㉛ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第5節「大衆娯楽主義 ベテラン喜劇俳優連」
東映時代劇映画黄金期には、戦前から活躍していた日本を代表するベテラン喜劇俳優が多数出演して、緊張の中にも笑いをもたらすことでチャンバラを盛り上げました。
杉狂児
戦前の日本映画界で流行した歌謡映画に主演し、大ヒットを連発したコメディアン杉狂児は戦後東映で時代劇・現代劇問わず171本もの映画に出演しました。
「あなたと呼べば あなたと答える 山のこだまの嬉しさよ」や「ぱぴぷぺ ぱぴぷぺ ぱぴぷぺぽ うちの女房にゃ髭がある」、「ああそれなのに それなのに」など、どこかで聞いたことがあるフレーズは、杉狂児が主演の日活多摩川撮影所で作られた1935年の映画『のぞかれた花嫁』大谷俊夫監督の挿入歌「二人は若い」と1936年『うちの女房にゃ髭がある』千葉泰樹監督で歌われた2曲でした。
そしてこれらの歌が大ヒットしたことを受け、日活はすぐさま杉狂児主演で千葉泰樹監督にて、歌の歌詞をそのまま題名にした映画『あなたと呼べば』、『あゝそれなのに』を製作すると次々にヒット、その後も杉主演の歌謡映画は成功を重ね、日活多摩川のドル箱になります。
1936年日活『あなたと呼べば』千葉泰樹監督・金子三四郎役
1937年日活『あゝそれなのに』千葉泰樹監督・星野貞志役
1920年、東京音楽学校声楽科を中退した杉は、奇術の松旭斎天勝一座に入門して有楽座で初舞台を踏みました。地方巡業を経た後、1923年震災の後、阪東妻三郎を見出したスター女優、環歌子の付き人になってマキノ等持院撮影所に入ります。
東亜甲陽撮影所の現代劇で映画デビューした後、マキノ御室撮影所に移籍してハロルド・ロイド風現代的コメディアンとして売り出し、牧野省三にも気に入られ、スターへの道を歩み始めます。
しかし、1928年3月、マキノのスター大挙独立騒動がおこる直前、杉は大親分・河合徳三郎が設立した河合プロダクションに引き抜かれてマキノ本宅が全焼した際、東京に引越しました。
河合プロは河合映画製作社と改称し、そこで巨漢俳優の大岡怪童とコンビを組み弥次喜多シリーズなどに主演します。そこから始めた弥次郎兵衛役は生涯にわたる持ち役として東映でも演じました。
1929年9月、牧野省三が亡くなった後のマキノに戻ってきた杉は、すぐに帝国キネマに移籍、新興キネマに改組後も古賀政男のヒット曲を映画化した『酒は涙か溜息か』川浪良太監督などに主演します。
1930年新興キネマ『酒は涙か溜息か』川浪良太監督・番頭清吉役
1932年にマキノ一党が移籍した日活太秦撮影所に入社、1934年に新設された日活多摩川撮影所現代劇部にマキノ満男と一緒に移り、1935年にマキノが進めた、作詞家サトウ・ハチロー原作、古賀政男作曲の庶民派ミュージカル映画「うら街の交響曲」渡辺邦男監督に助演し、この作品のヒットから前述の杉が主演するミュージカル映画が次々と公開されていきました。
1935年日活『うら街の交響曲』渡辺邦男監督・杉山役
1937年日活『ジャズ忠臣蔵』伊賀山正徳監督・大井役
1938年日活『弥次喜多道中記』マキノ正博監督・鼡小僧次郎吉役
そして、俳優から監督に転向した島耕二監督作品に主演し、芥川賞を受賞した尾崎一雄原作『暢気眼鏡』ではシリアスな演技でも高い評価を受けました。その後も島の『山高帽子』に主演し、次男と四男が主演した『次郎物語』にも助演するなど戦前の日活現代劇を代表するスターになりました。
1940年日活『暢気眼鏡』島耕二監督・真木太郎役
1941年日活『山高帽子』島耕二監督
1941年日活『笑ひの快速艇』吉村廉監督
1941年日活『世紀は笑ふ』マキノ正博監督・杉野凡作役
日活が大映に統合された後もミュージカル映画などに主演しますが、製作本数が激減した戦時中は映画を離れ、一座を結成し慰問活動を行いました。
戦後、映画界に復帰すると1947年7月にマキノ満男が東横映画撮影所を設立するとそこに参加しました。杉は1953年から1960年まで東映専属俳優として数多くの作品に出演、軽妙な役ばかりでなく、悪役やしみじみとした役など名バイプレーヤーとして東映映画黄金期を支えました。
1948年東横『野球狂時代』斎藤寅次郎監督・六さんの父役
1951年東横『夢介千両みやげ 春風無刀流』萩原遼監督・総太郎役
1951年東映『旗本退屈男 唐人街の鬼』中川信夫監督・熊ン八役
1953年東映『江戸の花道』中川信夫監督・易者の三伯役
1953年東映『青空大名』萩原遼監督・岩代天兵役
1953年東映『風雲八萬騎』佐々木康監督・笹尾陣内役
1954年東映『真田十勇士』河野寿一監督・霧隠才蔵役
1954年東映『南国太平記』渡辺邦男監督・南玉役
1956年東映『忍術左源太』深田金之助監督・権六役
1956年東映『水戸黄門漫遊記 怪力類人猿』伊賀山正徳監督・偽老公役
1956年東映『長脇差奉行』小沢茂弘監督・権次役
1957年東映『富士に立つ影』佐々木康監督・銀作役
1958年東映『若さま侍捕物帖 紅鶴屋敷』沢島忠監督・十手の甚兵衛役
1959年東映『殿さま弥次喜多 捕物道中』沢島忠監督・鏡兵衛役
1961年東京宝映テレビを設立し社長に就任し、これまで培ってきた俳優としての様々な演技技術のノウハウや芸能界での歩み方を後進に指導し、多くの俳優を育成していきました。
堺駿二
小さい身体をバネに飛んで跳ねて走ってと目まぐるしく動く笑いだけでなく、おかしいポーズや扮装で人気を博した堺駿二はフリーのコメディリリーフとして東映でも139本の映画ならびに数多くのテレビ作品に出演しました。
中学を中退して新派の一座に飛び込み、子役から女形までこなした堺は、1932年に帰国して一座を立ち上げた早川雪舟のもとに参加して堺駿二の芸名をもらいます。
1935年、早川がフランスに旅立ち一座が解散すると浅草オペラ館で清水金一(シミキン)とコンビを組み軽演劇の世界に入りました。一時、その世界から離れますが、呼び戻されて清水、田崎潤、水の江滝子らと軽演劇の舞台で戦後まで活躍しました。
1946年に松竹大船撮影所に入所し、『破られた手風琴』須佐寛監督で主演デビューするも、その後は清水金一の主演映画への助演します。
1952年からフリーになり各社に出演しますが、コミカルなキャラクターは東映でも欠かせぬ存在として時代劇、現代劇、映画、テレビで八面六臂の働きをしました。
1952年東映『飛びっちょ判官』渡辺邦男監督・重太郎役
1953年東映『女難街道』渡辺邦男監督・三公役
1953年東映『青空大名』渡辺邦男監督・頓八役
1954年東映『満月狸ばやし』萩原遼監督・狸七役
1955年東映『百面童子』小沢茂弘監督・サボタン公役
1956年東映『ほまれの美丈夫』伊賀山正徳監督・押せ押せの袖松役
1956年東映『権三と助十 かごや太平記』斎藤寅次郎監督・権三役主演
1957年東映『富士に立つ影』佐々木康監督・竜吉役
1958年東映『葵秘帖』小沢茂弘監督・けろ八役
1958年東映『浪人八景』加藤泰監督・おしゃべりの吉松役
1959年東映『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』佐々木康監督・喜内役
1959年東映『あばれ大名』内出好吉監督・細谷三右衛門役
1959年東映『右門捕物帖 片目の狼』沢島忠監督・おしゃべり伝六役
1960年東映『旗本退屈男 謎の幽霊島』佐々木康監督・つむじ風の仙太役
1960年東映『ひばりの森の石松』沢島忠監督・久六役
1961年東映『剣豪天狗祭り』小沢茂弘監督・岩猿役
1961年東映『八荒流騎隊』工藤栄一監督・矢崎新六役
堺俊二は1968年新宿コマ劇場の舞台の上で急死しましたが、次男の堺正章は有名GSグループ「ザ・スパイダーズ」で「マチャアキ」と呼ばれ、ボーカルとして人気を博し、映画、テレビ、舞台でも活躍、その後現在に至るまでタレントとして長きにわたり芸能界で活躍しています。
渡辺篤
1931年日本初のトーキー映画と言われる松竹『マダムと女房』五所平之助監督に劇作家芝野新作役で主演した喜劇俳優が渡辺篤です。渡辺はフリーとして東横・太泉・東映で85本の映画にコメディリリーフとして出演しました。
渡辺は軽演劇などの舞台俳優から芸能界に入り、1921年、牧野教育映画製作所に入社し、短編教育劇映画から映画人生をスタートします。その後、1923年1月に退社し松竹蒲田撮影所、東亜映画、松竹下加茂、再び蒲田と転々とする中で1925年末から蒲田で主役を務めるようになり、27年には松竹の準幹部俳優に昇格しました。
蒲田撮影所長の城戸四郎にかわいがられ、喜劇映画の主役として三枚目の役柄を飄々と演じ、中でもギャグ満載の斎藤寅次郎監督作品は観客を爆笑の渦に巻き込みました。
1931年、松竹を退社し不二映画社設立に参加した渡辺は、解散後、古川緑波(ロッパ)や徳川夢声が立ち上げた「笑いの王国」に入り、舞台やPCL映画に出演、そしてロッパが退団して組んだ古川緑波一座に同行し、ロッパの東宝映画や舞台に助演して一座を盛り上げましだが戦争激化にともない活動も減少していきます。
戦後はフリーとして、東横映画『のど自慢狂時代』『ホームラン狂時代』、太泉映画『おどろき一家』『エノケンの八百八狸大暴れ』などの喜劇映画で活躍しました。
東映になってからは1952年『水戸黄門漫遊記 第二部 伏魔殿の妖賊』渡辺邦男監督に登場以来、1963年『おかしな奴』沢島忠監督まで81本に出演、市川右太衛門の『旗本退屈男』シリーズには12本も参加しました。
1952年東映『水戸黄門漫遊記 第二部 伏魔殿の妖賊』渡辺邦男監督・勘八役
1952年東映『恋風五十三次』中川信夫監督
1953年東映『朝焼け富士』松田定次監督・びっくり熊役
1953年東映『急襲桶狭間』松田定次監督・草履取り又助役
1953年東映『べらんめえ獅子』渡辺邦男監督・腰栗の半次役
1954年東映『旗本退屈男 どくろ屋敷』松田定次監督・用人可内役
1954年東映『真田十勇士』河野寿一監督・熊左衛門役
1954年東映『血ざくら判官』萩原遼監督・大家善兵衛役
1955年東映『旗本退屈男 謎の決闘状』佐々木康監督・南貞斎役
1956年東映『名君剣の舞』河野寿一監督・医師丹庵役
1956年東映『快剣士 笑いの面』佐々木康監督・くず辰役
1956年東映『忠治祭り 剣難街道』加藤泰監督・甚太役
1956年東映『江戸三国志』萩原遼監督・馬春堂役
1957年東映『若さま侍捕物帖 鮮血の人魚』深田金之助監督・舞岳庵役
1957年東映『富士に立つ影』佐々木康監督・平作役
1957年東映『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』佐々木康監督・左官の千太役
1958年東映『千両獅子』内田吐夢監督・代地の勘助役
1960年東映『殿さま弥次喜多』沢島忠監督・堀田帯刀役・杉狂児(右)
1959年東映『旗本退屈男 謎の幽霊島』佐々木康監督・可内役
1961年東映『旗本退屈男 謎の七色御殿』佐々木康監督・伍平役
1962年東映『旗本退屈男 謎の珊瑚屋敷』中川信夫監督・笹尾喜内役
1963年東映『おかしな奴』沢島忠監督・あんま宅悦役
また、渡辺は黒澤明監督作品の常連として『素晴らしき日曜日』から『どですかでん』まで8作品に出演しました。
杉狂児、堺駿二、渡辺篤の三人は、芸達者な喜劇俳優として、名監督からの信頼が厚く、多くの作品に起用された日本の映画黄金期を代表するコメディリリーフでした。
三人は1957年『富士に立つ影』佐々木康監督(Topの写真)、1960年『新吾十番勝負 第一部』松田定次監督、1961年『出世武士道』河野寿一監督で共演しました。
1960年東映『新吾十番勝負 第1部』松田定次監督