問題集を「回す」ってなんだろう?

こんにちは、あるいはこんばんは。とげぬき法律事務所弁護士の寺岡です。

「とにかく過去問を回そう」

「一つに決めた問題集を何度も回せばいい」

「短答過去問5周回しました」

「回す」という言葉を聞くことは多いし、私も使う。が、果たしてこの「回す」という言葉は、受験生や合格者において共通の意味となっているのだろうか。小学生の頃、国語の授業で「自分の見ている青色と他者の見ている青色は、言葉こそ同じ青色ではあるものの、同じ色なのだろうか」という趣旨の文章を読み、なんだか物凄く怖くなった記憶がある。文言の解釈とは少し違うけれども、"こっちとそっちの認識のズレ"ということはよくある話。今回は、そんな「回す」について、まるで普段やっている論点学習かのようにおどろおどろしく考えていく。

1 定義~「回す」は繰り返し?~

「回す」とは、軸を中心にして、円を描くように動かす…という小ボケは置いておくとして、ググってみると辞書的な意味はいろいろ出てくるが、どれもフィットしない。「回す」という発言が出てくるのは、勉強の方法論について、特に繰り返しやらないとねーという発言の中で出てくることが多い気がしている。そうすると、問題集や過去問についての「回す」とは、一定範囲内における内容を"繰り返す"というニュアンスに近いのではなかろうか。したがって、以下、これを前提として考察していく。

2 形式説と実質説

(1)形式説
さて、繰り返すとはいってもその方法、期間、理解度等、どこまでこだわるかという問題もある。
ここで、「内容の理解は度外視し、とにもかくにも問題文、解説、答案例を読むことの繰り返し」を「回す」と考える見解が考えられる(というか今考えた)。これを、形式説と呼ぶことにしよう。
形式説を採用するものとして、例えば普通自動車運転免許試験の学習が考えられる。フラッシュ式にてとにかくどんどん次、次、と回答していき、道路交通法の趣旨や条文の文言には立ち返ることなく進めていくことになる。効率性を求める趣旨であるが、自身の頭で深く考え、理解するという過程がなくなるというデメリットがある(これに対しては、徐々に正解が増える以上、全くの不理解というわけではないとの意見もあろう)。
(2)実質説
形式説に対し、「単に問題文や解説、答案例を読んだにとどまらず、一定の理解までを求める」実質説(=広義の実質説)なる考え方もできる。効率性という点で形式説に劣るが、一定の理解は、記憶の長期化に資するというメリットがある。
(3)実質説のあれこれ
広義の実質説に対しては、「一定の理解」という抽象性ゆえに不明確な基準であるとの批判が考えられる。このような批判を受けて、「一定の理解」について限定を加える見解が登場している。例えば、「必要な定義や理由付けの記憶までして初めて理解したといえる」狭義の実質説や、「異なる事案であっても対応できる」最狭義の実質説まで様々な見解が(私の中で)ある。

3 類型説・個別具体説の台頭

以上のような形式説、実質説の対立が伝統的な(私の中の)見解であるところ、いずれに対しても”短答と論文とでは求められる能力が異なる以上、同一に考えるべきではない”、”科目毎に考察すべき”との批判がありうる。これを受けて(今)誕生したのが類型説である。さらに類型説に対しては、短答、論文それぞれの科目につき、より詳細な分析を行い、条文や論点、設問ごとに形式、実質の程度を考察すべきとの批判があり、これを受けて個別具体説も(この瞬間)誕生した。

4 私見

個別具体説を推す。以下、理由。

(1)短答

Aはその所有する絵画甲をBに預けていたが、Bは、Aに無断で、Bが甲の所有者であると 過失なく信じているCに甲を売却した。Bは甲の占有を継続し、以後Cのために占有する意思 を表示した。その後AがBから甲の返還を受けた場合、CはAに対し、所有権に基づいて甲の 引渡しを請求することができない。(令和4年民事系第3問エ)

この手の問題(当事者の関係をイメージした上で、法律論と当てはめとの両方の理解が必要な問題)は、形式説による学習だと、全く同じ問題であればともかく、そうでなければ回答するのは難しい。
一方で、必ずしも狭義の実質説までわかっていなくても解くことはできる。したがって、広義の実質説程度の理解で足りるだろう。
ただし、論文との相関関係の高さをも考慮すると、短答と論文のリンクを意識した学習が推奨されるから、狭義、あるいは最狭義の実質説的学習をしたい問題ではある(短答だけ突破できればよいというならともかくとして)。

逮捕状を所持しないため被疑者にこれを示すことができない場合において,急速を要すると きは,被疑者に対し被疑事実の要旨及び令状が発せられている旨を告げて被疑者を逮捕するこ とができ,以後も被疑者に逮捕状を示す必要はない。(令和3年刑事系第15問ア)

この手の問題(条文知識そのもの)であれば、形式説的学習で構わないと考えることもできる。当てはめもなく、論文での出題可能性も高くはない。ただし、ここで聞かれているのは”緊急逮捕の要件ちゃんとわかってる?”というもの。したがって、試験委員の意思解釈として「緊急逮捕の要件くらい六法なしで押さえておきなさい」と考えるのであれば、他の要件についてもやはり押さえておく必要があることになり、そうなると、広義の実質説程度の学習をしておくのがベターと考えることもできる。

上記は一例にすぎない。このほか例えば、刑法短答学習において「何が必要的減軽か?」というのは形式説的学習で足りるだろう。このように短答一つ取っても、論文との相関関係の程度、出題可能性の程度、単なる条文知識か否か、法律論の難易、当てはめの有無とその難易、個々人の忘れやすさ等、諸般の事情を総合して初めて、「回す」の採るべき説が決まる。短答の学習をする際、こういった検討をいちいち言語化することはないであろうが、短答が得意な方は、こうしたことを無意識に行っているのではなかろうか。逆に、短答が苦手な方は、こうした考慮すべきことを考慮せず(考慮不尽)、須らく形式説による学習をしている可能性があるし、あるいは全然進まない方は、同じく考慮不尽により、いきなり最狭義の実質説による学習方法を採用してしまっている可能性がある。

(2)論文

例えば、平成30年司法試験刑事訴訟法に代表されるメモの伝聞の問題。出題可能性が高いことを前提とし、同じ「犯行計画メモ」であっても、事案、被疑事実、他の証拠の有無等によって、何を立証するかは問題によって変わるし、もちろん、推認過程も異なる。言わずもがな最狭義の実質説での学習が必要。形式説による6回の「回した」では、試験への対応は困難であろう。逆に、最狭義の実質説による2回の「回した」であれば、試験への対応可能性は飛躍的に高まると考えられる(もちろん、個々の力により3回、4回と変わる)。ただし、初学者のうちから最狭義の実質説というのは厳しいものがあるから、まずは「敵を知る」という趣旨で形式説での学習をしてみるのも一つなのかもしれない(どこかで最狭義の実質説とすべきときは来る)。

一方、令和元年司法試験民法設問1(2)のような土地工作物責任の要件検討の問題。この手の”大した論点はなく、愚直に事案に即した要件検討すれば足りる問題”のときには、とりあえずは形式説あるいは広義の実質説的学習を行っておき、どこかのタイミングで狭義の実質説的学習を行い、「瑕疵」等の定義を覚える、という方法論でも対応できる。
具体的な例は以下のとおり。

1回目 初学者時点。形式説→”なんかそういう問題らしい”(書けない)
2回目 準初学者時点。形式説→”前にやったな”(ほぼ書けない)
3回目 ~中級者時点。広義の実質説→”自分なりに当てはめはできた”(でも定義は不正確、当てはめもまだまだ)
4回目 中級者時点。狭義の実質説→”瑕疵の定義等を覚えたうえで書けた”(当てはめもできているとの添削を受けた)
5回目 上級者時点。最狭義の実質説→”類似問題にも手を出して理解を深めた”※ただし、土地工作物責任でここまでやるべきかと言われると悩ましい

このように自身のステージを踏まえてよって立つ説を変えながら学習すると、効率性と理解とのバランスを取ることが出来る。そして、短答同様、力のある受験生はこうしたことを無意識的に行っているのかもしれない。逆に「何周も回しているのに出来ない」という方は、形式説を前提とした「回す」しかしていない可能性がある。

5 まとめ

 以上のように、過去問や問題集を「回す」と言っても、その”深さ”に着目すると、実にいろいろな意味での「回す」という言葉がある。合格を目的と考えたとき、その手段として、様々な事情を考慮して、”当該問題についてのあなたに合った「回す」”を探っていってほしい。

 

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