登戸からブリジット・ジョーンズとして帰宅

 マッチングアプリで意気投合した男と会うことになった。意気投合といっても、趣味が合うとか恋愛観が合うとか、そんな話ではなく、ただその日その瞬間に時間があって、お互いになんとなくムラムラしていたという一点が見事に合致しただけである。

 最初は無難な挨拶から、メッセージを交わす。それから少しずつ、自分の性欲をメッセージに織り交ぜていく。そうしていくうちにお互いに「これはいけそうですね」といった雰囲気になり、無事交渉成立。相手の方から、家に今から来ませんかという言葉をいただいた。

 ただ、一つだけ問題があった。相手の家が神奈川県の登戸にあるらしい。登戸といえばドラえもんで有名な藤子・F・不二雄ミュージアムがある駅。遠い。たぶん遠い。お昼の3時過ぎ。正直めんどくさい。でも、相手が家に来るのもちょっと嫌だ。こういう時は自分のタイミングで帰ったりしたいし。性欲が思考の主導権を握っている時は、どうも傲慢になりがちだった。

 私はスマホの乗換アプリで最寄駅から登戸までの所要時間を調べた。今から出たとして、到着するのはだいたい1時間後。思っていたよりは遠くなかったが、それでもちょっと考えてしまうくらいには距離があった。ゲイ活を始めたばかりの時はきっと、こんなこと考えずにすぐに会いに行ったんじゃないだろうかと思う。東京にいると、近場にたくさんイケてるゲイがいて、案外サクッと会えてしまうので、感覚がかなりバグってしまっているように感じる。

 マッチングアプリを開き、相手の写真を見る。それなりに好きな顔だ。それに、正直このメッセージのやりとりで貴重な休日の時間を結構消費してしまった。このまま何もしないのは、非常にもったいない。頭の中でムラムラとめんどくささを天秤にかけた結果、ギリでムラが勝った。私は急いで出かける準備をして、家を出た。

 昼下がりの電車は、結構空いていた。ガタゴト揺られながら、かなり頭の悪いことをしているな、と思う。でも、今日はそれでいい日なのだとも思う。世界平和を願い、悪しき政治を憂う日もあれば、初めて会う男とセックスするために1時間電車に揺られる日もある。生きてる、生きている。

 イヤホンで音楽を聴くのにも疲れてきた頃、小田急線がようやく登戸に到着した。ドラえもんカラーの駅名標を横目に、ホームに降り立つ。ドキドキしてきた。少し汗をかいた手でマッチングアプリを開く。

「着きました!」
 メッセージを送ると、すぐに返事が来た。
「わかりました! 改札の前で待ってますね」

 このスピード感。いよいよ始まるのだなと感じた。これからお互いに顔を合わせて、はじめまして〜なんて照れながら挨拶をして、じゃあいきましょうかそうしましょうか、なんて言って歩き始めて、相手の家に着く前に最寄りのコンビニでお茶などを買ったりなんだりして、ようやく家に着いたと思っても、なんだか気恥ずかしくて、そういう目的で会ったのに中身のない雑談なんて始めちゃったりして、でもお互いにセックスのことしか考えてないからそんなに盛り上がりもせず、結構唐突な流れでキスしちゃったりして、それからは坂道を転がるみたいに勢いよくベッドに倒れ込んだりなんだりしちゃうんだろう。

 私は緊張しながら改札へと歩く。登戸駅にはたくさん人がいる。半分くらいは藤子・F・不二雄ミュージアムを目指すお客さんだろうか。壁にはドラえもんやのび太たちがニコニコしながら歩いているイラストが描かれている。なんだか歓迎されている気持ちになる。藤子・F・不二雄ミュージアム行かないけど。

 改札が近づいてきた。私は写真で見た彼の姿を探す。
いた。駅構内は人でいっぱいだったが、向こうも私に気がついているようで、じっとこちらを向いて立っているのですぐにわかった。

 わかったのだが、その立ち姿を見て、なんだかちょっと嫌な予感がした。でもまだ距離はあるし、私は視力がかなり悪いので、歩みは止めなかった。歩く。歩く。近づいてくる。ぼんやりとしていた彼の輪郭が、どんどん鮮明になっていく。鮮明になった結果、私の嫌な予感の輪郭もはっきりとした形になった。

 写真と顔、全然違うやんけ。

 人の見た目をどうこう言いたくないし、美醜の話をしたいわけでもない。ただ、事前に開示していただいていた資料とはあまりにも乖離があるように感じるのですが、そのあたりはいかがでしょうか。でも、別人というわけではない。おそらくご本人の写真を使っている。ただ、アプリのプロフィール写真から醸し出される雰囲気と、今彼が放っている雰囲気はゾウとイルカくらい違った。私はゾウさんだと思って会いにきたので、イルカさんが現れたことに大変困惑してしまった。私が写真をよく見ていなかったせいもあるのだろうが、でも本当にゾウに見える写真だった。あれは絶対に。そして私はイルカさんとはセックスできない。

 どうしようどうしよう。歩みを止めるわけにもいかず、私は固まった笑顔のまま彼に近づいていった。近づけば近づくほど写真と違う。あとついでに言うなら、信じられないくらいTシャツの首元がダルダルになっている。初めましての人と会うのにそのダルダルはどうなんだ。Tシャツには大仏ぐらいでっかい猫の顔がプリントされている。まぁそれはいいけど、ダルダルはどうにかして欲しかった。多分部屋に直行するからそのまま部屋着で来たんだろう。どうせセックスするときに脱ぐのだから、そのまま部屋着で来たんだろう。写真と全然違うやんけ、の衝撃で他のこともコンボのように気になってくる。

「どうも〜」
 私はなんとか声を捻り出した。どうしよう。どうしよう。相手はニコリともせず、私を見てぺこっと一礼した。なんか言ってくれ。私は笑顔が硬直したまま、頭の中がずっとスパークしている。まぁ通常の流れなら、このまま相手の家に直行するわけだが、今回に関してはそれはできない。ここまで来たんだから我慢して……みたいなこともできないくらい写真と違う。どうしよう。どうすればいい?

「あの、どうですか?」

 ぽつり、と相手がつぶやいた。蚊の鳴くような声だった。
 どうですか、というのはつまり「僕と実際に会ってみてどうですか?」と言う意味だ。ノンケのことは知らないが、マッチングアプリで出会うことが多いゲイの初対面時には、よく発せられる文言である。ありがたいことに、その確認を相手側がしてくれた。チャンスだった。チャンスだったのだが。

「あ、えぇ、もう、全然。はい」

 私は「ごめんなさい」の一言が言えなかった。目の前の相手に向かってノーを突きつける残虐非道な行いを、私はつい避けてしまった。悪者になりたくなかった。この日の私はとことん傲慢だった。
「じゃあ、いきましょうか」
 オッケーが出たところで、相手は歩き出そうとした。まずい。

「あ、えーと、その前にまずはちょっとお茶しませんか?」
 咄嗟に口から出た。相手は「え?」と言う顔をする。

 そりゃあそうだろう。メッセージの段階では、パッと会ってパッとやりましょうや! みたいな雰囲気だった相手から、急にプラトニックなお茶のお誘い。人格どうなっとんねんと思われても仕方がない。しかし、このまま相手の家に行ってしまえば、もう終わりだ。私は捲し立てるように口を開く。

「どこかないですかねカフェとかそんな感じの、そこでとりあえずお茶しませんか」
「お茶なら家にありますけど」
 相手は怪訝な面持ちで言った。お茶、出してくれるんだ。ありがとう。ごめんね。本当にお茶が飲みたいわけじゃないのよ。

「いや、カフェ、行きましょう」
 強引にねじ伏せるようにして、私は目についたドトールに入った。困惑顔のまま、相手は私に付いてきた。「?」でいっぱいの顔をしていて、非常に申し訳なく思った。

 ホットコーヒー(Sサイズ)を頼んで席につく。
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
 地獄のような沈黙。相手は下を向いていたかと思えば、時折上目遣いでチラリとこちらを伺うように見てくる。なんなんだろうこの時間は、と思っているのだろう。私も思っています。居た堪れなくて、私はコーヒーをずずずと飲んだ。

「えと……お家は近くなんですか?」
 行く気はないけど、黙っているわけにもいかずに聞いてみる。
「はい」
 相手はこくりと頷いた。
「…………」
「…………」
「あ、えっと……登戸を選んだのはどうしてなんですか?」
「職場が近いので」
「あぁ、なるほど」
「はい」
「…………」
「…………」

 沈黙が高頻度でやってくるので、泣きそうになる。さっきからこの人、こちらが投げた質問に一言答えるだけで、会話を何も広げてくれない。私が何も言わないと永遠に黙っていて、登戸駅前のドトールはそれなりにお客さんも多いのに、私たちのテーブルの周りだけ異常なほど静かだった。

「あの、普段から、その、こんなに、なんというか、大人しい、感じなんですか……?」
 あまりに困ってしまい、私はついダイレクトに聞いてしまった。相手は3秒ほど黙った後、ゆっくり口を開いた。

「いや、緊張しちゃって……」
「あぁ、なるほど……」
「…………」
「…………」

 確かに、私も20代前半の頃の初リアルはいつも緊張していて、会話をリードしてもらわないと何も話せなかった。相手の質問にポツリポツリと答えるだけで、こちらから会話を広げる努力も、質問を返す努力もしなかった。ずっと「人見知り」を盾にして、コミュニケーションを相手に丸投げしていた。今、それをされる立場になってその罪の重さを知った。因果応報という言葉の味は、登戸のドトールのコーヒーの味だった。

「えっと、ご趣味は……なんですか」
 指摘されて悪いと思ったようで、おずおずと相手が聞いてきた。お見合いみたいな質問だった。
「映画観たり、読書したりとかですね。そちらのご趣味は」
「音楽やってます!」
 食い気味だった。声も大きく明瞭になり、下を向いていた視線もバッチリこちらをとらえている。自信に満ちた瞳だった。もっと聞いてくれと言わんばかりの顔をしていたが、これまでのダメージが溜まりすぎていたので、今さら深掘りする気にはなれなかった。私はそっと目を逸らして「そうなんですね」とだけ言ってコーヒーを飲み干した。
「…………」
「………………」

ドトールを出て、私は小さく息を吸って、吐き出した。

「えっと、あの、なんか、すごく緊張されてるみたいなので、今日のところは帰りますね」
 ぐるぐると頭の中で考えに考えた結果出てきた断り文句は、意味不明だった。

「わかりました」
 それでも相手はとっくに察していたようで、さっと踵を返して去っていった。1秒たりともここにいたくないというスピードだった。結局、こうやって傷付けてしまうのだったら、最初に「どうですか」と言われたタイミングで潔く断るべきだったのだ。お互いのためにも。

 登戸駅に戻り、ちょうど到着した小田急線に乗り込む。
 席は空いていたが、座る気になれなくて、閉まったドアにしなだれかかるようにして立つ。昼と夜が混ざり合う、夕方の景色。窓の外からオレンジ色の光が差し込んできて眩しい。
 
 登戸までの往復の運賃とコーヒー代、ここまでかかった時間。潰れた休日。浮かれていた数時間前までの私。

 映画『ブリジット・ジョーンズの日記』で主人公のブリジットは、ドレスコードが変更になったことを知らされておらず、バニーガールの格好で一人パーティに参加してしまう。皆がフォーマルな格好をしていることを知った時の彼女は、口をすぼめてなんとも言えない表情になる。うまくいかないとき、思い通りにならなかったとき、ままならないことが起こるたびに、彼女はあの顔をする。きっと今、私もそんな顔をしているのだろうと思う。

 マッチングアプリを開くと、すでにあの人からブロックされていた。

 アラサーでゲイのブリジット・ジョーンズが、いま、登戸から帰宅する。

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