114.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第7節「東映太秦映画村創設」
1.東映太秦映画村誕生への経緯
1972年春、前年東映社長に就任した岡田茂は京都撮影所(京撮)部課長会に出席し、撮影所の有料一般公開の可能性を検討するよう命じます。
ここから、映画村誕生への第一歩が始まりました。
かつて娯楽時代劇で一世を風靡した東映京都が作る映画の本流は、この頃には俊藤浩滋が進める任侠映画にかわっており、その任俠映画も中心スターの一人藤純子の引退が決まり、動員に陰りが見え始め、また、岡田自身が進めて来た好色映画は、石井輝男監督のエログロ路線から鈴木則文監督を起用したポルノ路線に替わっていました。
時代劇はと言うと、映画からテレビへ移り、『銭形平次』『水戸黄門』『遠山の金さん捕物帳』などの定番物がかつてのチャンバラ映画ファンの人気を集め、一方、新しい層に向けて他社から『木枯し紋次郎』『必殺仕掛人』などクールなアウトロー時代劇が登場、高視聴率を獲得します。
この年、日本列島改造論が話題を呼び、田中角栄が総理大臣に就任、そこから全国で不動産投機と開発が進みました。
東映京都でも、嵐山に土地を買って撮影所を移す話、大津市の琵琶湖近くの30~40万坪という広大な土地に撮影所全体とスタッフの住宅まで丸ごと新設する計画などが持ち込まれ、検討するも様々な問題点から頓挫します。
1974年5月、一時東映の経営を支えたボウリング人気が下火になり、岡田から事業の縮小と遊休施設活用の方針が打ち出されました。
京都では、京都東映ボウリングセンター閉鎖後の跡地利用についての案提出を、前年創設された京撮事業部が担当することになります。
当時、1970年から国鉄が始めたディスカバージャパンキャンペーンなどの効果もあり、京都への観光客も4000万人をうかがうほどに増え、撮影所に隣接する広隆寺には年間40万人ほどの入場がありました。新幹線の延伸、高速道路の拡張など交通網の発達、余暇時間の拡大などで、これからますます京都を訪れる観光客の増加が予想され、その反面、京都市内に駐車場のある団体用大型レストラン施設はまだ少なく、その拡大が望まれていました。
時代劇映画全盛期、東映は、映画PRのために一時撮影所に案内ガイドを置いて学校団体を受け入れていたこともあります。また、ロケ撮影時にはファンが数多く集まるため、いつも撮影整理を行っていました。
1972年春の撮影所有料公開発言は、このような体験から撮影を一目見たいという人々が数多く存在することを知っている岡田がそれらを直感でとらえたものであり、京撮所長の高岩淡を中心に事業部は、撮影をみせる有料娯楽施設という撮影所ならではの観光施設を作る方針で企画立案作業を行います。
そして、
① 懸案のボウリング場建物を、エントランスにレストランとショップが入るメイン商業施設に改装
② 既存の撮影用オープンセットを見やすく工夫を凝らして増改築
③ 既存のスタジオを改装したアトラクション
など、できるだけ既存施設を利活用し、活動屋ならではの撮影で培われたコストカットの手法を使った、お金があまりかからない開発プランを考えました。
施設ができた暁には、運営スタッフに、撮影本数が減った撮影所の社員を配転することで解雇しない合理化にもつながり、また、撮影を見せることで映画、テレビドラマの宣伝にもなります。
新規映像開発の試金石として一般観客の生の声が聞ける映像実験の場ができるなど、1975年9月1日開業を目指し、一石二鳥どころか三鳥も四鳥にもなる企画案が完成しました。
10月にそれを本社に提出すると、11月、本社経営企画室と共に具体案の検討に着手し、12月には開発図面ができあがります。
1975年1月末、ボーリング場を閉鎖し、3月からは日本能率協会のコンサルも交え、4月20日、有料で「一日映画村」を実施したところ約2万人が集まる大盛況となりました。
岡田の了解を得て、そこから実際の建設計画と具体的運営体制構築に取り掛かり、8月のお盆過ぎに着工、突貫工事で11月1日開業に至ります。
企画の立ち上げからオープンまで1年半という今では考えられない早業でした。
映画村はオープン初日から3日間で7万2千人の動員を集め、売り上げは6000万円を超えます。
その後も快進撃が続き、初年度、目標の年間有料動員数70万人をはるかに超える160万人を10ヵ月で記録しました。
映画村開業時、オープンセットでは、大川橋蔵『銭形平次』、杉良太郎『遠山の金さん』、水谷豊『影同心Ⅱ』、高橋英樹『十手無用 九丁堀事件帖』、松方弘樹『徳川三国志』、西郷輝彦『江戸を斬る』と6つのレギュラー番組が撮影されています。
① 映画村に来ればこれまで見ることができなかった人気スターにも会えるかもしれないとの期待
② 交通網の発達による、京都に来る個人客、修学旅行生など団体客の増加
③ 時代劇というテーマで統一された娯楽施設は、奈良ドリームランド、博物館明治村に次ぐ、日本で3番目のテーマパークであり、東京ディズニーランドが開業する8年前という物珍しさ
などによって、映画村事業は目論見以上の大成功を納めました。
開村にあたり、撮影所から映画村に32名が移籍、それ以降も映画村は撮影所スタッフを数多く受け入れるとともに、東映京都美術センターと年間契約を結んでその経営を助け、東映には家賃や配当で還元するなど様々な側面から撮影所と時代劇を支えました。
2.東映太秦映画村「映画文化館」設立
映画村は、開村にあたり、映画文化資産の保存継承を行うため、ポスター、スチル、プレスなどの宣材資料や台本などの制作資料を幅広く収集・整理保管・展示する施設として「映画文化館」を作り、精神的支柱とします。
開業前の少ないスタッフから始まり、映画村成績好調を受け、撮影所から数多くの従業員を受け入れ、文化館に配置、最盛期には20名を超えるスタッフが東映のみならず他社も含めた映画資料の収集・整理保管・展示作業に従事しました。
およそ20年間にわたる活動により、その収蔵品は日本映画ポスター約3万2,000枚、スチル約30万枚以上、プレス等資料約3万3,000点、台本約1万3,000冊、映画関連書籍約7,000冊、キネ旬他映画雑誌約5,000冊、と日本有数の資料数になります。
そして、大映と映画藝術協會の原稿用紙に書かれた黒澤明監督『羅生門』手書き台本など貴重な資料も数多く所有し、一般に公開しました。
京都の映画文化を全国にPRするため、1954年から開催された京都市民映画祭において、1958年、日本映画の発展に寄与した映画人を表彰する「牧野省三賞」が始まります。
第1回受賞者には、御大片岡千恵蔵が選ばれました。
1978年、日本アカデミー賞の設立によって京都市民映画祭が中止されます。
そこで映画村は、1999年に京都映画祭が再開されるまで、この歴史ある賞を20年にわたり引き継ぎ運営しました。
牧野省三賞は現在も京都国際映画祭にて選定され、昨年の第54回牧野省三賞は『百円の恋』『全裸監督』の武正晴監督が受賞しています。
今回も映画村は選考委員をつとめました。
3.東映太秦映画村、時代劇映画復興へ協力
撮影所から映画村に移った人々は「時代劇の復興」「京都から日本映画の灯を消すな」の思いを胸に、慣れない仕事や客商売に取り組みます。
映画村オープン以来、全国からどんどん集まる入村客の対応に目が回る忙しさの毎日を送る中、前途の見通しと資金の余裕も生まれました。
開業2周年記念事業として、長らく製作が途絶えていた本格時代劇映画の復活を目指して、東映と深作欣二監督『柳生一族の陰謀』の共同製作に乗り出します。
12年ぶりに東映復帰を果たした萬屋錦之介主演の時代劇大作は1978年1月に公開され大ヒットしました。
千葉真一とJACアクションに注目が集まり、この作品の宣伝用に村内中央広場に作られた忍者ロボットは今も元気に稼働しています。
映画村はこれ以降も1978年10月公開深作監督『赤穂城断絶』、1979年9月公開中島貞夫監督『真田幸村の謀略』、1980年5月公開山下耕作監督『徳川一族の崩壊』と本格時代劇映画大作に出資参加しました。
4.東映太秦映画村、人気テレビ時代劇シリーズの舞台に
テレビ時代劇では、『銭形平次』『遠山の金さん』『水戸黄門』『江戸を斬る』などの人気作品に加え、1976年10月から日本テレビ(NTV)系にて高橋英樹主演『桃太郎侍』(1976/10/3~1981/09/27)が始まり人気を博します。
また、1978年1月からテレビ朝日(ANB)系にて松平健主演『吉宗評判記 暴れん坊将軍』(1978/01/07~1982/05/01)が始まりました。
新たな時代劇作品は、松平健という新時代劇スターを生み出し、12シリーズ830回(スペシャル3回含む)25年続く大人気シリーズが誕生します。
ちなみに『暴れん坊将軍』はシリーズ終了後2004年、2008年にスペシャル2回・計832回放映されました。
1980年4月からは関西テレビ(KTV)にて製作された千葉真一主演『服部半蔵 影の軍団』(1980/04/01~9/30)が始まります。
この作品も評判を呼び、『影の軍団』はシリーズ化、忍者ブームに貢献しました。
1980年10月からはANB系にて千葉真一主演『柳生あばれ旅』(1980/10/14 ~ 1981/04/07)も始まり、この作品もシリーズ化します。
JACの若手スター真田広之は『影の軍団Ⅱ』(1981/10/06~1982/03/30)『柳生あばれ旅』にレギュラー出演し、人気を集めました。
その後も、数々の人気テレビ時代劇の舞台となった映画村は動員を伸ばし、開業4年目の1978年以降1993年までの16年間にわたり200万人を突破します。
特に真田広之人気が爆発した1982年から83年にかけて260万人を超えました。
5.東映太秦映画村の役割
映画村は、
① メイク、結髪、衣裳、スチールスタッフがお客様相手の本格扮装および写真事業
② 馬屋はオープンセット内でポニーとのふれあい体験
③ 大道具、小道具などの美術スタッフはオープンセットの維持管理
④ 俳優はショーなどイベント出演
⑤ 照明スタッフはイベントの舞台照明や展示照明
⑥ 撮影スタッフはイベント撮影、映像制作
など、撮影所時代劇スタッフを映画村内での仕事に従事させることによって、彼らの生活を支え、時代劇に関する無形技術の継承を支えて行きます。
文化観光都市京都の観光名所となった東映太秦映画村は、映画文化の生きた博物館として、京都の観光と映画文化継承に大きな貢献を果たします。