摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第31回の2 “九条まつり”予告編の補足
今回は、前回の”九条まつり 予告編”の補足ながら、関連リンク等のご紹介です。まず
東谷ズム版のページにも、ちょっと違った角度で予告編を入れました。
上の画像は、そちらの末尾でも触れている、天文三年(1535)暮れに京を出奔した「九条稙通」が、翌四年に「逗留」して「塩川種満」「国満」父子と交流したという(高代寺日記)、摂津・小浜(こはま、宝塚市)の小浜御坊こと毫摂寺(ごうしょうじ)の本堂です。「小浜」は16世紀半ば頃に建設された「真宗(浄土真宗)寺内町」です。
それから、これまた「東谷ズム版」の冒頭で触れている「特別展」に関する四條畷市さんの案内サイトはこちらです。
第36回特別展 「天下の支配者」三好殿―考古学からみた天下人三好長慶の軌跡と飯盛城―
あと、同じくズム版冒頭で触れている飯盛城”御体塚”郭における鉛製銃弾の出土状況の画像はこれです。(クリックで拡大)
[方位磁石はダイソーで売られているもの。銃弾の右下に”焼土”状の橙色の破片が見える。また、左画像の左手前に見えている「平坦な石」は礎石と思われる。2019,9,19]
「御体塚」郭は、飯盛城内における”峰(ピーク)”のひとつであり、わざわざ岩盤を掘り残していたり(上左画像上部)、神饌(しんせん)に用いるような特殊な土師皿が出土しているので、「兼右卿記」(永禄三年十一月十九日条)に「三好長慶が新羅社を城内に勧請した」と記された場所を、当地に比定する見解はまず妥当かと思われます。
(10.24追記 : 新羅社は、三好長慶が祖先と仰ぐ「源義光」に由来するものとのことです。参考までに「高代寺日記」永禄二年四月条に「三好長慶多田院ニ参詣 当家へ案内 参會ニ不及」という、同記において極めて"異色な"記事があります。)
加えて、以下も気になっていることですが、四條畷市教育委員会が発掘調査で検出された、2棟以上?の「塼列(せんれつ)建物」)の方位が共に
東西南北に対して45度傾いている 🔶 ←平面方向において(なお「御体塚郭」自体の輪郭も、やはり45度の菱形🔶)
というのも、やや”意外”ではあります。南北方向に長い飯盛山の尾根上の建物なので、ついつい「正方位」を向いた建物を想像してしまいがちなのですね。なお、伝承の云う「三好長慶の遺体がここに2年間秘匿されていた」が事実か否かはともかくも、
「建物は、"堺~紀淡海峡方向"を向いていたのではないか?」(大都市"堺"に威厳を示す?、三好家のライフラインでもある「航海安全」を見守っている? あるいは”長慶が阿波国を偲んで”?)
などなど、妄想は尽きません。
ただ、近年の動向においては、ここが「聖域論でのみ」が語られる(なんか流行してるの?)事が、私には幾分”食傷気味”でもありましたので、この銃弾の存在は
「でも、第一義は”やっぱ戦国の城の施設”ですから!」
ということを思い起こさせる”立ち位置”ではあろうと思います。
加えて、「塼列(せんれつ)建物」という、棟瓦を頂き、外壁下部に塼(タイル)を貼り付けた、土蔵を思わせる"大壁"の頑丈な建物は「焼け落ちた状態」で検出されております。(銃弾はおそらく未使用の「備品」であったかと推測しております。)
目下この”焼亡”に対する公式見解を失念しておりますが、私はこれは
永禄十一年(1568)九月二十九日の、足利義昭を擁した織田信長上洛戦における「三好三人衆方(守備軍)による”自焼き行為”(落城)によるもの」
と思っております。
(10.24追記 : 「細川両家記」九月廿九日条における、三好三人衆方城郭の「放火」記事の他、「足利義昭入洛記」における「河内ニ敵の飯盛城、同高屋両城、しはらくかかゆるといへとも、是も夜に入り、あけて渡海云々」(木下聡:「足利義昭入洛記」と織田信長の上洛について)という記載から、飯盛城の守備軍は、九月二十九日の夜中に城を自焼して撤収したものと思われます。)
そして落城の数日後、この飯盛城に入ったのはなんと、かつての城主であった「三好左京大夫義継」(足利義昭方)その人でありました(「多聞院日記」永禄十一年十月八日条)。
「勝手知ったる我が城が…。時代は変わったな…」
義継の胸の内は不安と期待が両立していたことでしょう…
あっ、何やら、”九条まつり予告編”から話題が逸脱しまくっている観がありますね(汗)。(”苦情まつり”とならないことを祈っております。10.24、追記編集をしようとして、誤って自分で「スキ」を押してしまった(汗)。解除する方法をご存知の方、ご教示願えれば幸いです。)
(つづく。2021.10.12 文責:中島康隆)