「努力=才能」について思うこと
努力は才能である、ということが、ある研究で証明されました。
それに伴って、報われない努力は無駄であるという言葉をよく耳にするようになりました。
今回はそんな、努力は才能、という言葉に対して思うことをお話してみようと思います。
「努力=才能」を示す研究結果
努力は才能である。
まずは、この言葉が巷に溢れるようになった元となる研究を紹介します。
一卵性双生児の双子850組を、各組ごとに富裕or貧困家庭という二つの異なる環境下に分け、クラシック楽器の練習をさせた結果、演奏技術の上達度合いに差は見られなかった。
裕福な家庭で高度に演奏技術を上達させた人間は、
貧困家庭の双子のもう片方も、高度に演奏技術が上達した。
逆に、上達しない双子は、どちらの環境下でも上達しなかった。
つまり、努力能力は置かれている環境に左右されず、努力できる遺伝子があるかないかで決まる。
努力できるかどうかは生まれながらにして決まっている。
という論文です。
↓気になった方はぜひ読んでみてください。
当然、論文である以上、データの見せ方などの工夫はありますが、
(※工夫⇒「良く見える」データの見せ方をすることが理系の世界では当たり前に行われています。)
あながち間違いではなさそうなデータです。
一卵性双生児と二卵性双生児は、同じ双子でも前者は遺伝子が約100%同じで、後者は約50%同じ。
似たような遺伝子医学の研究でも、多くの場合、
一卵性双生児の双子間では、努力に対する環境の作用は少なく、
二卵性双生児の双子間では、努力に対する環境の作用が見られることから、遺伝子の影響は確実にあると言って差し支えないでしょう。
繰り返しになりますが、
努力できるかどうかは生まれながらにして決まっている。
みたいです。
努力=才能が成り立つか否かは関係ない
そんな研究を紹介するなんて、あなたは努力否定派ですか?
と言われてしまいそうですが、
そんなことはありません。私は努力肯定派です。
肯定したいというのももちろんそうですし、
できればポジティブなお話をしたいと思っています。
自分にも、読んでくださる人にも、ポジティブな思いを持ってほしいと思って、noteを書いています。
なので、ここからは私の努力に対する肯定的な意見を述べます。
話を戻しますが、
私は努力=才能だとしても、
努力はするべきだと思っています。
なぜなら、
あなたにその努力の才能があるかないか、
遺伝子を見て調べることはできないからです。
世の中、やってみなきゃわからないという言葉がありますが、
正直、やってみてもわからないことの方が多いと思います。
なにが言いたいかというと、自分なりに努力してみても、
得られた結果が努力不足によるものなのか、
自分のセンスの無さが原因なのかが判断つかない。
ということです。
ましてや調べようがない遺伝子のことを考えても仕方がありません。
結局のところ、
努力=才能だとしても、それを確かめようがない以上、
努力はするしかない。
という言い方が合っているでしょうか。
でも、実際のところ過去を思い出すと、
全然努力が報われなかったから、やらなければよかった
という経験がある方もいらっしゃるかと思います。
私ももちろん、そんな経験があります。
今になって考えてみると、
なぜ報われなかったのか、わかるような気がします。
ですので、最後に「報われる努力」
というお話をして終わりにしたいと思います。
目指すべきは「報われる努力」
当然ですが、
報われるような努力の仕方をする
というのは大事だと思います。
努力という言葉で一般的にイメージされる、
とにかく数や時間をこなせば報われる
というのは、成り立たないと思います。
「頭を使う」ということですね。
ここが一番難しく、
むしろ才能はそこに現れるんじゃないかなとも思います。
そして、もっと言うと、
「努力=才能」論の落とし穴を回避する考え方が、
この、報われる努力という考え方であるとも思っています。
報われる努力
報われる努力をする人は、目標の設定が明確です。
そもそもの目標とするための、やりたいことがわからない
という方は、私が以前書いた、
という記事を読んでいただけるととても嬉しいです。
話を戻して、まず始めに
✓明確な目標とは、
です。
具体的に例を挙げると、
この参考書を今日は10ページ分進める。
この参考書を3か月以内に終わらせる。
であるとか、
毎朝5km走る
半年で3kg痩せる
とか、
明確な数字設定があるものです。
もしあなたが、
とにかく痩せてモデルの〇〇さんみたいになりたい!
という目標を掲げていた場合、
あなたは明日からなにをすればいいかわからないはずです。
したがって、明確な目標を設定する、とは、
抽象的なふわっとした未来像を、
数字で明確な具体的目標に落とし込む
ということです。
モデルの〇〇さんのように痩せたいあなたは、
✓〇〇さんのプロフィールをチェックし、
✓〇〇さんの情報発信から日々の食事やトレーニング情報を得て、
✓自分の生活スタイルで可能な範囲の数字目標を設定する。
私が今思いつく限り、上記の行動が必要になります。
(もちろん、あなたが思いつくものでもいいと思います。)
これをしなければ、あなたのダイエットは必ず失敗します。
これが一般的ないわゆる報われる努力の仕方だと思います。
最終的に報われた感があれば十分
最後に、私がなぜ上述の内容を、
「一般的な報われる努力の仕方」だと言ったのか
説明したいと思います。
私は、特に最後の自分に可能な範囲の~
というのが非常に重要だと思っています。
これが「努力=才能」論を回避する考え方です。
あなたにダイエットを努力する才能(=遺伝子)があれば、
本当に〇〇さんのようになれるかもしれません。
しかし、実際のところは、
そうも上手くいかないのが現実です。
私が思うに、
報われない努力をしてしまい、
「努力=才能」論を信仰するようになってしまう人は、
報われなかったと感じてしまうほど、
目標の設定が高い真面目な人が多いです。
モデルの〇〇さんのようになることは、
もちろん目標として否定されるべきものではないですが、
あなたがどんなに努力しても、
モデルの〇〇さんに取って変わることはできません。
だから、
自分に可能な範囲の目標を掲げ、
目標の達成確率と充実度を上げることの方が重要です。
「努力=才能」論では、
才能は、なにか特別なものであり、
努力は、その才能を持つほどの努力ができるかどうか
という文脈で話されることが多いです。
つまり、
にスポットライトを当てている気がします。
でも、人生の幸福度って、
誰もが羨む才能を手に入れることで高まりますか?
実際は、
自分が納得を得られる結果のレベルで、
報われた感があれば十分
だと私は思うのです。
だから、繰り返しになりますが、
自分に可能な範囲の目標を掲げ、
目標の達成確率と充実度を上げることの方が重要です。
そんな風に生きていれば、
「努力=才能」だなんて、どうでもよくなると思うのです。
最後に
結局のところ、
「努力=才能」なんて、
成り立とうが成り立たまいがどうでもいい。
本当の幸福度は、「報われた感があるかどうか」だから。
という結論に落ち着きました。
本末転倒なお話になってしまいました(笑)
でも、私はこんな考えを持つ人が増えれば増えるほど、
世の中の流行りの思考や風潮に流される人が減る
のではないかと思っています。
著名な人や研究者が述べたことは正しいことが多いと思いますが、
私は正しいことが、必ずしも自分に合うことだとは思いません。
もし私のこの考えが、自分に合う!と思ってくださり、
生きることが楽になる人がいるのであれば、
それは私にとって、何にも代えがたい幸福感であり、
報われた感を感じられる努力をしたと、感じるでしょう。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
もしよろしければ、反応をいただければ嬉しいです!
ぜひあなたの思考も聞かせてください!