人生で最後に食べたいもの。
父には、母がすでに他人に見えているらしい。
夫婦関係が冷え切っているとかそういう話ではなくて、アルツハイマーというやつである。
甲斐甲斐しく自分の介護をしてくれる母のことを父は「優しいお姉さん」と呼ぶそうで、自分があなたの配偶者であることを伝えると、とても驚くのだそうだ。どうやら父は母の名前や存在は認知しているのだが、目の前の人がその人だということはわからないらしい。そんなことを母は電話口で笑いながら報告してきたので、私も同じようなテンションで友達に話したら、友達は泣いてしまった。
どうやらこの話は、世の中的に笑い話ではないらしい。
新宿マルイの屋上でスタバのテイクアウトを飲みながら駄弁るには、重すぎるテーマだったようだった。
母はそのあと、父に「○○(姉の名前)は誰?」と聞いた。
チキチキ!家族をどこまで覚えてるかチキンレース!
父はすぐに答える。
「俺の娘」
「じゃあ、りゅうは?」
母が聞く。父は答える。
「そんなのはおらん」
私はとっくに父の中でおらんことになっていた。まぁ正直全然実家に帰ってないし、そもそもこれまでの人生で父とはほとんど会話という会話をしたこともない。父のことは何も知らない。知っているのはもち吉のおかきが好きだということくらい。だからその答えに対する私の感想は「まぁそうでしょうね」だ。
それに、父は昔から姉びいきだった。
私の誕生日は忘れても、姉の誕生日には大きな大きなフクロウのぬいぐるみを買ってきたことがあった。私にはおまけで10分の1サイズくらいのプチフクロウが進呈された。明確な扱いの差を、その時強く感じた。すごくすごく憤った。母が「りゅうの誕生日には何もなかったのにね」と呆れたように笑うと、父はバツが悪そうに姉の大きいフクロウを私に渡してきた。そういうことじゃあないんだよ、とムカついた。父はその後、なんでもない日に任天堂64も買ってくれたし、いろんなゲームソフトも買ってくれた。私だけ不遇ということは、たぶんなかった。それでもあの時のフクロウの大きさの差を、今でもときどき思い出す。
小学生のとき、朝寝坊した私は母の車で学校まで送ってもらうことになった。しかし、母の車のカギが見つからず、困った母は仕方なく父に私を送っていくように頼んだ。
だけど私は母が送ってくれないと絶対に嫌だと泣いて、玄関から一歩も動かなかった。しばらく車で待っていた父だったが、仕事の時間がきてしまい、そのまま発進して行ってしまった。遠ざかって行く父の車を、私はどんな気持ちで見つめていたんだろう。父は姉びいきだったが、私も父のことを選ばなかった。
まだアルツハイマーの進行が浅かったころ、父は同じような症状の人たちが集まる施設に通っていた。そこで父は軽い運動やパン作りなどをして、一日を過ごす。
あるとき、母から送られてきた荷物の中に、ぶさいくな食パンが数切れ入っていたことがある。あまりパンを食べる習慣のない私は、それを冷凍庫に突っ込んだまま放置していて、引っ越しのタイミングでその行方も分からなくなっていた。
その食パンが、施設で父が作ったものだと知ったのは、もうとっくに父が何もできないひとになってしまった後のことだった。
あれが、あのパンが、きっと父がくれた最後のものだった。
私のために作ったわけじゃないんだろうけれど、父のことは大好きではなかったけれど、迷惑もたくさんかけられたけれど、それでも、なんであのパンを食べなかったんだろうと今でもずっと思い続けている。
「人生最後に食べたいものは?」と今聞かれたとき、あのぶさいくな食パンのことを、きっと私は思い出す。