LanLanRu文学紀行|水晶の栓
モーリス・ルブラン著
舞台:20世紀初頭 / フランス
『水晶の栓』。1912年発表、アルセーヌ・ルパンシリーズの第7冊目。
『813』も『奇巌城』も面白いが、『水晶の栓』も面白い。
なにしろ、いつも、あの手この手で人を出し抜いてからかっているルパンが、今回はやられっぱなしなのだ。タイムリミットもあることなので、最後までハラハラする。
逮捕されてしまった子分のジルベールを救うため、事件の発端となった謎のお宝「水晶の栓」をめぐり、悪の代議士ドーブレック、謎の美女、警察との四つ巴の争奪戦を繰り広げるルパン。だが、このドーブレックがとんでもなく強敵だった!追い詰めたと思えば、何度となく裏をかかれ、出し抜かれ、始終、先手を取られっぱなし。そして刻々と迫るジルベールの処刑の時。
ルパンは「水晶の栓」を発見して彼を救えるのかー。
と、スリル満載のお話なのだが、さて、この小説、実際にフランスでおきた、パナマ運河疑獄事件をモデルにしていることでも知られている。19世紀末のフランス政界を揺るがした大醜聞なので、当時のフランス人にとっては少し生々しいお話なのだが、今の日本ではこの事件、あまり知られてはいないのではあるまいか。折角なのでこの機会に、パナマ運河疑獄事件について振り返ってみようと思う。
海上交通の要所 パマナ運河とは
パナマ運河は中南米にある。
南北に横たわるアメリカ大陸を突っ切って、大西洋と太平洋を結んでいるので、海運においてはとても大事な場所だ。というのも、パナマ運河を通れば大幅な時間短縮になるのはもちろん、マゼラン海峡やドレーク海峡を回り込まずに、アメリカ大陸の東海岸と西海岸を行き来することができるのだ。
このマゼラン海峡やドレーク海峡付近というのは、予測不可能な風や海流がたびたび発生するので、今でも航行の難所であると言われている場所である。できれば通りたくない。
それでパマナ運河建設の構想は古くからあったが、本格的に取り組んだのはフランスのレセップスが最初だった。ちなみにレセップスはフランスの外交官・実業家で、スエズ運河を建設した人物である。
レセップスによるパマナ運河建設の失敗
だが、パマナ運河は手ごわかった。1879年、レセップスを代表とするパナマ運河会社が設立され、1880年に工事が開始されたが、厳しい自然条件や見通しの甘さから、想定外の事態が次々と起こり、工事は難航。莫大な資金がかかってしまった。レセップスは資金集めに奔走するが、これがパマナ運河疑獄事件につながっていくのである。
■レセップスを悩ませたこと
その1:運河建設方法の変更
当初予定していた、スエズ運河方式の「水平式運河」は技術的に無理だった。レセップスが繋ごうとした太平洋と大西洋は、水位の違いが大きいのだ。レセップスは、「水平式運河」をあきらめ、「閘門式運河」へと方向性を変更する。閘門の工事技術者としてエッフェルが招聘された。あのエッフェル塔を作った、エッフェルだ。
その2:熱帯雨林の気候
熱帯雨林の気候も、現地の労働者達を苦しめた。特に蚊によって感染する黄熱病やマラリアの被害は深刻で、労働者たちはつぎつぎと倒れていった。
このように、「閘門式運河」への変更、熱帯雨林が工事の進捗を阻害したこともあり、工事費が当初の予想をはるかに上回ることとなった。莫大な資金を集めなければならなくなったレセップスは、富くじ付き債券の発行を計画する。これは成功して期待以上の資金が集まったようだが、結局資金繰りに失敗し、1989年にはパナマ運河会社は事実上倒産。工事は中断されることとなった。
パマナ運河疑獄事件へ
だが、事件はこれで終わらない。フランス政府はパナマ運河会社倒産の事実を隠していたが、翌年、運河会社の宝くじ付き債券発行にからむ贈収賄事件が明るみに出た。80万人の国民が社債を買っていたし、(最終的に一般国民が買った債券は紙切れとなった・・・!)宝くじ付き債券許可にからみ、ジョルジュ・クレマンソーら多数の大臣が運河会社から賄賂を受けていたと報じられたので、影響は大きかった。更に510人の政治家が、運河会社の破産状態を公表しない見返りに収賄したとして告訴される。しかし政治家連中は、前開発大臣が有罪判決を受けただけで、大多数が無罪となったのだった・・・!
この事件は大衆の政治家不信に火をつけた。こうしてパマナ事件がきっかけで、政党政治に対する国民の不信が強まっていき、ついにはフランス第三共和政を揺るがす大事件となったのだった。
さいごに
さて、ルパンに話を戻すと、この『水晶の栓』の小説の背景には、運河疑獄事件があり、ルパン自身も、「水晶の栓」の行方を追ううちに、否応なくこの事件を覆う黒い霧の中に巻き込まれていくことになる。
ルパンには珍しい政治ミステリーなのだが、だからといって、シリアスで政治的な話になるかというと、そうでもないのがルパンらしい。この小説の本質は、あくまで「水晶の栓」のお宝探し。ルパンがそれを探すのも、ひとえに子分のジルベールを救いたいのと、その母親のクラリスに惚れてしまったから。こういうところも、またいかにもルパンらしかったりする。
ただ、この『水晶の栓』に出てくるドーブレックは恐ろしい。おそらくシリーズ中最強最悪、ルパンもとことん追い詰められる。運河疑獄事件の秘密をネタに恐喝を繰り返すような、巨悪の悪徳代議士だが、彼の存在はまた、パナマ運河疑獄事件の闇の深さを象徴しているようにも感じられるのだった。
パナマ運河事件関連作品
・『パナマ事件』(大佛次郎著)
補足
■レセップスのその後について
レセップスは背任・詐欺の罪で訴えられ、禁錮五年、罰金三千フランの有罪判決を受けたが、上訴審では無罪となった。レセップスは精神錯乱の末に1894年に病死した。
■パマナ運河について
フランスによるパナマ運河建設が挫折した後、アメリカによって、パナマ運河地帯の運河建築が進められた。パナマ条約締結の翌1904年から本格的開削工事に着手、開始から10年後の1914年8月15日に完成、開通した。
〈参考文献〉
・『アルセーヌ=ルパン全集7 水晶の栓』(偕成社, 1995)
モーリス・ルブラン著/羽林 泰訳
・「サントリー水大辞典 世界の水文化」
https://www.suntory.co.jp/eco/teigen/jiten/world/04/