」に向けて、幕府に一切の介入をさせるまじとばかりに、改元前年の元和九年(1623)三月から、この「後水尾天皇」の腹心、「中院通村」と「土御門泰重」が水面下で主体的にその準備に奔走し始めるのです。
特に「土御門家」は元来、改元における「年号」の案を考証、推挙する「改元勘文調進」の家ではなかったので、泰重自身が個人的に書物類を借りて筆写しながら「勘文」の先例等の調査に没頭、そして言わば「ゴースト調査員」的に「甲子勘文」を作成し、「改元直前」の翌元和十年二月に「改元勘者」であった「幸徳井友景」「小槻孝亮」らに草案を配布しており、「改元五日前」である「二月二十五日」には、遂に泰重自身も“スタッフ入り”しています。
既にこの正月には、かつて泰重の“勉学嫌いでアーチスト指向の生徒”であった「右大臣・一条兼遐」がこの改元の「上卿」に任命されていました。
なお、この時点の「関白」も「近衛信尋」なので、来たる「改元」はまさに「後水尾天皇・近衛信尋・一条兼遐」三兄弟による、永正元年(1504)以来の「120年ぶり」の大「甲子改元」イベントでもあったのです。
また「改元伝奏」という役職に就いた「中院通村」は、二月十六日の書状で幕府側に「寛永、享明、貞正」の年号案からいずれかを「打診」してはいますが、どうやらこの打診はあくまでも「建前」であり、既に「叡慮」(天皇の意)において「寛永」に内定していたもようです。言わば「うちらで全てやらせてもらいしたから!」という、有無を言わさぬ意気込みが文面に滲み出ていました。
そして遂に二月三十日、
「~子刻少前、各又着陣、改元仗議有之、至日出相終、寛永宜之由、各一同也~」(泰重卿記)
と、「寛永」への「改元定」があり、加えて特筆すべきはこの仗議の末に
「家公(土御門久脩)于時 左衛門佐、赦之事 従上卿(一条兼遐)仰之~」とあることです。
「改元上卿・一条兼遐」によって、「土御門久脩」に「左衛門佐」の官職がさし戻されたことが宣言されたのです。
「土御門久脩」は元和五年(1619)九月、幕府の圧力により「出仕停止処分」を受けていましたが、翌六年六月二十七日には「徳川和子入内」に伴う「徳川秀忠による大赦」を一応は受けていました(泰重卿記)。
しかしながら、久脩の「左衛門佐」(さえもんのすけ)の官職は依然、剥奪されたままだったのでしょう。泰重はその「赦免」をまさにこの「改元赦」に滑り込ませてやった、というわけで、彼としてはこれもはじめから「計画のうち」であったのでしょう。
以下、日下幸男氏の「寛永改元について」の末尾から引用させていただくと、
「寛永改元の特徴は、それが朝儀復興(朝権回復)の一環であり、形のうえではあくまで朝廷が主導権を握っていたということである。幕府よりの容喙もなく、めでたく改元なった寛永という年号は、明正天皇(女帝、後水尾帝と徳川和子の娘)の即位後も使用され、後光明天皇の即位後になって「一年号 三帝ニワタル例ナシトテ 明年十二月改元アリテ」(改元物語)、正保と改まった次第である。」
ということです。
さて、あと残り少ないですが、「寛永」年間の記事に移るとしましょう。
[寛永二(1625)年正月二十四日]
「廿四日、癸酉、春雨酒也、今朝 飯後 家君(久脩邸)へ参候、地光院殿(慈光院)より御使、蜜柑一折被下候、五ヶ庄(近衛領・現宇治市)主膳 なめすゝき(榎茸)一折持参申候、家君へ鮭一尺・なめすゝき・柑、今日用意進候、晩ニ勧修寺・正親町・綾少路(高有)花園 家君(邸)へ被來候、従御所 御鷹之鳥拜領也、其ひらき(披露)也、二三及振舞奔走也、大御酒 各沈酔無正体候、今日従江戸 将軍父子(徳川秀忠、家光)年始之御使 吉良(義弥)・大澤(基宿)両人参内申候、女房共 母義 昨日絶壽之由申來候」
この頃の土御門泰重は、かつてのように一条邸を定期的にパトロールする頻度も減った為か、「慈光院」は日記に二年ぶりに登場しており、泰重は思わず久しぶりに「地光院」と漢字表記しています。
この「土御門久脩邸」における会合は前日、廿三日の条に「~飯後 正忌布施三十疋遣候、家君(久脩)御出也、明日御振舞談合 家君へ参候」とあり、「正忌」とは泰重の母(例の「細川伊豆守高久」の娘か)の八回忌のことであり、翌日(二十四日)における久脩邸での「振舞」の予定が記されていました。
なお「土御門久脩」の邸宅は、慶長十七年(1612)頃に描かれた「中むかし公家町絵図」(京都府歴彩館蔵)においては、現在の京都御苑「石薬師門」の西北あたりに「徒ちみかとさ衛門すけ殿(久脩)」が記されていますが、
上:京都御苑東北部。左側が17世紀前期の「土御門泰重」邸跡。奥に「石薬師御門」が見える
この邸は家督を相続した泰重に引き継がれ、久脩自身は元和七年(1621)二月十八日に、そこから北三~四町の「柳風呂町」に新邸を築き始め、三月廿四日に移転しています(泰重卿記)。
上: 下左の「黄緑四角形」が当時の「土御門泰重邸」跡、「久脩」は上赤枠内の「柳風呂町」に引っ越した
さて、慈光院が法要のお供えとして送った「蜜柑」は、盛本昌広氏の「贈答と宴会の中世」(吉川弘文館、2008)のP196-203によれば、戦国時代以来、「接ぎ木」の技術によってそれまでの「柑子」などにとって代わって爆発的に広まった果物であり、この近世初頭頃にはほぼ現在の蜜柑産地が確定していたもようです。
一方、「鮭」の方は、泰重自身が用意しており、現代の感覚では思わず「どこ産の?!」と思ってしまいますが、盛本昌広氏の同書P160には、若狭武田氏が文明十三(1481)年四月二十五日に鮭の「塩引」を献上している例(親元日記)が挙げられており、既に触れたように土御門家はかつて若狭に所領(陰陽寮領・遠敷郡・名田荘内上村)を持っていたことから、おそらくそのツテで若狭から取り寄せた鮭ではないでしょうか。
また末尾に「女房共母義昨日絶壽之由」とあるのは「女院御所(中和門院・前子)の女房達(?)が、泰重の母の喪に服した」ということでしょうか?。というのは、三日後の「廿七日」条には「女房共 母義方へ生雁一、折一送参候」という記事もあるからです。
[寛永二(1625)年九月十七日]
「癸亥、晴、蒔繪(まき絵)屋弥兵衛礼來候、蒔繪間鐺(こじり)持参申候、宝壽(樹)院殿(近衛前久後室)・近衛殿(信尋)・一条殿(兼遐)・慈光院殿 御見廻申入候、帰宅申候、飛鳥井(雅胤)より紅柿一折送給候、晩雨降也」
「蒔繪屋弥兵衛」が「蒔繪間鐺(こじり)持参」というのは、刀の装飾品のセールスなのでしょうか?。
なお、この日の「御見廻」(パトロール)にさりげなく「慈光院殿」と記された記事が目下、翻刻出版されている「泰重卿記」のうちでは彼女に関する最後のものとなっています。
「慈光院」の没年は「備前・池田家譜」(岡山大学附属図書館蔵)中の「池田之助」(ママ。補注1)の条には、この12年後である「寛永十四年丁丑七月十日京都ニテ卒ス」とあります。
宮内庁書陵部の「泰重卿記」自筆本はこの他に「寛永九年」「同十九年」「同二十年」及び「正保五年」分が所蔵されており、「東京大学史料編纂所」や前田家の「尊経閣文庫」にも写本があるようです。
今回「泰重卿記」における彼女の記事はひとまずこれで終り、次回は目下翻刻されている「他の日記」における「慈光院」の記事に移ります。
上:土御門泰重邸跡前から、現在の「石薬師御門」を遠望する
(つづく。2021,01,26 文責:中島康隆)