映画『燃ゆる女の肖像』

友人に、なかなか強いことばで誘われた。

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ので、観てきた。『燃ゆる女の肖像』。

フランス映画はほとんど観ないし、そもそもこういう――純文学的、といったらいいのだろうか、映画賞で話題に上るような映画を観た記憶があまりないので若干不安に思いつつ映画館に足を運んだ。

(以下、作品の内容に触れますので、注意してお読みください)


例によって、事前情報をほとんど入れずに(予約の際に公式サイトを見ただけだ)劇場に行った。

まず、身体的な反応として顕著だったのが、「体の力の抜け具合」が通常の映画と比べて段違いに深かったということだ。
わたしは映画館のふかふかの椅子で映画を観ていると、決まって脱力する。足や手から力が抜け、意識から外れ、自分の四肢の存在を忘れてスクリーンにのめり込む、あまり他では味わうことのない感覚だ。動かさないでいた腕を、エンドロールが終わったタイミングでぐぐっと持ち上げると血流量が回復する感じも気持ちよい。
そんな感覚に、この映画は、なりやすかった。

理由はなんとなくわかる。とにかく「雰囲気づくり」が上手なのだ。
この映画において、BGMは用いられない。あるのは環境音と、作品内で「流れるべくして流れる」音楽である。それがスクリーンの向こうの世界の実存性を強調する。「本当にある」世界だと、体が錯覚する。
書いていて思ったけれど、そしたら、カメラワークも上手なんだな。遠景はあまりなく、基本的には人の視点から――登場人物の視点からのカットが多い、気がする。これは今思い返してそういう印象があるというだけで、見返したら違うかもしれないけれど。
このような仕事ひとつひとつが、没入感を生んでいたのだと思う。


登場人物が必要最小限なのもわたし好みだ。
事実、公式サイトのキャスト欄には4名の女性が出ているだけ。
画家と、モデルと、メイドと、依頼主だけ。
"定められた"中での女性どうしの感情を丁寧に描くために、あえて絞り込んでいるのだろう。
映画のほとんどのシーンはこの4人の女性のみが登場し、なんというか、女子校感があった。
期間限定の、手折ればやがて萎れてしまう百合の花。そういえば、劇中ではアルストロメリアが枯れていくようすが効果的に用いられていた。


欲を言えば――ラストの後日談は蛇足だったんじゃないかと思うけれど。
あの、キーとなる台詞を言って暗転して、そのままエンドロールに突入したらモヤモヤ感も相まって最の高だったろうに。
……でもそうしたらラストのオーケストラシーンはつくれないから、良し悪しだなあ。うーむ。


知人に「BGMで感情をつたえろ!!」といつも言ってくる人がいて、それ自体は正しいと思うのだけれど、そうじゃないのもよいなあと思いました。
これはわたしが、現実世界に依りすぎなのだろうか。


ヴィヴァルディ『夏』を聴きながら。


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