【コラム】第六回 幽霊の何が怖いのか
読者の皆様、如何お過ごしでしょうか。今回の投稿は、久々の考察コラムである。考察記事としては、前回の投稿(第五回 ザシキワラシに寄り添う)から随分と間隔が空いてしまった。テーマはいくつかストックしているのだが、今年の上半期は主に「歴史を踏みしめる」と「日本酒記」の更新に精を出していたこともあり、凡そ一年ぶりの投稿となってしまった。
コラムでは日頃から私が念頭に置いている価値観や考察を整理できるというメリットだけでなく、読者の方から有難いコメントを頂けたり、とてもやりがいのあるシリーズになっている。そこで、今回は、「幽霊の怖さ」について記してみたい。
そもそも、人は「幽霊」と聞いて、どのような姿を思い浮かべるのだろうか。恐らく、最も多いイメージは、「髪の長い女性」や「足のない幽霊」、「映画『リング』に出てくる貞子のような幽霊」などがその筆頭格であろうかと思う。
無理もない。私も真っ先にそれらを想像する。これは文学や芸術、民間伝承などの多岐に渡る分野からの漠然としたイメージとして、私たちの生活の中に溶け込み、刷り込まれてきたものと考えられるからだ。しかし、実際には男性の幽霊も怪談には登場するし、老婆や兵隊の幽霊も語られる。どの幽霊の登場割合が多い傾向にあるかなどの統計を取ることは困難だが、ざっくりとしたパターンは想像に難くない。
では、これらの幽霊のどこが怖いのか。恐怖を考えるうえで、前提として区別しなければならないもう一つの感情がある。それは「驚き」だ。恐怖と驚きは、本来、別の感情だが、私たちの生活においては綯い交ぜに機能している点に注目したい。
例えば、Aさんという人が、職場のオフィスの廊下を歩いていたとする。そこで、曲がり角に差し掛かったときに、誰かと出合い頭になり衝突しかけたとしよう。そのときの両者の感情は、「びっくりしたー!」という驚きの感情が強いだろう。怪談における恐怖とは異なる。
私は、最近ではあまり映画鑑賞はしなくなったが、これまでの視聴経験から判別すると、ホラーに分類される作品は、邦画よりも洋画の方が「驚愕」を要素に盛り込んだ作品が多いように思う。サイコやスリラー、パニック映画など、ホラーと近しい別ジャンルとして確立している作品もあるが、ホラー映画でも、「恐怖より脅かしたいだけか」と思いながら観てしまうこともある。
日本では二〇一〇年に公開された映画『パラノーマル・アクティビティ』は、私の好きな映画の一つだ。しかし、本作は、怪談的な趣が強いわけではない。部屋の何処からか聞こえるラップ音や物音、所謂、「ポルターガイスト」を軸に、それらを引き起こす正体は悪魔という設定の基に話が展開するので、驚かす要素が強めなのは仕方がないだろう。画面やスクリーン越しに大きな音が鳴っても、「あーびっくりした!」と感じるだけで怖さとは違う。似通った感情であるが故に、その心理を巧みに利用してホラー映画に落とし込むこともまたクリエイターの技術の問題であり、腕の見せ所だが、私はどこか冷静になってしまっていたりする。
因みに、本作の特典映像では、怪談家の稲川淳二氏と一緒に本作を観賞するという試みがなされている。私が尊敬してやまない現代怪談の父のような存在である稲川氏が、怪談とはまた異なる要素も含む映画を解説するという構図が、今から思えば興味深い。私が中学生のときに友人と特典映像について語ったときは、盛り上がったものだ。
もちろん、本作には「忍び寄る気配」や恐怖といった怪談的要素も含まれているので、事故物件怪談と定義することもできる。バランスの取れた傑作なので、是非、まだご覧になられたことがない方には視聴をお勧めする。
恐怖と驚きの二つの感情を整理したところで、幽霊の放つ怖さについて、人は何をどう受け取って怖がるのか、具体的に考えてみよう。
まずは容姿についてだが、見た目がパターン化しているのは先述の通りだ。ここで性別に言及するが、セクシャリティなどの現代社会で認知されている多様性の観点は一旦脇に置くとすると、生き物としては男性と女性の二種類が現れる。男性の場合は、例えば夜中に目が覚めて、中年の男性が部屋の片隅に立っていた状況を想像して頂きたい。仮にその正体が人間の泥棒であっても怖いだろう。勿論、幽霊でも怖い。しかし、男性が居て怖いのは、生物学的に雄であり、力業が通用するからでもある。就寝中という自分は無防備な状態で、眼前の当人が華奢であっても、雄であればそれなりの力を備えているわけだ。首を絞めるなどの物理攻撃を加えられるかもしれない怖さがある。
女性の場合は、力業が想像できないだけに、精神的に何らかの恐怖を及ぼすのではないかという怖さがある。凡そ女性とは思えない力で首を絞めてきたなどの体験談もあるが、まず一目見ただけでは、力業は男性よりも想像し難い。
性別以外に、服装にも怖さは宿る。例えば、現代風ではないファッションを身に纏っていれば、それだけで違和感が転じて恐怖となる。軍服や着物を着た幽霊は、時代背景が透けて見えるので、この世のものではないという意識に直結するからだ。
次に年齢だ。子供なのか、中年なのか、年配なのか。仮に子供の幽霊が現れたとして、大人の不気味な容姿の幽霊よりはやや迫力に欠ける。ところが、これは状況にもよるが、無邪気で楽しそうな笑顔の子供が現れた場合に、それこそザシキワラシのようであまり怖さはないだろう。しかし、無表情であったり、意味深な薄ら笑いを浮かべていると気味が悪い。二〇〇三年に公開された映画『呪怨』に登場する佐伯俊雄は、顔が白塗りの子供の幽霊としてあまりにも有名だ。彼のような幽霊は、ザシキワラシのような有り難さは感じられない存在であり、同じ子供でも怖い。
中年の見た目では、これといって突出した怖さの特徴はないように思う。つまり、「中年だから」という特有の怖さはない。では、老人はどうか。こちらもまた女性の幽霊に似た不気味な迫力があり、か弱い体躯で何を仕掛けてくるのだという人智を超越した力を予見させる。
社会に於いて女性や子供、高齢者は、力業では弱者との扱いを受けているが、それは長きに渡る歴史のなかで定着した認識であり、このような社会通念は幽霊が現れると怖さに繋がるのだ。
さらに、怪談には先祖の霊も登場する。この場合の怖さはどうか。故人であるので、勿論、怖いが、幽霊と体験者の関係性によっては、再会できて「嬉しい」と思うこともある。不慮の事故や事件で命を落とした家族と、不思議な体験を通して会話ができたとの報告はいくつもある。
ここまで論点を整理してみたときに、「どのような状況で幽霊を目撃するか」についても言及する必要性が出てくる。上記でも触れたが、ザシキワラシの場合は、「出る」とされる旅館に宿泊するなどの体験を自らが行うことで、宿の謂れや事前情報も認知しており怖さがない。寧ろ「楽しみ」が強い。
また、心霊スポットと呼ばれる場所では、「幽霊が出るとされている」ので、訪問者は期待感を持って現場へ行くわけだが、それも怪異が起きた場合の怖さへ繋がる。有難い場所ではないので、何か起こるかもしれないという心構えはできているが、毎回現場で怪異が起こるわけでもない心霊スポットで、「まさか今、こんなことが起きるのか」という不意打ちの怖さが心霊スポットにはあるのではないだろう。
加えて、恐怖を抱く状況で考慮しなければならないのは、時刻や天候である。昼間に心霊スポットに行くのか、夜に墓地に行くのか、雨で気候がジメジメしているのか、そのような状況を想像して頂ければ、恐怖の度合いが伝わるかと思う。
いくつかの観点を踏まえて怖さについて論じてきたが、これらの要素が重なってもダメージが少ない受け手が存在することも記しておきたい。それはどのような人かというと、「霊感が強い人」である。現生の人間と遜色ないように幽霊が見えてしまうという人は、私が怪談を見聞きする経験上、どうやら一定数いるようだ。言うまでもないが、本当に見えたり聞こえたりしているかの真相は本題ではないので、ここでは論じない。
鮮明に幽霊が見えすぎて、ある人に指摘されたり、ある状況によって自分の霊感が強いことに、ようやく気付いたという人もいるようだ。翻って、このパターンでは怖さが薄い、延いてはない。沖縄のユタの家系に生まれ、数々の怪異体験をお持ちのお笑い芸人ヤースー氏は、そのような体験談を話されていて興味深い。
もう一つ、怖さを語る上で無視できないのは「慣れ」である。霊感の強い人にとっては、怪異は数を重ねるうちに特別なことではなくなり、幽霊の存在を感じ取ったとて、日常茶飯事となっていく。私にはわからない感覚だが、各自の身近にしばしば起こる事柄で置き換えればわかりやすいだろう。
本稿のテーマを思いついたとき、一〇〇〇字程度で短く収まってしまうだろうと危惧したが、この時点で四〇〇〇字近くも書いてしまっていることに我ながら驚く。書きながら話は膨らむものだとつくづく思う。
最後に、本題を纏めて記事を終えたい。まず、怖さと驚きの感情は似て非なるものであるということ。そして、怖さには幽霊の容姿、そこから想定される年齢、関係性、状況、本人の感受性が大きく作用するということだ。さらに、最も重要なのは、「怖さには階層がある」ということだ。本稿で取り上げた怖さの要因が複雑に絡み合い、重なり合って、怖さの度合いが決まる。以前は夜に怪異を体験したが、次は昼に体験したということであれば、怖さの引き算が起こり、時間差の怖さも出てくる。
一言で「怖い!」と思っても、これほどの奥深さがある。人間は喜怒哀楽、それ以外にも微細な感情を抱く生き物だ。様々な感情の集積があり、それ故に現代社会ではストレスを抱えることもあるが、皆様、心は前向きに生きていきましょう。