家族写真から僕が消えた
コロナもあって3年ぶりに実家に帰ったときの話。
母からの「何が食べたい?」という昨日のLINEには胸が躍った。久しぶりの実家ごはん。何をリクエストしようかとワクワクしながら、「スキヤキかしゃぶしゃぶでお願いします」と返信。あえて一つにしないことで、どちらになるのか。そのドキドキを楽しみたかった。
玄関のドアを開けると、懐かしい香り。両親は嬉しそうに迎えてくれ、リビングに入るとテーブルには肉と野菜が並べられていた。これはしゃぶしゃ、いや、落ち着け。決めつけるのはまだ早い。サイゼリヤで間違い探しをするかのように、テーブルの隅々まで目をこらす。しかし、やっぱりない。玉子がない。我が家のすきやきには必ずあるはずの玉子がない。これで確信した。「しゃぶしゃぶだぁぁぁぁぁぁ!」(本当はスキヤキが食べたかったけれど)
ちょっぴり残念に思いつつも、嬉しさがこみ上げてくる。おふくろの味。しかし、妙な違和感が心に引っかかった。それは「しゃぶしゃぶにおふくろの味が出るのか」ではない。リビングの様子が少し変わっていて、新しい扉が増えている。テレビの横には任天堂スイッチや『太鼓の達人』、ジェンガといったボードゲーム。両親がゲームをしていることに驚いた。ボケ防止のために始めたとのことだが、甥(姉の子ども)の影響もあるようだ。しかし、心の中の違和感はそれではなかった。
お肉をしゃぶしゃぶしながら、頭の中はその違和感でいっぱいに。しゃぶしゃぶしすぎて、お肉はカチカチに。両親が姉や甥っ子の話で盛り上がる中、僕は気のない返事を繰り返す。その時、ふとリビングの壁に目を向けると、衝撃的なことに気づいた。
「この家に俺の写真が一枚もないじゃん!」
心の中で絶叫した。リビングや玄関を見渡しても、僕の写真だけどこにもなかった。両親や姉、甥っ子の笑顔が映る写真はたくさんあるのに、自分の写真だけが消えている。この世界から消えていた。確かに、実家を出てから随分経つし、自分の存在が必要だとは思わない。でも、寂しいじゃない。友達も少ない。恋人もいない。そんな僕がいる写真が残っているのは、見返したくもない卒業アルバムくらいじゃないか。別に写真が撮りたいわけでもないけれど。
洗面所で顔を洗って鏡を見上げたとき、『世にも奇妙な物語』のテーマ曲が頭に流れた。当然のように洗面所にもなかった。なるほど、なるほど。ドンドン。カカカッ。もうさ、たたくしかないじゃん。太鼓の達人。
かつてお付き合いした方とゲームセンターでやった太鼓の達人。それが家にある。ホワイトベリーさんの『夏祭り』に合わせて太鼓をたたく。ドンドン。カカカッ。たたく、叩く。空に消えていったのは、打ち上げ花火じゃない。俺ぇーーー。
それでも、まだ諦めたくなかった。太鼓を叩きながらキョロキョロと写真を探していると、母から「画面を見るのよ」と言われ、父からは「見ないでやるのがカッコイイと思ってるんじゃないか」と。そんなやりとりが耳に入る。めんどくさい。だけど、間違いなく母さんと父さんだ。何度やってもステージをクリアできないのは、リズム感がないのは、父親ゆずりか。
それでいいじゃないか。ゲームのスイッチを切ろうとしたとき、あった。テレビの下に小さな写真があった。姉と一緒に写っている、プリクラと同じ大きさくらい。しかもなぜか白黒。それでも分かる、5歳の頃の僕だ。いつからこの家での自分の存在が止まってしまったのか、考えさせられる。
何かを取り戻そうと「ジェンガやろう!」と両親を誘ったら、連続ドラマの『大病院占拠』を見るからと断られた。今日は土曜じゃないよね。それ録画だよね。リアルタイムじゃない。3年ぶりの再会が録画に負けてしまうのか。
頭の中のジェンガが音を立てて崩れそうになるのを踏みとどまり、階段を上がろうとしたとき、赤ん坊の頃のハイハイしている自分の写真を見つけた。我ながら可愛すぎる。奇跡の一枚ってやつ。その瞬間、時間が逆戻りするような気持ちになった。
この家での自分の存在が薄れていくのを肌で感じながら、懐かしさと切なさが交錯する不思議な体験だった。そして、毎年実家に帰ってくることを固く心に誓ったのであった。