見出し画像

【コラム】第一三回 何が憑依を招くのか

 前回のコラム(第一二回 思い込みと幽霊)では、冒頭に秋田県のとある神社の宮司の言葉を紹介した。特に霊感が強い方でもなく、私の話に合わせてくださった何気ない台詞だが、その言葉の意味をもう少し広げて考察してみよう。新年の最初の記事は、「憑依」がテーマだ。

 怪談を集めていると、体験者が当時置かれていた状況、心境が話とともに見えてくる。なかには、あまり振り返りたくなくて記憶に蓋をしている出来事もあるという人もいるかもしれない(そこまでセンシティブな過去を背負った人にはまだ出会っていないが)。その意味で、怪談とは、私はその人の歴史であると思っている。
 過去を振り返りお話しいただくなかで、かつて自分が虐められていたエピソードや、仕事や学校でうまくいかないことが続いていたと切り出す方は少なくない。そんなときに、怪異に遭遇した、と。
 そうであるならば、心が弱っている時に魔物が忍び寄るのだろうか。能力の真偽は不明だが、霊能者たちは心の隙間に霊は入ってきて悪さをすると表現したりする。その霊能者が悪徳商売をしているかどうかはともかく、メンタルが不調であれば、何事においても悪いものを引き寄せてしまう気はする。言わば負のスパイラルに陥るのかもしれない。

 イマジナリーフレンドという言葉がある。主に、幼少期に本人が空想の世界で創り出す存在しない友達のことを指す。不思議なもので、成長とともに友達は現れなくなるパターンが、体験者や怪談師の話の傾向としては多いようだ。
 私が以前お話をうかがった女性も、小学生の頃の辛い体験とともに、不思議なお話を聞かせてくれた。ただし、それは取り憑かれるという類の話ではなく、自宅で怪異に遭遇する体験だった。
 憑依という言葉をどのように定義するか。一般論として、霊的な何かが身体に入り込み、言動がおかしくなる状態と言えよう。しかし、見方を変えれば、憑依というのはそんな状態だけにとどまらないのかもしれない。普段は見ないものを見る、聞こえるという状態もまた、自身の身体に入り込んだ何者かによって、「異世界が目の前に映し出されている」という構造なのかもしれない。
 この視点に立って考えると、私たちが巻き込まれる怪異はすべて憑依によるものかという反論が想定される。多くの怪談は、幽霊を見た、声を聞いたなどのパターンだが、その時代や経緯、結末が異なるから興味深く、いつまでも飽きず、聴き続けられる。
 霊体験をする人は皆、そのときに憑依現象に曝されているのかと言うと、すべての怪異をこの理論で片付けようとも思わない。至って状況が正常であり、精神状態も安定しているときにも怪異は訪れるからだ。あくまで私の指摘は、本人が憑依されている自覚がなく、また霊も本人に気付かれないように目の前で次々と怪異を演出するという手法を取るケースがあるのではないかという一つの方法論にすぎない。

 幼少期の家庭環境や学校での立場が情操教育に影響を及ぼし、怪異を見てしまうことにも繋がるのか。イマジナリーフレンドなどの話を聞くと、そんなことを思わずにはいられない。人間は心の不安や安らぎを、この世ではない何かを演出、体験することで、心身のバランスを取るのかもしれない。

 人間に憑く何者かは、常に憑依しているのだろうか。また憑依タイムなるものが存在するのか。普段は学校や仕事に行き、たいていは無難な生活を送っているが、予兆もなく言動が乱れて周りが混乱する。そんな周期的なものを何者かが操作しているのか、人間が自制を効かせているのか。
 変な話だが、憑依体質の人はスーパーで買い物をするときなど、どうしているのだろう。霊体とやらは、そのときは大人しくしてくれているのか。何とも気を遣った霊だと思うが、そうではなくて発作的なものなら波があるということか。

 心の隙間に魔物が入り込む余地があるとすれば、普段は人間が隙間を埋めていると考えられる。その埋め方は、趣味に没頭するとか、好きなことに時間を費やすなど、心にとってプラスの行動を取ることなのかもしれない。
 人間には、負やマイナス要素を寄せ付けずに跳ね返すバリアのようなものが備わっているのではないだろうか。プラスの行動が取れない、逃げ場がない心境に陥ったとき、そのバリアが薄く、弱くなる。そのように考えると、「心の隙間に魔物が入り込む」という表現も腑に落ちる。

いいなと思ったら応援しよう!