61. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第7節「東映社会派映画の名匠 関川秀雄と家城巳代治」
右も左もない大日本映画党を目指した東映は、娯楽作品ばかりでなく、東京撮影所で社会派の名作も手がけました。
その代表的監督が関川秀雄と家城巳代治(いえきみよじ)です。今節はこの二人の名匠を紹介いたします。
関川秀雄 東映教育映画の基礎を作った名匠
1908年、新潟に生まれた関川秀雄は、ストライキ事件を起こし旧制高校を中退。1936年28歳の時、上京してPCL映画製作所の助監督になります。島津保次郎、木村荘十二、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、山本薩夫などに師事し、助監督同期には黒澤明がいました。
1937年、PCLが合併して誕生した東宝映画に移り、1944年記録映画『大いなる翼・三菱重工業篇』で監督デビューします。
戦後、東宝で山本嘉次郎、黒澤明と1946年5月公開薄田研二主演『明日を創る人々』、翌年にも、今井正、楠田清と4月公開河野糸子主演『地下街二十四時間』を共同監督しました。
1948年2月公開山村聰主演『第二の人生』を単独で監督すると、東宝ストライキに参加、翌年東宝教育映画で『名探偵ヒロシ君』を撮った後、東宝を離れ、フリーとなります。
理研映画で記録映画を撮った後、1950年、東横映画に参加、2月公開市川右太衛門主演『戦慄』を監督しました。
その年、岡田茂が進めた6月公開伊豆肇主演『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』を監督、大ヒットします。
その後、東京の大泉映画で第一協団と共同製作9月公開山村聰主演『戦火を越えて』、続いて山村主演新映画社製作10月公開『軍艦すでに煙なし』を監督しました。
1951年4月、太泉映画は合併し東映となり、関川はそのまま東映東京撮影所で8月公開岡田英次主演『わが一高時代の犯罪』、11月公開新人の萩原満主演『真説石川五右衛門』、1952年5月公開岡田英次主演『終戦秘話 黎明八月十五日』 を監督します。
これらの作品は、『きけ、わだつみの声』の大ヒットに比べ、興行的に苦戦しました。
1952年、東映を離れ、内外映画社にて記録映画『鉄路に生きる』、1953年には、4月公開蟻プロ・北星製作夏川静江主演『混血児』、10月公開日教組プロ製作岡田英次主演『ひろしま』など社会派の良心作を監督します。
『鉄路に生きる』は、ヴェネツィア国際映画祭教育科学部門で高い評価を獲得、『ひろしま』は1955年第5回ベルリン国際映画祭長編劇映画賞を受賞しました。
1954年には新藤兼人らが設立した近代映画協会にて4月公開望月優子主演『狂宴』を監督します。
1955年、東映に戻り6月に誕生した教育映画部製作で監督した、7月公開内藤武敏主演『トランペット少年』は、第9回英国エディンバラ映画祭にて短編映画部門最優秀映画賞を受賞しました。
1956年2月には教育映画部にて監督した『野口英世の少年時代』が公開され、その年の文部大臣賞を受賞します。
関川は教育映画や社会派映画ばかりでなく、12月公開南原伸二主演『警視庁物語 追跡七十三時間』、1957年2月公開『警視庁物語 白昼魔』など娯楽映画も監督しました。記録映画で磨いた手法を活かしたドキュメンタリータッチの作品は好評を博します。
また、教育映画で培った子供向けのノウハウを生かし、1957年5月公開娯楽版岡田英次主演『少年探偵団 かぶと虫の妖奇』、『少年探偵団 鉄塔の怪人』を監督しました。
その年、砂川の立川基地拡張反対闘争を描いた9月公開の社会派映画山村総主演『爆音と大地』はキネマ旬報第8位に選ばれ、翌1958年1月公開波島進主演のGメン映画『乱撃の七番街』、6月公開久我美子主演の社会派映画『季節風の彼方に』と、東撮で娯楽映画、社会派映画を次々と監督して行きます。
その後も、高倉健主演1959年2月公開『獣の通る道』や9月公開『静かなる凶弾』、1963年3月公開『東京アンタッチャブル 脱走』、11月公開『鬼検事』など数多くの娯楽映画を監督しました。
また、その間、三國連太郎主演1960年3月公開『大いなる旅路』、11月公開『大いなる驀進』、丘さとみ主演1962年5月公開『あの空の果てに星はまたゝく』などの高い評価の社会派映画も監督します。
そして、1965年1月に公開された梅宮辰夫、緑魔子主演『ひも』を監督。この作品は好色不良路線を目指す岡田茂の肝いりで、梅宮主演反社会的映画夜の青春シリーズとなり、関川は8月公開第3作『ダニ』、第4作10月公開『かも』と監督しました。
関川は、1966年9月公開芦田伸介主演『一万三千人の容疑者』を監督した後、東映映画を離れました。
1967年には東映テレビ・プロで、4月からNETテレビ系で放映の佐藤慶主演『白い巨塔』シリーズ、また、同じ時期に同系列で始まった『あゝ同期の桜』シリーズなどを演出します。
1968年には独立プロや松竹で映画を監督し、1969年日本技術映画が製作、東映で配給した霞が関ビル建設完成までのドラマを描く池部良主演『超高層のあけぼの』を監督した後、映画界を離れました。
家城巳代治
1940年、東京帝国大学文学部美学科を卒業した家城巳代治は、五所平之助の紹介で松竹大船撮影所助監督部に入り、渋谷実と五所に師事します。
1944年に監督に昇進し、撮影直前に召集された渋谷の代打として、8月公開小沢栄太郎主演『激流』で監督デビューしました。
戦後のスタートも松竹大船で、1947年10月公開山内明主演『若き日の血は燃えて』から始まります。
そして、1949年10月公開美空ひばり主演『悲しき口笛』を監督。この作品は、美空ひばりの歌う主題歌ともども大ヒットし、一躍ひばりをスターダムにのし上げました。
続いて1950年11月公開高橋貞二主演『花のおもかげ』を監督した後、1951年、松竹を退社します。
家城は、1953年4月に東宝争議の指導者伊藤武郎が設立した独立プロ新世紀映画に入り、重宗プロとの共同製作作品6月公開鶴田浩二主演『雲流る果てに』、翌1954年6月公開の新世紀製作香川京子主演『ともしび』を監督しました。
続いては、伊藤が1954年に設立した中央映画の調布撮影所にて1955年4月公開野添ひとみ主演『姉妹』を監督。
次は、岸恵子、久我美子、有馬稲子の三人が設立した文芸プロダクションにんじんくらぶがシネマ・プロデウス・サークルと共同製作した第1回作、12月に公開された有馬稲子主演『胸より胸に』も監督します。
そして、破綻した北星映画が再編し伊藤が代表に就任した独立映画で、1956年10月公開中原ひとみ主演『こぶしの花咲くころ』、1957年6月公開三國連太郎主演『異母兄弟』など伊藤関連のプロダクションにて監督を行いました。軍国主義批判をリアリズムで描いた社会派作品『異母兄弟』は、チェコのカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭グランプリを獲得し、キネ旬でも第9位と高い評価を得ます。
1958年、家城は東映東京撮影所にて、10月公開江原真二郎主演青春映画『裸の太陽』を監督しました。
この東映初作品は第9回ベルリン国際映画祭にて青少年向け映画賞を受賞。キネ旬でも第5位に選出され、東映の社会的評価の獲得に貢献しました。
1959年には6月公開丘さとみ主演の明るい青春映画『素晴らしき娘たち』、1960年4月公開江原真二郎主演の社会派青春映画『秘密』、9月公開南廣主演社会派青春映画『弾丸大将』、1961年10月公開江原真二郎主演主演の冤罪を扱う社会派青春映画『街』、などを東撮で監督しました。
家城は、1961年12月フジテレビ系列で放送の『雲ながるる果てに』からテレビ各局のドラマの演出も始めます。
1962年には、4月公開中村賀津雄主演の社会派青春映画『若者たちの夜と昼 』を監督。
1964年6月公開淡島千景主演文芸映画『路傍の石』、1965年年6月公開佐久間良子主演社会派映画『逃亡』と東撮で監督した後、映画からテレビドラマに活動を移しました。
東映テレビ・プロでNET系放映『鉄道公安36号』を3話ほど監督し、家城は東映を離れました。
その後はTBS系で放映の『泣いてたまるか』などテレビドラマの演出を手掛け、その間の1969年には独立プロ新星映画で5月公開山本亘主演『ひとりっ子』を監督します。
1974年、5年ぶりに劇場映画を撮るために家城プロダクションを設立し、11月公開佐藤佑介主演青春映画『恋は緑の風の中』を監督、この作品が遺作となりました。
娯楽映画を監督しながらも教育映画や社会派映画に取り組んだ関川秀雄。運命に翻弄されながら懸命に生きる若者の様々な青春を追い続けた家城巳代治。
教育に力を注いだ大川博の下、二人の監督は東映の良心とも言える作品を残しました。