⑮ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第1節「創立五周年・年間映画配収首位に躍進!」
莫大な負債を抱えて立ち上がった東映は、大川博の下、全社一丸となって奮闘努力した結果、徐々に経営が回復し、年間の映画配収において、自主配給を始めた1952年は大手5社の最下位でしたが、1953年度には東宝、新東宝を抜いて松竹、大映に次ぐ第3位に躍進します。
1954年正月から始めた2本立配給は、子供層をターゲットにした連続冒険活劇中編・東映娯楽版が人気を集め、そこから中村錦之助、東千代之介など若手スターが台頭、大成功を収め、この年の年間成績は前年同様の第3位でしたが第2位の大映に近づきました。
娯楽版の人気は衰えることなくますます拡大し、1955年正月から始まる『紅孔雀』5部作は東映の記録に残る好成績を獲得し、東映の年間配収は、その年から製作配給を始めた日活を含めた大手6社の中で、大映を抜いて首位松竹に僅差の第2位に躍り出ます。
東映創立5周年を迎えた1956年、正月から新東宝を除く5社が2本立製作配給に乗り出し、日活が参入してきたこともあって、専門劇場獲得に向けての各社間の競争が激しくなりました。
それに対し東映は従来の娯楽版三部作を二部作にして一作品の長尺化を図ったり、少し長くした独立作品を作るなどの工夫で対抗します。さらに5周年記念作品として両御大が主演する東映オールスター映画、松田定次監督『赤穂浪士』を投入し、これまで社内で最高の収入を上げた『ひめゆりの塔』を大きく上回る成績を叩き出し、1月の興行成績6社中トップと上々のスタートを切ることができました。
その年5月17日、波に乗る東映は多くのお客様を迎えて創立5周年記念祝賀会を開催します。
そして、この年ついに年間興行成績第1位を獲得するに至りました。
債務返済と映画事業の安定化をめざし、製作陣に対して超緊縮予算主義を徹底してきた大川博は、一方で、少し経営が安定してきた1954年あたりから明日を見据えて徐々に拡大施策に舵を切ります。
1956年、日本映画界でトップに立ち、経営も安定してきた東映を率いる大川は、ここから次のステージに向かって一気に積極的投資に乗り出しました。
二本立映画に積極的に取り組み、日本一の製作本数を誇る東映は、より制作の効率を上げるために、1955年3月、大映から念願の京都撮影所の土地約1万㎡および建物を購入できました。以前から購入してきた周辺の土地と合わせてその広さはその時点でおよそ3万5千㎡まで達し、大川はそこに次々と最新の施設を作っていきます。
京都撮影所NO.5ステージ竣工記念 大川博手形
その後も隣接地を購入し、東は城北街道にまで至り、1960年にはステージの数も19まで増え、現在映画村の場所に巨大なオープンセットを建設、1956年に作った東映城もそこに移築し、日本有数の大きさと施設を誇る撮影所に成長します。
ここから、京都撮影所・東京撮影所が急拡大していく様子を写真で紹介してまいります。
東映京都撮影所・施設拡大の歴史
1951年東映発足当時の京都撮影所 奥にオープンセット
1953年頃 左・第1ステージ 右・第2ステージ 左奥・第4ステージ
1954年6月新第5・第6ステージ竣工・京都撮影所案内図
1954年パンフレット
1955年3月第7・第8ステージ竣工、7月事務所(正門横)竣工
1956年春頃
1956年9月東映城完成・10月第11ステージ竣工
1956年馬場創設
1958年1月俳優会館竣工
1958年独身寮竣工・奥3階建男子寮・その手前女子寮
1958年俯瞰写真
1958年頃正面受付前
1958年社内報「とうえい」2月号掲載記事より
1960年8月頃 上に馬場・その下東映寮・右下端に新東映城
1960年10月第19ステージ(一番奥右側)竣工 東映十年史より
この年までに京都撮影所は、19のステージに、大型録音スタジオの技術会館、1階が大食堂の厚生会館、事務棟に三階に大試写室を持つ建物を増設し、近代的設備を誇る撮影所に生まれ変わりました。
また、一方の東京撮影所も京都と同じように1954年7月に第5ステージが竣工、東映が映画業界首位に立った1956年から怒涛の開発が始まります。
東映東京撮影所・施設拡大の歴史
1951年東映発足時の東京撮影所
1954年7月第5ステージ(1958年第8ステージに名称変更)竣工
1956年5月第6ステージ(1959年・第9ステージ)竣工
1957年1月東映動画スタジオ完成
1958年3月俳優会館・11月第5ステージ・12月テレビ第1・第2ステージ竣工
1959年5月張物作業場・6月第7・12月第10・第11・第12ステージ竣工
1960年テレビ時代劇用オープンセット建設
1960年7月第13・14ステージ・12月技術会館竣工 東映十年史より
日本も高度経済成長期を迎え、1960年頃には東京撮影所の周りに徐々に住宅が建ち始めています。
この5年間で東映は大躍進を遂げ、創立当時京都撮影所は4,928坪、ステージ数4、東京撮影所は8,641坪、ステージ数4、それが、1961年の段階では京都が2万8,565坪、ステージ数19、東京が2万4,573坪、ステージ数16、と京都・東京の両撮影所はほぼ現在の広さまで、大きく拡張されました。
この間、大川博は絶好調の映画をバックに、次々と新規事業に取り組むことで東映を映画会社から映像会社へと導き、今日に至るまでの成長を可能にした経営基盤を作っていきます。
第3章では、70周年を迎えた東映を支える事業の起点、大川博が100年後を見据えて始めた数々のチャレンジについて述べてまいります。