LanLanRu映画紀行|杉原千畝 スギハラチウネ
舞台:1934-1972年 / 日本・リトアニア・ドイツ
第二次世界大戦中、ナチスによる迫害から逃れるユダヤ人のために「命のビザ」を発行して、6,000人あまりのユダヤ人を救い、「日本のシンドラー」と称された外交官、杉原千畝。その彼の半生を描いた映画がある。
「杉原千畝 スギハラチウネ」
2015年公開/チェリン・グラック監督作品
意外に知らなかった 外交官としての杉原千畝
白状してしまうと、杉原千畝という人のことは、あまりよく知らなかった。地元が岐阜の八百津ということは知っている。高校教師をしていた頃、八百津から来ていた生徒たちに教えてもらった。それに戦時中、ユダヤ人難民にビザを発行して、多くの人の命を救ったことも知っている。それが彼独断の判断だったことも。
けれども映画を見て、改めて気がついた。そもそも彼は「正義の人」である前に外交官であったわけで、それも、赴任した各国で類いまれな情報収集能力を発揮し、貴重な情報を集めて日本に送り続けた、優秀な「インテリジェンス・オフィサー(諜報外交官)」なのだった。
対ソ連の貴重な人材だった ロシア通の杉原千畝
杉原千畝は戦時中、リトアニア、チェコスロバキア、東プロイセン、ルーマニアと、東ヨーロッパ各国に派遣されて情報収集の任にあたったが、その主な目的は、ソ連の動向を探ることにあった。
日本にとって、ロシアは常に注意すべき隣人だが、特に、日本軍部が満州への干渉を強めつつあった第二次世界大戦前夜、ソ連は最も警戒すべき相手であり、その動静を探ることは、日本にとっての重大事だった。それなのに、当時ロシア語を話せる人間は日本に少なかったようだ。
そこにいくと、杉原千畝はソ連のエキスパートだった。もともと語学力に長けていたようだが、ロシア語研修生として満州のハルピン学院で学んだ経験から、特にロシア語に堪能だった。また、彼がハルビンの総領事館で働いていた時期にまとめた「ソビエト連邦国民経済大観」は600ページにおよぶ大作だが、ソ連に関する貴重な研究所として、外務省のお墨付きをもらって出版されている。私生活でも、ロシア人のクラウディア・アポロノオヴァと結婚しており、杉原千畝はソ連との交渉や諜報活動を行う上で、貴重な人材だったのだ。
満州からヨーロッパへ 外交官 杉原千畝の軌跡
彼がハルビン学院を出て、外務省で働きはじめたのは、1924年のことである。以降1947年まで、23年間にわたる彼の外交官としての略歴は以下の通り。
こうしてみると、彼の経歴は大きく満州時代とヨーロッパ時代に分かれるようだ。
■ 満州時代(1924-1935年)
杉原千畝がロシア語を学び、外交官人生をスタートさせたハルビンは、当時「極東のパリ」と呼ばれた、活気あふれる国際都市だった。ロシア人、日本人、中国人のみならず、ユダヤ人などのコミュニティが混在する人種のるつぼで、中国大陸に多くの権益をもつ当時の日本にとっては、最新のソ連情報を得るのに欠かせない前進基地となっていた。
ハルビン時代、特に注目すべき杉原の功績は、北満鉄道の譲渡交渉を日本に有利にまとめたことだっただろう。北満鉄道は、当時ソ連と満州国が共同経営していたが、ソ連の申し入れにより満州国に売却することになったのだった。けれども、ソ連の提示額は6億2500万円。これに対して杉原千畝は、鉄道施設の老朽化や、鉄道自体の価値の低下、ソ連が北満鉄道から貨車を持ち出している事実などを丹念に調べ、1億4000万円に値切って決着させたのだった。
この件について、外務省の評価は頗すこぶる高かったが、杉原自身は、満州国ではばを効かせていた関東軍の横行が厭になって、ハルビンを離れることにしたらしい。
■ ヨーロッパ時代(1937-1947年)
杉原本人はモスクワ勤務を希望していたようだが、ハルビン時代の活動の影響で、「ペルソナ・ノン・グラータ」(好ましからざる人物)としてビザ発行拒否をされてしまい、ソ連への入国叶わず、東ヨーロッパへの赴任が決定した。新しい諜報網を作り、ソ連の動向を探ることが目的だった。
さて、彼が赴任した、1937年頃のヨーロッパ情勢を見てみると・・・。
1937年:日独伊三国防共協定調印
1938年:ドイツ、オーストリアを併合
1939年:独ソ不可侵条約締結/第二次世界大戦はじまる
まさに激動の時代。外交官としての責任も重大だっただろうと思う。杉原千畝は亡命ポーランド政府の情報将校の協力を得て諜報活動を行っていたが、特筆すべきはケーニヒスベルク駐在時代に逸早くキャッチした、独ソ開戦の情報だ。彼らはドイツ人に尾行されながらも、国境地帯を走り回り、ドイツ軍の開戦準備が着々と進んでいることを突き止めた。1941年6月に独ソ不可侵条約が破棄されて、ドイツとソ連は開戦するであろうと、正確な時期まで予告している。
もちろん当時、他の大使館でも同様の調査は行っていたが、ドイツのカモフラージュに惑わされ、これほどの精度の情報を入手することはできなかったようだ。杉原千畝はやはり優秀なオフィサーだったのだろう。しかし彼が危険を犯して集めた情報は十分に活かされることもなく、結局日本軍は独ソ開戦により、南方で孤立していく。そして、アメリカとの本格的な戦争に突入すると、次第に敗走に追い込まれることになったのだった。
6千人の命を救った ビザの発行
最後に、杉原千畝が多くの人の命を救うことになった、ビザの発行についても少し触れたい。彼はリトアニアのカウナスにて、ナチスやソ連の迫害から逃れてきた大量のユダヤ避難民にビザを発行したが、これは当時日本と軍事同盟を結んでいたドイツを刺激する行為にはなるし、もちろん日本政府の意に沿うものでもない。外務省職員としての職務を逸脱した、しかし大胆で勇気ある行為だった。
杉原千畝がリトアニアのカウナスに赴任したのが、1939年7月のこと。2ヶ月後にはナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発している。ドイツが制圧した地域からは、ナチスの迫害から逃れようと大量の避難民が発生したが、彼らはあらゆる方面に脱出を試みるなか、一部は中立国であったリトアニアに逃げ込むことに成功した。しかし、そのリトアニアも1940年8月にソ連に実質的に併合されることとなる。彼らは再び避難を余儀なくされたが、もはやソ連・シベリア経由で日本に渡り、さらに第三国を目指すしか脱出ルートが残されていなかった。
それに加えて、リトアニア国内ではソ連からの要請により、各国の公使館が次々と閉館をしていて、避難民が国外脱出のために必要とするビザ取得が日々困難となっている状況だった。
このようなわけで、ユダヤ避難民たちは、通過ビザを求めてカウナスの日本領事館へ殺到した。しかし困ったことには、その大多数は日本政府が定めていた通過ビザの発給要件を満たしていない者たちだった。当時の日本における外国人入国令によると、日本通過ビザの発給には、パスポートの所持、行先国の入国許可と十分な旅費の所持が必要だったが、避難民はいずれの要件も充たしていない者が多かったのだ。杉原千畝は外交官としての職務と人命救助の間で葛藤するが、しかし、最終的には人道主義・博愛精神に基づき、要件を満たしていない避難民に対しても、大量の日本通過ビザを発給することを決めたのだった。
彼がビザの発行をはじめたのが、1940年7月26日で、翌8月28日には領事館を閉鎖、9月5日にはリトアニアを発っているので、杉原千畝がビザを発行していたのは、わずか1ヶ月の期間のことだった。領事館を閉めてからもホテルの待合で、また駅の待合室でも発車間際まで渡航許可証を書き続け、2,139枚のビザを発行。最後の渡航許可証は車窓から手渡したという。
日本通過ビザを受け取った避難民はその後、シベリア鉄道でソ連を横断して日本へと渡り、そこからさらにアメリカ大陸や上海などへと逃れていった。杉原千畝の発給したビザによって、約6,000人のユダヤ人難民が救われたといわれている。
さいごに
杉原千畝同様に、危険を冒してユダヤ人を救った「正義の人」が、各国にいたことは、最後に追記しておきたい。リトアニア・オランダ領事のヤン・ズヴァルテンディク、ウィーン駐在・中国総領事の何鳳山、フランス・ボルドー駐在・ポルトガル総領事のアリスティーデス・デ・ソウサ・メンデス、ブタペスト駐在・スイス領事のチャールズ・カール・ルッツなど・・・。また、もちろん民間人にも、危険を冒してユダヤ人をかくまっていた人たちはいた。そんな人たちを扱った作品を紹介して終わりにしよう。
■ 関連作品
・「シンドラーのリスト」(スティーヴン・スピルバーグ監督/1993年)
・「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」
(ニキ・カーロ監督/2017年)
・「ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命」
(ジェームズ・ホーズ監督/2024年)
〈参考文献〉
・結城 凛『6千人の命を救った男 杉原千畝とその時代』
(株式会社ダイアプレス,2016)
・杉原千畝記念館
https://www.town.yaotsu.lg.jp/sugihara-museum/
・特定非営利活動法人 杉原千畝命のビザ
https://www.chiune-sugihara.jp/jp/index.html