Togashira Farm 通信 -June 2022-
- 反復と思考、透明になるトラクター -
農作業は思考の深みにもってこいで、それはひとえに反復作業の生み出すものだと思う。例えば、土に種を蒔き芽が出て育つ。当たり前と思っているこの流れを最近とても不思議に思う。ホームセンターでもどこでも紙の袋に入ってて、振るとカラカラ音が鳴る種。その種に土と水の要素が加わることで、カラカラの種の中で劇的な変化が起きる。土・水・種 不思議がつまっているこの三要素の関係性はなんなんだ?なんてことを繰り返し考えてたりする。もちろんそんな面倒なことばかりではなく、お腹すいただの、あれ欲しいだの、眠たいだの、雑念は大勢で並んでたり居座ってたりする。
トラクターで土を耕していると多種多様な鳥がその後ろについてきたり、周りで土をつついている。ミミズを狙っているもの、もう少し小さな虫を探しているもの。ワシの仲間はネズミに目を光らせているのかも。トラクターにお構いなく思い思い過ごす鳥たちが、ひとたびドアを開けヌッと人が出てくると、一目散に逃げてしまう。大きな轟音を響かせるトラクターには逃げず(むしろついて来る)それに比べればヒョロリと弱そうな人には逃げていく。この違いは何だろうか?危害を加えてくるか否かとずっと思っていたが、最近では環境に溶け込んでいるか否かではないのかと。
これは趣味の山歩きの最中に鳥や虫が寄って来る瞬間があり、どうしてかなと思索歩きの中で導いた答えで、反復(この場合歩く)を続けるとやがてその反復するものは山に住むものたちの中で日常となり、反復の行為を続けるとやがて環境に溶け込み存在が透けていき、そのうち鳥や虫たちも気にせず近づいて来る。トラクターの場合で言えば、轟音を鳴らし田を耕す反復それ自体が鳥や虫にとって日常に透けているもので、人の登場は非日常であって色鮮やかであり逃げるべき事態なのだ。
何度も挫折したジル・ドゥールーズの差異と反復にもしかしたら答えが書いてあるかもしれない(読むと数分で眠たくなる…)なんだか哲学みたいな話になったが、透明になって溶け込むことが善、出すぎた杭が悪という訳ではない。通り過ぎていく景色ひとつ、農作業ひとつでもそんな思考が埋もれていたりする。やはり農作業は思考の深みにもってこいだ。