㊷ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第7節「躍進 東映フライヤーズ日本一!」
今節は、東急から球団経営を受け継いだ東映社長大川博が、オーナーとして力を入れた、東映フライヤーズの躍進について年を追って語りましょう。
1954年
プロ野球パシフィックリーグは、高橋ユニオンズが新規加入し、南海ホークス、毎日オリオンズ、西鉄ライオンズ、阪急ブレーブス、大映スターズ、近鉄パールズ、そして東映フライヤーズの8球団になりました。
この年、東映フライヤーズは、ホームグラウンドを後楽園球場から前年秋に竣工した駒沢野球場に変え、球団経営の改革を進めます。若返りを図るため高校生を数多く獲得、後にミスターフライヤーズと呼ばれた毒島章一外野手が桐生高から入団しました。しかし、結果は7位と前年同様下から2番目でした。
1954~60年ホーム用ユニフォーム
1954~60年ビジター用ユニフォーム
1955年
監督を変えてペナントレースに臨みましたが、結果は前年と同じ下から2番目の7位に終わります。球場改革としては、駒沢野球場にナイター設備を導入しました。
1956年
監督を岩本義行に変え、選抜優勝校の浪商から捕手の山本八郎を獲得し、後に俳優として活躍する八名信夫が明大より加入するなど若手にシフトしたメンバーで臨み、一つ上の6位、下から3番目に上がります。
1957年3月13日発行 東映『社報』第47号より
1957年
石原フライヤーズ球団代表がパリーグの代表者会長に選出され、また、大映スターズと高橋ユニオンズが合併、大映ユニオンズとして再び7球団で争うことになりました。
1957年4月13日発行 東映『社報』第48号より
1957年8月1日発行 東映『社報』第51号より
結局、東映フライヤーズは5位、下から3番目でした。
1958年
大川オーナーがパリーグ総裁に就任、大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併し大毎オリオンズとなり、かねてから大川が唱えていた6球団制が実現します。大映スターズ監督だった松木謙治郎を打撃コーチに招き、外国人選手も新たにハワイから2人加入。奪三振記録を作った土橋正幸、毒島、外国人3人の計5人がオールスターに選出されるなど人気が上昇し、ようやく駒沢野球場が観客で賑わうようになりました。最終結果は5位、下から2番目でしたが。
1959年
駒沢野球場内外野席を大改装し、定員を3万人にまで増大します。浪花商業高校より新加入の張本勲外野手が新人王に輝き、若手選手の活躍で念願のAクラス、3位に浮上しました。
このシーズンから近鉄はバファローに改称します。(3年後には近鉄バファローズに再改称)
1960年
1月ハワイに初の海外遠征、親善試合を行って帰国しました。
1960年2月15日発行 東映社内報『とうえい』第26号より
1960年4月15日発行 東映社内報『とうえい』第28号より
この年は主力選手がケガで戦列を離れたこともあり、5位に転落しました。
後に東映エージエンシ-関西支社長として活躍した久本忠治一塁手が同志社大学より入団します。
1961年
大川は自ら動いて読売巨人軍水原茂監督を招聘、一躍、世間の注目を集めました。
1960年12月発行 東映社内報『とうえい』第36号より
新ユニフォーム ビジター用(左)ホーム用(右)
調子に乗った新生フライヤーズは、終盤まで南海と首位を争い、直接対決で連敗、2位で終わりました。オールスターには、毒島、土橋、張本、久保田治投手、安藤順三捕手、西園寺昭夫三塁手と6名が出場しました。
後に東映ビデオ事業で活躍する萩原千秋外野手が駒大から入団します。
1962年
二年後の東京オリンピックの会場整備のために駒沢野球場を返還することになり、駒沢の暴れん坊と呼ばれた東映フライヤーズの本拠地は神宮球場に移ります。
1962年1月27日発行 東映社内報『とうえい』第48号より
この年、甲子園の優勝ピッチャー、浪商の怪童・尾崎行雄投手や、早大からアンダースローの技巧派・安藤元博投手、鉄壁の二遊間・立教大青野修三二塁手、芝浦工大岩下光一遊撃手も入団、開幕直後から新人たちが大活躍しました。そして、そこから大いに刺激を受けた土橋、張本、毒島など先輩陣の張り切りで勝利を重ねます。
1961年11月30日発行 東映社内報『とうえい』第46号より
絶好調の東映は、7月終了時、2位阪急ブレーブスに15差をつける独走態勢で前半戦を折り返します。その結果、オールスターには魚秀のマーちゃん・土橋正幸投手、切り込み隊長・毒島章一外野手、不動の四番・張本勲外野手、サイドスローのクセ球使い・久保田治投手、野村克也のライバル・安藤順三捕手、走攻守三拍子そろった・吉田勝豊外野手、そして尾崎行雄投手の7選手が選ばれました。
しかし、後半戦に入り、尾崎の快進撃が失速、名匠・鶴岡一人監督率いる南海ホークス、最下位からチームを立て直しての追撃で、あわや東映フライヤーズ首位陥落か?というところまで肉薄してきます。
パシフィックリーグ優勝!
前半戦の貯金で何とか猛追をかわした東映フライヤーズはパシフィックリーグ優勝を遂げ、張本勲がパリーグMVPに、尾崎行雄がパリーグ新人王に輝きました。
そして、いよいよセントラルリーグ優勝の阪神タイガースとの日本一決戦に臨みます。
日本シリーズ
阪神甲子園球場、明治神宮球場、後楽園球場の3球場で行われた日本シリーズ、甲子園での初戦は、東映エース土橋、阪神投げる精密機械・小山正明が先発、吉田勝豊の2ランなどで東映4点リードの3回裏、鉄壁の二遊間、青野と岩下の3つのエラーで土橋が崩れ、5‐5で迎えた延長10回裏、1アウト1塁2塁でバッター牛若丸・吉田義男。リリーフの怪童・尾崎からタイムリーヒットを放ち地元阪神サヨナラ勝利。
続く甲子園での第2戦、東映エース土橋と阪神エース、ザトペック投法・村山実の投げ合いは、阪神4番藤本勝巳の3ランに応えた村山のあわやノーヒットノーランかという好投に暴れん坊・東映打線は2安打零封され、連敗します。
新本拠地・神宮球場に戻って第3戦、両チーム継投による息詰まる投手戦で延長14回まで進み、2-2の引き分けに終わりました。
神宮の第4戦、阪神小山正明投手と東映新人安藤元博投手の投げ合いではじまり、4回裏、岩下のタイムリー、意表を突くダブルスチールと前年シーズン途中に社会人野球から入団したイケメン・種茂雅之捕手の逆転2点タイムリーで小山から3点を奪った東映が日本シリーズ初勝利します。ちなみに、この試合では、前々年の早慶で大観衆を沸かせた、早大出身安藤元博投手と慶大出身安藤統男内野手の両安藤が、同じ神宮球場で再度激突することになり、結果は東映元博が阪神統男を三振に打ち取りました。
学生野球の都合で後楽園球場に場所を移した第5戦は、阪神村山、東映久保田が先発、阪神藤本勝巳が先制2ランを放つとその裏東映吉田勝豊が3ランで応酬、いきなり打撃戦の様相を呈しますがその後投手陣が踏ん張り、後半からリリーフの小山、土橋が好投、4‐4で迎えた延長11回裏、新人岩下光一のサヨナラ2ランで東映が連勝しました。
イーブンで迎えた再び甲子園での第6戦、先発は村山と安藤元。暴れん坊打線が爆発し、2回、4回と種茂のタイムリー二塁打、ダメ押しの張本2ランなどで東映が7‐4で快勝します。
3勝2敗1引き分けとなった東映は甲子園で第7戦に臨みます。先発は久保田と小山、両投手の意地がぶつかる緊迫の投手戦は、9回が終わった段階で0-0と互角の勝負。延長10回、疲れの見える小山から種茂の犠牲フライで東映が1点をもぎ取れば、その裏、この回からリリーフの土橋が阪神の新人5番打者・藤井栄治外野手にタイムリーを打たれ同点に追いつかれるシーソーゲーム。11回はこの回からリリーフに立った阪神エース村山と、東映エース土橋の意地をかけた投げ合いで0点に抑えられ、運命の12回表、水前寺清子のいとこ、西園寺昭夫内野手が力投の村山からホームランを打ち、その裏、阪神打線を土橋がエースの貫禄で三者凡退に抑え、2‐1で勝利しました。
東映フライヤーズ 日本一‼
ここに東映フライヤーズ球団創立9年目にして晴れて念願の日本一に輝きます。シリーズ最優秀選手には、土橋正幸投手と種茂雅之捕手の二人が選ばれました。
1962年10月31日発行 東映社内報『とうえい』第57号
この年、10月12日、東映は、劇場映画に合わせて、ニュース映画『東映優勝 背番号100』(製作:朝日テレビニュース社、配給:東映)を公開します。この作品は水原監督が就任した1961年シーズンから優勝までを撮影したニュースフィルムを再編集した映画でした。
1962年東映『東映優勝 背番号100』