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㊲ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第6節「大日本映画党 演劇俳優陣 新派編」

 時代劇が解禁され、映画製作本数が拡大していく中で、マキノ満男の提唱した大日本映画党、右翼も左翼も関係なく人を求めた東映には様々な俳優が参加してきます。中でも、俳優として数多くの経験を積んできた演劇人たちは、新たな活躍の場、東映で重要な役割を担いました。

 この節では日本の演劇界を支えた、新派新劇の成り立ちと東映映画全盛期を支えた演劇人たちを紹介いたします。

新派のはじまり

 1888年、自由民権運動を推進するため、江戸時代から続く歌舞伎に刺激を受けた角藤定憲(すどう さだのり)は、中江兆民の支援によって、大阪新町座で「大日本壮士改良演劇会」を始め、この新たな演劇は壮士芝居とよばれました。

 これが新派と呼ばれる新たな演劇の始まりと言われ、ここから、壮士芝居の劇団が各地に誕生していきます。

川上音二郎と貞奴

 1890年、横浜で書生ニワカ芝居を立ち上げた川上音二郎は、翌年2月、大阪日の出座6月、東京浅草中村座で公演、幕間で演じる歌舞伎を罵倒した「オッペケペ節」が評判を呼び大成功しました。

 伊藤博文が贔屓の葭町芸者奴(本名 貞)と付き合った川上は、伊藤たちの勧めもあり渡仏、帰国後その成果を活かした公演も成功を納め、1894年芸者を廃業した結婚します。

 1895年、人気の川上一座は歌舞伎座の舞台に立ち、翌年川上座新設しました。しかし、高利貸による負債がかさみ、出馬した二度の選挙に失敗、火災による川上座の消失と不運も重なり、1899年4月、夫婦は逃げるように一座を組んで渡米します。

 アメリカで貞はマダム貞奴として演劇公演の主役を務め、苦労の末に、アメリカで大成功を納めました。ニューヨークで評判を高めた後、ヨーロッパに向かい、イギリスでも大喝采を浴びた川上夫妻はバッキンガム宮殿にも招かれます。

 その後、パリに向かった一行は、1900年、ヨーロッパにジャポニズムを巻き起こしたパリ万博の間、123日にわたり会場内のフラー劇場で、歌舞伎をアレンジした『袈裟』、『道成寺』、そして『武士と芸者』を公演、音二郎の「切腹(ハラキリ)」と貞奴の美しい舞台姿が一大センセーショナルを呼びました。貞奴が着用した着物風衣裳は「ヤッコ・ドレス」として社交界で流行し、エリーゼ宮で開催された大統領主催の園遊会にも招かれるなど、貞奴はパリの社交界のトップ・レディに押し上げられ、夫妻は園遊会で叙勲を受けます。公演に6度も通ったアンドレ・ジイドは友人に激賞の手紙を送り、パブロ・ピカソはその姿を作品として描いたほどでした。

 しかし、一時帰国した際の帰朝公演は興行的には大成功しますが、評論家や劇通から散々の不評と叱責を受け、「日本の恥さらし」とまで酷評されました。再度、渡欧した一行はロンドン、パリ、ベルリン、ウィーン、プラハ、グラーツ、ザグレブ、ブダペストなどを回り、ヨーロッパ中に貞奴の名を轟かせ、1年4か月にわたる巡業旅を終えて帰国しました。

 1903年の帰朝公演は、歌舞伎からの決別、歌舞音曲に頼らない、セリフと演技による「正劇」をめざして明治座で『オセロ』を演じ、第二回公演では『ベニスの商人』と新作『江戸城明渡』を公演します。後者は歌舞伎界から嘲笑を受けます。この頃から、川上劇旧派・歌舞伎に対抗し新派と呼ばれ、ジャーナリズムが新旧対立を謳うことによって話題を呼び、大成功を納めました。

 1907年、川上夫妻は再度渡仏し、国立劇場を始めとする様々な劇場と俳優学校を視察、その成果を持って、翌1908年、大阪北浜に洋風の劇場、帝国座を建設にとりかかり1910年完成しました。また、貞奴女優の育成を目指し、1911年開業予定の東京帝国劇場から資金援助受けて、1908年東京芝桜田本郷町の理髪店の二階に帝国女優養成所創設、この学校は翌1909年帝国劇場に運営を引き継いで帝国劇場付属技芸学校と改称され、ここから多くの女優が誕生しました。

 1911年、新派を大きく育てた川上音二郎が逝去、貞奴は一座を率いて追善興行を行い、1918年に引退しました。

伊井蓉峰

 1891年、川上音二郎が立ち上げた書生演劇一座の俳優募集に応募した伊井蓉峰(いい ようほう)は、すぐに一座を出て、政治色のない新しい演劇を目指し、浅草吾妻座を拠点に、男女合同改良演劇済美館を立ち上げましたが、一座経営に失敗し、やがて解散します。

 新しい演劇を目指す伊井は、その後も一座を率いて苦労を重ねながら徐々に評価を高めて行き、1898年3月、市村座で尾崎紅葉の『金色夜叉』を初演、大人気を博し、9月、ついに東京歌舞伎座の大舞台を務め、川上一座を凌ぐ人気を得ました。

 1902年から、東京日本橋中洲の真砂座に本拠を置き、河合武雄を女房役に、近松門左衛門を浄瑠璃を使わない新演劇として復活させ、演劇史上に残る作品と絶賛されました。

 1909年、東京座での新派大合同劇では座長に推された伊井は、1912年二世市川左團次から明治座を譲り受け、座主として押しも押されぬ新派の第一人者となります。

 1915年には、河合武雄、翌年、喜多村緑郎と名女形が入り、新派三頭目が集まった明治座を本拠として、新派隆盛を迎えました。1931年には、人気スター花柳章太郎が参加した『花柳巷談・二筋道』が空前の大ヒット。翌年、伊井が病に倒れ逝去するまで次々と続編が上演されました。

 1928年、伊井は、牧野省三が命運をかけたマキノプロダクションのオールスター映画『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に大石内蔵助役主演、映画界にも爪痕を残します。

1928忠魂義烈 実録忠臣蔵牧野省三・大石内蔵助役

1928年マキノプロ『忠魂義烈 実録忠臣蔵』牧野省三監督・大石内蔵助役

喜多村緑郎

 1892年、素人芝居に出演していた喜多村六郎は、東京遊楽館での青柳捨三郎一座にて伊井蓉峰の妹役として初舞台を踏み、伊井に誘われ、青柳一座の北海道巡業に参加、新派俳優になることを決め、喜多村緑郎と名乗り一座に入りました。

 1896年高田実らと大阪角座を拠点に成美団を結成、写実的演劇に取り組み、女形として『滝の白糸』や『不如帰』などを演じて好評を博し、関西新派演劇の基礎を作ります。

 1906年本郷座高田実一座に招かれ、10年ぶりに東京に戻った喜多村は、1908年には伊井蓉峰新富座にて泉鏡花原作『婦系図』を初演、その後も鏡花作品『白鷺』(1910年)や『日本橋』(1915年)を初演、それらの作品は新派の定番となりました。

 喜多村緑郎は、新派女形として名声を確立するとともに、花柳章太郎など後進を育て、新派演技を確立しました。

井上正夫

 1896年、道頓堀角座で高田実成美団の舞台を見た小坂勇一は俳優を志し、翌年、新演劇敷島義団に飛び込みました。新演劇の劇団を転々とする中で実績を積み、1904年、東京真砂座伊井蓉峰一座に入ると間もなく、幹部待遇に出世、人気俳優になります。1907年に伊井と共に新富座に移り、井上正夫と改名、翌年、一身上の都合で退団しました。

 1910年、新派のマンネリ化を打破する新しい演劇を目指した井上は、有楽座新時代劇協会を結成しますが、翌年解散、伊井一座に戻ります。

 1915年、活動写真に興味を持っていた井上は新派を離れ、天然色活動写真天活)と契約して、連鎖劇に取り組み、山本有三原作『塔上の秘密』を初監督・初主演、それから吉野二郎監督『不如帰』などに出演し、評判を呼びました。そして、1916年、天活の小林喜三郎が立ち上げた小林商会に協力し、『生かさぬ仲』『大尉の娘』『毒草』を監督、主演します。その際、井上は自宅に活動写真研究所を創設し映画人と交流を深めました。

 1917年、小林商会が倒産すると再び新派に戻り、1919年新派第二陣を結成、明治座酒中日記』の演技で第1回国民文芸賞を受賞します。

 1920年、小林が再度創設した映画会社国際活映国活)に参加しますが、1922年に松竹蒲田撮影所に移籍し、数多くの作品に出演しました。その中で、衣笠貞之助監督が独立して川端康成らと設立した新感覚派映画連盟の狂った一頁』に主演し、作品は後に海外から高い評価を得ます。

1926年狂った一頁衣笠貞之助監督・小使い役

1926年新感覚派映画連盟『狂った一頁』衣笠貞之助監督・小使い役

 1936年、新派と新劇の中間演劇の創成を目指し、井上演劇道場を設立、岡田嘉子山村聡などが参加、また、新演劇演出家として村山知義杉本良吉を起用するなど後進の育成に努めました。

花柳章太郎

 1908年、小学校在学中に喜多村禄郎弟子になり、6月、新富座で子役デビューした花柳章太郎は、1915年『日本橋』の主役お千世を演じて注目を浴びると、1917年には歌舞伎座公演で幹部昇進を果たし、新派期待の星となります。

 1921年、マンネリに陥った新派の革新を目指した花柳は、新劇を研究する目的で新劇座を結成、翌年の第二回目公演久保田万太郎作『雨空』で国民文芸賞を受賞しました。そして、1923年の関東大震災の後、大阪で新進新派を創設し、関西でも人気を博し、1927年には東京に戻って、浅草松竹座を拠点として松竹新劇団を結成します。

 1931年11月、明治座の伊井・喜多村・河合、三頭目公演花柳巷談・二筋道』に参加すると大ヒット、新たなスター花柳章太郎を擁する新派は、この作品のシリーズ化や1935年谷崎潤一郎原作新劇座公演鵙屋春琴(もずやしゅんきん)』のヒットで息を吹き返しました。

 1939年柳永二郎伊志井寛大矢市次郎に作家の川口松太郎とともに、本流新派から分派した新生新派明治座で旗上げます。

 旗揚げの直前から花柳は松竹下加茂撮影所で溝口健二監督『残菊物語』の撮影に入り、この映画は第1回文部大臣賞を受賞、新生新派人気演目にもなりました。この後、新興キネマ、松竹、東宝、大映で名監督の映画に主演します。

1939年残菊物語溝口健二監督・尾上菊之助役

1939年『残菊物語』溝口健二監督・尾上菊之助役

 戦後は舞台に専念し、新派を代表する俳優として活躍しました。

水谷八重子

 1913年、劇評家で島村抱月松井須磨子率いる芸術座の理事を務める水谷竹紫の義妹、小学生の松野八重子は、水谷のすすめで有楽座での芸術座公演に端役で初舞台に立ちました。

 1916年7月、芸術座公演に娘役で出演、それを観た小山内薫に褒められ、10月の帝劇アンナ・カレニナ』に水谷八重子の名で松井須磨子演じるアンナの息子役を演じます。

 高等女学校に在学中の1920年畑中蓼坡主催の新協劇会青い鳥』にチルチル役でミチル役夏川静江と共演すると好評を博し、女優を目指すことを決意、わかもの座を結成しました。

水谷八重子

 1921年には畑中からの依頼で、国活寒椿』に井上正夫の娘役で映画に初出演します。

 1923年、水谷竹紫は、大震災で壊滅した演劇の復興を目指して芸術座の再興を図り、新派俳優を集めて公演を実施、翌1924年に八重子を中心に第二次芸術座を結成、2月に旗揚げ公演を行いました。6月、小山内薫が創設した築地小劇場に俳優たちが移籍し興行的にも苦戦しましたが、松竹系新派の大劇場公演に八重子が単独で出演を重ね、松竹映画にも出演することで危機をしのぎ、1928年、芸術座は松竹専属になりました。

八重子

 プロマイドの売り上げ第1位を飾り、化粧品会社のモデルを務めるなど八重子人気は高まり、1935年の水谷竹紫逝去後も、1945年の戦争激化による解散まで芸術座を率います。

水谷八重子3

 芸術座での水谷八重子は、喜多村緑郎河合武雄などと共演することで新派の伝統芸を学び、花柳章太郎との共演で新しい新派芸を作っていきました。

1935年芸術座『ハムレット』公演・ハムレット役

1935年芸術座『ハムレット』公演・ハムレット役

 1937年、十三世森田勘弥と結婚(1951年離婚)、1939年には好重(現・二代目水谷八重子)を出産します。

水谷八重子と森田勘彌

 戦後、松竹の要請を受け、舞台に復帰、1949年花柳章太郎が結成した劇団新派に参加し、伝統芸を継承するとともに、滝沢修森雅之など新劇の大物俳優と共演することで新たな芸の開拓に励みました。

 水谷八重子東映作品には1952年『嵐の中の母』佐伯清監督、『いとし子と耐えてゆかむ』中川信夫監督に出演しています。

1957年東映『嵐の中の母』佐伯清監督・母稲子役

1957年東映『嵐の中の母』佐伯清監督・母稲子役・(左)香川京子

1957年いとし子と耐えてゆかむ中川信夫監督・高村節子役

1957年『いとし子と耐えてゆかむ』中川信夫監督・高村節子役

 1965年、花柳章太郎の逝去後は新派に専念し、菅原謙次安井昌二、娘の水谷良重など次世代を担う俳優と共演、その育成にも貢献しました。

水谷八重子2

柳永二郎

 1913年、中学を中退した永井武は、家庭劇協会に入り、有楽座にて女中役で初舞台を踏みました。1915年に芸術座にも参加した永井は、9月の新日本劇の旗揚げ公演時に花柳章太郎が演じた役名の柳永二郎を芸名とします。

柳永二郎

 その後、新派に移った柳は、1920年明治座井上正夫一座の公演から幹部に昇進しました。

 1939年花柳章太郎らと共に新生新派を立ち上げ、その舞台で活躍、また、新生新派が提携した映画作品4本に出演します。

 戦後の1949年、新生新派を脱退、フリーとして映画界入り、300本を超える数多くの映画で重要な役回りをつとめ、東映では115本の映画に出演しました。

1956年日輪太郎(二部作)松村昌治監督・斎藤道三役

 1956年東映『日輪太郎(二部作)』松村昌治監督・斎藤道三役

1950年ひばり十八番弁天小僧佐々木康監督・玄照和尚

1960年東映『ひばり十八番 弁天小僧』佐々木康監督・玄照和尚

1960年二発目は地獄行きだぜ小沢茂弘監督・王宝山役

1960年東映『二発目は地獄行きだぜ』小沢茂弘監督・王宝山役

1960年砂絵呪縛井沢雅彦監督・柳沢吉保役

1960年東映『砂絵呪縛』井沢雅彦監督・柳沢吉保役

 1973年、水谷八重子の相手役として新派に復帰、1978年には『婦系図』で早瀬主税を82才で演じました。

柳永二郎2

 来週からは、戦後の映画界に多くの人材を送り込んだ新劇の成り立ちと誕生した劇団及び新劇出身俳優を紹介いたします。