171.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第34節「東映ビデオ事業②ビデオカラオケの展開」
1970年前後、料金を投入し8トラと呼ばれたカセットテープの好きな曲を再生、ボーカルを抜いた伴奏のみの楽曲が流れ、それに合わせて歌詞カードを見ながらマイクで歌うサービス、カラオケが誕生しました。
それまでは、生バンドやピアノなどの楽器演奏に合わせて歌う歌声喫茶などがありましたが、カラオケは新しい娯楽としてサラリーマンの心を捉え、夜の巷で流行します。
8トラ式小型ジュークボックスにマイクが付いたカラオケシステムは、日本全国のバーやスナック、宴会場などに瞬く間に広がり1970年代半ばにはカラオケブームが到来しました。
日本で生まれたカラオケは、ストレスを発散できる娯楽として発展して行きます。
5. 世界初「絵の出るカラオケ」東映ビデオカラオケの始まり
1978年、東映ビデオは沖縄の取引先から「曲の内容に合わせた画面をモニターで流し、歌詞のテロップを入れることが出来ないか?」との要望を受けました。
そこで当時流行っていた「軍国酒場」の利用客をターゲットに、軍歌にあわせ「東映ニュース」が所持していた戦時中の記録映像を使用することで開発がスタートします。
終戦記念日の8月15日、東映ビデオは世界初「絵の出るカラオケ」ビデオとして『思い出の軍歌「陸軍編」「海軍編」』を、それぞれ30分物・1/2インチカセット:15,800円で売り出しました。
曲と歌詞をビデオテープに収めた「絵の出るカラオケ」は観光バス利用者などに好評を得ます。
新ソフトの要望を受けた東映ビデオは、様々なドキュメンタリーフィルムを集め、そこに歌詞を入れた『民謡集』『演歌集』『抒情歌集』などのカラオケビデオソフトを次々とリリース、曲数が増加しました。
続いて東映ビデオは、大きな需要が見込めるバーやスナックなど飲食店に向けて業務用カラオケへの進出を目指します。
東洋レコーディングに依頼し、ロジテックの筐体にソニーの頭出し機能を使って希望する曲を選び頭出しを一発で可能にする東映カラオケビデオ自動選曲システム(SA-1000)を開発。1980年2月、4曲入り業務用ビデオソフト38巻・152曲とセットで販売を開始しました。
マイクとサウンドのミキシングやエコーの調整ができ、画面に背景映像と歌詞が出るこの画期的なカラオケシステムは、1曲100円もしくは200円で利用できるコインカウンターが付いておりお店やカラオケファンに大人気となります。
6. パイオニアと連携、東映「絵の出るカラオケ」ビデオディスク誕生
1980年代、日本のビデオディスク市場は、パイオニアが開発したレーザーディスク方式(LD)と日本ビクターが開発し松下電器産業(現・パナソニック)、東芝、三洋電機、三菱電機、日本楽器製造(現・ヤマハ)、日本電気ホームエレクトロニクス、シャープなどの電機メーカー12社が参加するVHD方式が覇権を争っていました。
1981年10月、パイオニアは家庭用LDプレーヤー「LD-1000」を発売、ビデオディスク市場で先行します。
日本ビクター陣営とパイオニアによるビデオディスク市場における規格競争の中、東映芸能ビデオ副社長の渡辺亮徳(よしのり)は、銀座界隈で知己のあるパイオニア社長松本誠也に東映が開発した「絵の出るカラオケ」の話をしました。
興味を示した松本は、部下の開発部隊を連れて東映「絵の出るカラオケ」システムを視察します。
そこからレーザーディスクによるカラオケハードとソフト共同開発の話が進み、パイオニアが東映カラオケビデオ自動選曲システムを活用したLDプレーヤーを開発し、東映ビデオがLD方式のカラオケビデオディスクを発売する提携を結びました。
1982年5月、東映ビデオは4月にビデオカセットで発売した「生撮りポルノパック」シリーズから4作品をLDビデオディスクに再編集し『白い果実の匂い』『狙われた欲情』のタイトルで販売します。
そして1982年10月、パイオニアはレーザーディスクカラオケシステム「LDーV10」、東映ビデオはLD方式「東映カラオケビデオディスク」を発売開始しました。
パイオニアは、このシステムを東映だけでなく他社にも公開し、JHC(現・BMB)、第一興商、日光堂(現・BMB)といった大手カラオケ業者がLDカラオケディスク製作に参入、業務用カラオケでパイオニアLDカラオケシステムが業界全体に拡大して行きます。
日本のカラオケは、この「レーザーカラオケシステム」と「絵の出るカラオケ」ビデオディスクの登場で、日本を代表する娯楽として定着しました。
パイオニアと連携を深めた東映ビデオは、1983年10月から毎月話題の音楽や劇映画作品をレーザーディスク方式でも発売するようになります。
一方、日本ビクターのVHD方式は、開発が遅れ1983年4月にようやく市販化されました。
東映ビデオも始めはVHD方式のカラオケビデオを製作販売する予定でしたが、開発の遅れによりLD方式カラオケビデオの販売を先行、VHDカラオケビデオの販売開始は1年後の1983年11月にずれ込みます。
先行したLD人気の高まりを受けLD陣営には、ソニー、日立製作所、日本コロムビア、ティアック、日本マランツなどが次々と参入しました。
パイオニアから技術供与を受けたメーカーたちは、それぞれLDプレーヤー開発を行い量産化を進め、LDプレーヤーの一般販売価格が低下します。
また、CD/LDコンパチブルプレーヤーが複数社から販売されたこともありLD方式プレーヤーが一気に普及拡大しました。
VHD再生機の発売遅れとLD方式の人気もあり、1985年以降、VHD陣営の東芝、三洋電機、三菱電機、日本楽器製造、日本電気ホームエレクトロニクスなどもLDプレーヤーの製造販売に乗り出すこととなり、ビデオディスク市場の過半数のシェアをLD方式が獲得します。
1984年、パイオニアはLDオートチェンジャー式カラオケシステム「LC-V12」を発売しました。
LD60枚を収納し多くの曲の中から自動で曲出しができる便利なシステムは、LDカラオケの拡大に貢献します。
LDの普及が進む1985年5月、東映ビデオは、LDカラオケビデオ「レーザーメイト」シリーズを発売、着実に売り上げを拡大しました。
翌1986年には、パイオニア松本社長より東映に「映像カラオケ文化の担い手として他の追随を許さない地位を確立する上で多大な貢献をした」として感謝状が贈られます。
カラオケディスクが成熟期に入った1988年6月には東映ビデオは新規商品として家庭用に廉価版の「レーザーメイト・アルファ」シリーズを発売しました。
続けて1988年11月には高画質・高音質で音声多重の一般用ホームカラオケ「音多MAN」の発売を開始します。
「音多MAN」は1991年10月までに250タイトル(1000曲)をリリースし、売上枚数は100万枚を超えるヒットシリーズとなりました。
7. 東映カラオケクィーン
1987年4月、東映ビデオカラオケのキャンペーンガールを選ぶ「東映カラオケビデオクィーンコンテスト」の最終選考会が東京六本木プリンスホテルで開催されます。
この第1回コンテストには総勢2563人の応募があり、翌年クラリオンガールに選ばれた蓮舫さんも参加していました。
1989年4月に開催された第3回選考会では山下直美さんと蒲池幸子さんの二人が選出されます。
1991年までカラオケクィーンとして活動された蒲池さんは、この年にZARDの坂井 泉水(さかい いずみ)として歌手デビューしその後大活躍しました。
1991年4月の第5回選考会では、兼吉敦子さんと鈴木亜美さんが選出されます。
後に大活躍するスターを生み出した東映カラオケクィーン選考会は、1993年4月に開催された第7回をもって終了します。
8. カラオケボックスの登場
1970年代にバーやスナックなど盛り場での顧客サービスから始まったカラオケは、1978年に東映ビデオが発売開始した「絵の出るカラオケ」、1982年にパイオニアが始めたLDディスクカラオケシステム、1984年のLDオートチェンジャーによるリモコン選曲の出現、などの進化によって若者、ファミリー、シニアなどお酒と関係ない層にまでファンが広がりました。
1980年代半ば、船舶用コンテナを利用して始まったLDオートチェンジャー設置のカラオケボックスは、若者を始めとする一般的カラオケファンの人気を集め、瞬く間に全国に拡大します。
1988年には、カラオケ大手の第一興商、タイカンがカラオケボックスのFC事業を開始するなどカラオケボックスブームが本格化しました。
東映グループでも東映ビデオ特機販売などがカラオケボックス事業に進出します。
9. LDから通信カラオケへ
1991年から始まったバブルの崩壊は、夜の市場を直撃し飲食店の倒産が相次ぎカラオケビジネスに陰りが見え始めました。
1992年にはブラザー工業が業務用通信カラオケ「JOYSOUND」の開発会社エクシングを設立、カラオケ業界に参入、ここから通信カラオケが始まります。
この年、ゲームメーカーのタイトーや日本映像情報システム(現・ユーハート)も通信カラオケに乗り出しました。
1994年3月、東映ビデオは、CDの大きさなのにLD並みの高画質、システム全体もコンパクトでカラオケボックスに最適な新製品「αビジョン東映マルチカラオケディスク」を発売します。
しかし、この年第一興商は通信カラオケ「DAM」、タイカンとセガは資本提携しクラリオンと組んで通信カラオケ「プロローグ21」を立ち上げ、本格的な通信カラオケ時代に突入しました。
東映ビデオが通信カラオケに参入するにはこれまでのアナログソフトをすべてデジタル化する必要があり、そのために莫大なコストがかかるため、東映取締役で東映ビデオ専務取締役の小黒俊雄は、パイオニア、JHC,、日光堂との提携を進めます。
1995年2月、4社が共同出資し通信カラオケ運営会社「ビーマックス・ネットワーク(株)」を設立。3月から通信カラオケ「BeMAX'S(ビーマックス)」の配信をスタートしました。
1998年には世界初となる3Dポリゴンキャラクターによる振り付け映像機能「フリカラ」を搭載した「Super BeMAX’S」をパイオニアと共同開発、販売します。
10. カラオケ事業からの撤退
通信カラオケへの参入が遅れ、また、飽和状態にあったカラオケ業界での価格競争にメリットを見出せなくなった東映と東映ビデオは、2004年5月、㈱ユーズ・ビーエムビーエンタテイメントにカラオケ事業を譲渡しました。
「絵の出るカラオケ」を開発した東映ビデオは、現在まで続くカラオケ業界のパイオニアです。