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⑥ 第1章 「風雲!東映誕生」
第3節「電鉄と映画撮影所 小林一三と五島慶太 後編」
戦時中、東急電鉄を中心に現在の京急、京王、小田急までも吸収した「大東急」を作り上げた男「五島慶太」。この事業家なくして東映は誕生しませんでした。
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『青天を衝け』渋沢栄一が描いた構想を実施するべく作られた「田園都市株式会社」は都心部から離れた土地に人々を呼ぶために鉄道の敷設が必要でした。1921年、渋沢は第一生命社長矢野恒太に依頼しますが、電鉄事業は未経験のため、矢野は関西で実績を上げている小林一三に相談します。
小林は実行力のある人物をスカウトするために鉄道省に尋ねたところ元鉄道省課長で東京横浜を結ぶ路線布設をめざす「武蔵電気鉄道株式会社(武蔵電鉄)」常務五島慶太を薦められました。
小林は五島に会い、武蔵電鉄の前に、田園都市株式会社が進める目黒と蒲田を結ぶ「荏原電気鉄道株式会社(荏原電鉄)」を成功させ、開発で生み出される金で武蔵電鉄事業を進めることを提案、五島はそれを受け入れ田園都市開発と荏原電鉄の専務に就任し、二人の関係が始まると五島は小林の薫陶を受け事業を拡大、大東急への道を邁進していきます。
荏原電鉄を吸収した田園都市株式会社の鉄道部門が1922年に独立し、五島専務で「目黒蒲田電鉄株式会社(目蒲電鉄)」が創立、1924年には目蒲電鉄が武蔵電鉄を傘下にし、武蔵電鉄は矢野社長五島専務の「東京横浜電気鉄道株式会社(東横電鉄)」になりました。
1928年、東横電鉄を傘下に置いた目蒲電鉄は田園都市株式会社本体(現・東急不動産)を合併し、五島が目蒲電鉄社長に就任、1933年に「池上電気鉄道株式会社」を傘下にして、1936年に目蒲電鉄子会社東横電鉄の傘下に「玉川電気鉄道株式会社」を加え、1939年、目蒲電鉄は子会社東横電鉄を合併、新たに「東京横浜電鉄株式会社(東横電鉄)」と社名を変更、そして1942年「京浜電気鉄道株式会社(京急)」「小田急電鉄株式会社(小田急)」を合併し、社名を「東京急行電鉄株式会社(東急電鉄)」とし、1944年、ここに「京王電気軌道株式会社(京王)」を合わせて「大東急」が完成します。
そして1936年、五島は渋谷進出を目指した白木屋百貨店の出店予定地を購入して「東横映画劇場」を建設、五島は映画界参入の第一歩を踏み出しますが、しかし、この劇場は小林との話し合いで東宝直営映画館(現TOHOシネマズ渋谷)として開場することになりました。
1937年、小林一三は映画製作配給会社東宝映画を立ち上げ、翌1938年に五島慶太も先輩小林の後を追ってまずは映画劇場経営に取り組み、東横電鉄の子会社として東映の前身の一つとなる「東横映画株式会社」を創設、自ら社長に就任するのです。
戦後1946年、戦災等でなくなった劇場を再建し、映画事業に本格的に乗り出した五島は、東急の腹心黒川渉三を東横映画の社長に据え、小林・東宝に続けと、映画製作参入を目指して定款に映画製作・配給を加え、沿線の二子玉川園などを候補に撮影所を検討する中で、1947年、黒川は大映永田雅一と話し合って休眠状態にある大映京都第二撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を使用、配給も大映に任せることで『こころ月の如く』から東横映画は映画製作事業をスタートします。
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一方、東映の京都撮影所と並ぶ、もう一つの製作部門の柱、東京大泉撮影所の歴史は、1934年、松竹子会社新興キネマ株式会社が東京大泉に武蔵野電車株式会社(現西武)の支援で撮影所を開き、翌年、京都から新興キネマ現代劇部が移転して撮影を始めたことから始まります。
戦時統合で新興キネマは大日本映画製作株式会社(大映)に統合され、大映東京第一撮影所となりますが、戦争激化により軍需工場に売られ、終戦と同時に閉鎖されました。
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その閉鎖された撮影所を戦後、復活させたのは吉本株式会社でした。
戦前から吉本興業は東宝と提携し、松竹・新興キネマ陣営と演芸の世界で対抗、所属芸人の映画出演、映画製作を通じ映画界とも密接な関係を持っていました。
1946年、吉本興業・吉本せいと林正之助の弟林弘高は東京吉本を吉本せいと林正之助の大阪吉本から分離独立させ吉本株式会社を設立、東京や横浜で劇場や映画館を展開します。
1947年10月、東宝、日活、東横映画、東急、そして吉本株式会社が発起人となり、「株式会社太泉スタジオ」を設立、レンタルスタジオとして撮影所を再開しました。
その第1作は1948年2月、東宝・吉本共同製作エンタツ・アチャコ主演『タヌキ紳士登場』、4月、増資し定款の目的に「映画の製作配給」を加え、太泉スタジオ第1作としてマキノ正博・小崎政房共同監督、轟夕起子主演『肉体の門』を吉本と共同製作、東宝の配給で公開しました。戦後の大泉撮影所製作の始まりは吉本でした。
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東横映画は『三本指の男』『にっぽんGメン』などヒット作が出ても大映からの配分が少なく、赤字で借金がどんどん膨らみました。
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前列左から片岡千恵蔵・池永浩久・折原啓子:後列鈴木伝明・マキノ光雄・杉狂児・伊沢一郎
収支を改善するためにマキノ満男がいた松竹との提携を模索することで、大映をけん制しつつ、大映配給から自社配給に切り替えるべく、太泉スタジオ、東急とともに、1949年10月、東京映画配給株式会社を立ち上げ、第1回作品映画製作松田定次監督片岡千恵蔵主演『獄門島』次に太泉映画自主製作初作品の今井正監督水戸光子主演『女の顔』を配給、そしてこの時、東映の△マークは始まります。
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![20210526_菫演・〔豫定〕販東妻三郎、月形龍之助](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/59175947/picture_pc_dcd49588f62b487b9e5ac388633b290e.jpg?width=1200)
![20210526_菫演・〔豫定〕販東妻三郎、月形龍之助_001](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/59176145/picture_pc_827dcfb9d827edec76ebd800eee87385.jpg?width=1200)
しかし、1949年12月には、五島慶太、根岸寛一、大谷博などが公職追放で東映配の役員を辞任、東横、太泉、そして東映配、三社とも経営は改善せず、赤字は一層拡大、1950年5月、太泉スタジオは「太泉映画株式会社」と商号を替え映画製作を中止、レンタルスタジオ業に専念することになりました。
そして1950年、東京映画配給は、1946年以来の大争議で新東宝が独立し、一時映画製作を中断していた小林・東宝と合併も視野に入れた提携を話し合い、年末に提携が成立、翌年1月から提携配給を実施することになります。
それと並行して、五島は債務が大きく増加した、東横、太泉、東映配の三社の管理部門を一元化して徹底した合理化を計る三社合併案に乗り出すことを決意、そして、懐刀、東急電鉄専務で財務のプロ、元鉄道省大川博に三社の経営の立て直しを依頼、1951年2月に大川は東京映画配給社長に就任、4月1日、三社を合併し、大川博社長東映株式会社が誕生します。
東宝との配給提携は、いざ公開すると、都会調の東宝カラーと地方重視の東映カラーの違いから東宝興行サイドから不満が噴出、完全に東宝傘下に入るか、東宝との提携を中止するか、の選択を迫られた東映社長大川博は、1951年8月に時代劇の自粛制限が撤廃されたこともあり、東宝と手を切って独力で自主配給することを決意、1952年正月から独自配給に踏み切ります。
莫大な負債を持つ東映誕生にあたり、五島慶太は東急電鉄を挙げて資金協力するだけでなく、個人資産を抵当に銀行から多額の融資を引き出し、東映の成功に事業家人生を賭け、見事花開くのです。
東宝は小林一三の思いで、東映は五島慶太の思いで誕生した会社でした。
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次週は一呼吸おいて、昭和33年から始まった東映社内報より「東映の支柱」コーナー、当時の東映を支える仕事場紹介を掲載します。