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短編小説 友が見た幻

 高知にしては珍しく、雪が降った日だった。僕は、一人暮らしを始めてそろそろ一年が経とうとしている事に驚きながら、猫を撫でて落ち着いた正月を過ごしていた。僕の携帯に、ある一本の電話があったのは、午後3時を回った頃だった。友人の、A君からだ。A君は中学と高校が同じで、大学生となった今でも、定期的に遊びに行く仲だった。
 携帯が鳴るまではボーっとしていた僕だけど、久しぶりに遊びの誘いが来たかと思って、嬉しい気持ちで電話に出た。しかし、電話口の彼は泣いていた。
「もしもし?どうしたの?何かあった?」
僕はできるだけ丁寧に彼に尋ねた。彼は、泣きじゃくりながら何かを答えていたけど、それは僕の耳には届かず、何回も何回も聞き直す羽目になった。
「言わなきゃいけない事がある。僕の家に来てくれないか。」
 彼はただ一言それだけを言うと、また泣き始めた。これだけ泣いているということは嬉しい報告じゃないだろ。僕は覚悟を決めて、急いで車に乗り込み、彼が住むマンションへと向かった。車を使えば20分くらいで行ける所だけど、その時間が妙に長く感じた。
 彼の部屋のチャイムを鳴らすと、窶れて目を真っ赤にしたA君が出てきた。こんなに寒いと言うのに、彼は薄着のTシャツ一枚で過ごしていたらしい。彼は扉を開け放したまま、無言で部屋の奥へ戻っていった。
 部屋の中でも、炬燵も、暖房もついていなかった。彼は黙り込んだまま体育座りで俯いている。嫌な緊張感が部屋に流れて、1秒進むごとに少しずつ傾いていく時計の音を感じながら、僕はただひたすらに彼が喋り始めるのを待って正座していた。僕から喋り出しても、きっと僕は上手く彼を導いてやれないからだ。
 A君が喋り始めたのは、僕が彼の部屋に到着してから30分が過ぎた頃だった。彼は、ポツポツと言葉を発し始めた。

 今から、一年前に遡るだろうか。僕たちは、母校と桜を背にし、晴れて大学生となった。僕は心理学が学びたかったので、県外の大学に進み、そこで新たな学びを始めていた。一方で、彼は県内の大学に進み、それなりの学生生活を謳歌していたようだった。しかし、そんな彼の大学生活をドン底に突き落とすとある罠があった。
 僕やA君みたいなのはモテるタイプでは無かったから、高校ではそういう色恋沙汰にまったくと言って良いほど縁が無かった。大学では、可愛い彼女作って青春楽しむぞー、と卒業式で息巻いていた程だった。そんな彼にも、人生初めてのアベックが出来たようで、彼が喜びながら僕に電話してきた日の事を僕は今でも覚えている。彼と彼女の写真も送られてきたが、確かに美人で、お似合いのように思えた二人だった。彼は電話口で、
「彼女から告白してくれたんだ。飲み会の席で、そっと手を重ねてくれて、嬉しかったなぁー」
と、嬉しそうに語っていた。それ程、彼の人生にとって大切な人だったんだろう。
しかし、楽しい時は刹那と少ししか無かったようで、いわば彼女は美人局のようなもので、ホテルから出てきた所を彼女の彼氏らしい屈強な男に捕まった。彼は狭い一室に押し込まれ、暴行の限りを尽くされた後、有り金を全て奪い取られ、これから男の奴隷になる旨の契約書にサインさせられたという。A君はゆっくりと携帯を取り出し、僕にその時のものらしい動画を見せてくれた。

『やめてください!やめてください!痛いです!』
『良いんだ?これ動画に撮ってるよ。惨めな姿全世界に晒されてたく無かったらコレ、サインしろよ。』

 まあ、ここから先は言わずもがなであろう。彼は男のサンドバッグ兼パシリになった。飲み会に呼ばれては全裸で芸をさせられたり、そのままベンチプレスを120kgも持ち上げるような男たちにボコボコに殴られたり、それを写真に撮られて仲間内のSNSにアップロードされたり、と。彼は毎月5万円をその男に献上しなければならないので、ボロアパートに引越し、学業に支障が出る程アルバイトをし、そのまま過労で暫く寝込むこともあったという。ただ、、やはり男の命令が最優先であるが為に、40度を超える熱が出ていようとも、飲み会に向かって殴られ役に徹さなければならないそうだ。
 聞いているだけで吐き気がする話であるのに、A君はTシャツを捲り、身体中についた痣を僕に見せてきた。
 「そんなの…!」
僕が言葉を発しようとしたその瞬間、彼は静かにそれを制止して、また話の続きを始めた。
「俺は、その日も飲み会に呼ばれたんだ。そろそろ肉体も限界で、俺は今日を最後に全てから逃げ出そうと思ってた。俺の裸でボコボコにされた写真が全世界に公開されて、社会的地位が死のうと、逃げた先で野垂れ死のうと、この地獄から解放されるならなんでも良かったんだ。」
 彼は、目に涙を浮かべながら、続きを言う前に歯を食いしばった。僕も、彼が縛られてきた『地獄』というものがどれだけのものか想像し、苦しくなって、目から涙が零れ落ちた。親友として、僕が出来ることは無かったのか。いち早く、僕が異変に気づいていれば。そういう後悔が僕の脳を前後左右するけど、過ぎた時を悔やむ程馬鹿らしくて時間の無駄になる行動はない。僕は黙って彼の話を聞く事にした。
「あいつらは…俺に、薬を打ったんだ。」
 その一言に、僕の全身の筋肉が硬直した。薬…?違法薬物ってことか?自身では口にしているつもりでも、あまりの恐怖に声帯から声が出ていかない。強く吹きつける風と雪が、この部屋の空気を更に冷たくした。
「暴れる俺を殴って、動けなくなった所で薬を打たれた。そこからは、見たことのない景色だったよ。全てが真っ白になって、けれども色鮮やかで、ただその世界には俺が一人佇んでるんだ。気持ちが良かった。」
 彼は、彼の瞳は、彼の精神は、恐らく、もう死んでいたのだろう。遠い目で、僕じゃないどこかを見ている。
「どうやって家に帰って来たかなんて覚えてない。けど、もうそんなことどうでも良いんだ。俺はこれから日本のどこかに消える。でも、ただ一つ、これだけは…」
 彼は悲しいような、嬉しいような、そういう目をしてただ一言こう言った。
「もう一度、あれを体験したい。あの最高の孤独を。」

 部屋を出てから、もう一度僕は考えた。曲がりなりにも親友として、彼の進む道に立ちはだかるべきだったのか。彼はきっと、そう遠くない内に死んでしまうだろう。自殺か、餓死かはわからないけど。どちらの結末にせよ、彼が幸せを手にすることはできないのは確かだった。
 僕は、彼に何らかの形で手助けをするべきだったんだろうか。それとも、彼はそんなものら望んでないのかもしれない。世間は、彼のことをどういうふうに見るだろうか。どういうふうに言うだろうか。頭の中で「無駄だ」という声が鳴り響き始めた時、僕は自分の中で彼のことを諦めた事に気づいた。
 雪が止み、空は晴れ始めていた。この光景は、良く希望の兆しに例えられる事が多い。けれど、彼の中で雪が降り止むことはないだろうな。決して、彼の方を振り向くことはしなかった。しかし、僕の背後には、部屋に残してきたはずの彼の気配が、どんよりと漂っている。僕は希望のない小春日和の温もりに背中を押されながら、帰路に着いた。


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