94. 第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第1節「岡田茂社長誕生」
大川博の葬儀告別式を終えた翌日の1971年8月25日、霞が関ビルにあった東映社長室で臨時取締役会が開催され、岡田茂常務取締役が代表取締役社長に選任され、就任しました。
社長就任挨拶では、前社長大川の経営手腕をたたえるとともに、大企業ではない中小企業の集まりである東映グループの親父として先頭に立って、中小企業としての構造改革を進めていきたいとの決意を表明します。
これは、48歳の新社長岡田茂による、電鉄経営に基づいた、大企業を目指し多角的事業で支える大川体制から、映画映像作りを中心とした小回りの利く中小企業プロダクションを目指す岡田商店へ、企業から活動屋への構造改革の宣言でした。ここから、岡田は人員と事業の合理化、分権化を進めてゆきます。
ここで新社長岡田茂の就任までの略歴をご紹介いたします。
岡田は、1924年(大正13年)3月2日広島県賀茂郡西条町の酒問屋「岡田商店」を経営する唯一とユミの次男として生を受けました。7歳の時、近所に住む子宝に恵まれない、父の弟軍一、鈴代夫妻の家に養子に入ります。二組の両親の愛情に育まれ、尋常小学校から広島一中へと進み、中学の時には身長180センチ近くも伸びて柔道部に所属、暴れん坊として鳴らしました。この小中の同級生に後の東映動画社長今田智憲(ちあき)がいます。
広島高等学校に進んだ岡田は、柔道部では主将になり、全運動部のリーダーとして活躍、部活動や寮生活を通じ集団内での仕切り方や寝技のやり方を学びました。高校時代の仲間には後に宝酒造会長となった野球部の主将田辺哲や酔心本店の山根賞三などがいます。
学校のボスとなった岡田は、高校を首席で卒業し、1944年9月、東京帝国大学経済学部に入学しました。翌年の1月には学徒動員として仙台の岩沼陸軍航空隊(現仙台空港)に配属され戦闘機整備の任務に就きます。そこでは後にダイキン工業副社長に就任する徳永洋一と生活を共にしました。7月、岩沼飛行場はグラマンによる爆撃や艦砲射撃で壊滅し、疎開先の古川市にある小学校で玉音放送を聞きました。
戦後、東大経済学部に戻った岡田は、共産主義の嵐が吹き荒れる中で、後の電通会長木暮剛平、ポリドール社長高清一郎、東海銀行副会長新井永吉らと反共産党ののろしを上げ、東大の学生の間に名前が響き渡ります。
卒業をむかえ、就職先を選ぶにあたり、広島出身の櫻田武社長の日清紡績への入社を考えていた岡田に、先に東横映画への入社を決めた幼なじみの今田智憲から一緒に映画を作ろうとの誘いがきました。東横映画社長の黒川渉三は広島西条出身であり、東急電鉄専務も兼ね東急の四天王の一人と呼ばれる、総帥五島慶太の懐刀でした。今田と黒川の自宅を訪ねた時、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という黒川の言葉に惹かれた岡田は、1947年10月22日、東横映画に入社します。
今田は東京本社営業部にいましたが、岡田は京都撮影所(京撮)の進行係に配属されました。撮影所では、撮影所の脇に掘っ建て小屋を建てて住んでいた満映帰りの大道具係や荒っぽい照明係など徒弟制度の厳しいスタッフたちに、持ち前の度胸と寮で鍛えた処世術でかわいがられます。ヤクザとの大立ち回りで所内中に喧嘩の強い岡田の名前が広がり、翌1948年4月には早くも進行主任になりました。
進行係を続けながら岡田は、戦没学生の遺稿集『はるかなる山河へ』を原作に関川秀雄監督『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の企画を進めます。シナリオの内容にケチをつけて来た東大の全日本学生自治会総連合(全学連)の氏家齋一郎(後の日本テレビ会長)と渡り合い了承を取り付け、大スター月形龍之介や片岡千恵蔵の反対を押し切って、厳しい予算の中、工夫を凝らして苦労の末に完成し、1950年6月に公開した映画は大ヒットしました。
岡田は、翌1951年、合併して新たに誕生した東映で、高木彬光原作『わが一高時代の犯罪』を企画、関川秀雄、山本薩夫両監督で製作します。
8月に公開したこの作品は残念ながら失敗に終わり、スタッフからの要望で岡田は企画から製作進行に戻りました。
この年11月、岡田は大川社長の鶴の一声で、製作部では一番の年下、弱冠27歳にして撮影現場を実質仕切る製作課長に昇進します。翌1952年、部長、所長を飛び越えて大川から本社に呼ばれ、大川と二人で予算会議が行われ、二人で決めた予算の使い方はすべて任せるが、決して超過は許さないとの厳命を受けました。片岡千恵蔵、市川右太衛門、両御大の出演料以外はすべて岡田に全権委任され、これまで黒塗りのハイヤーで撮影現場に向かっていた両御大自ら他のスタッフ同様にロケバスに率先して乗り込み、撮影所一丸となってコスト削減に取り組みます。
続いて1953年から全プログラムを東映で製作配給することを宣言した大川から、岡田は製作コスト削減と共に製作本数を一気に増加することを命じられ、翌1954年にはそれが二本立て興行になり作品数が倍増しました。
それらの無茶苦茶な要求に対し、岡田を筆頭に全撮影所員が奮闘、寝る間を惜しんで撮影に向かいます。その結果、東映創立5周年の1956年には日本一の映画収入を記録することができました。
経営が安定し、量産を始めた1954年から、撮影所建物の新築工事が始まります。
1955年、米国ロサンゼルスの撮影所に視察に出かけた岡田は、現地で見た連結型のステージを京撮の新築ステージに導入することを提案し、早速No.9とNo.10に活用されました。
これによって、両ステージの連結部分に黒幕を張り、両ステージの扉を全面開放、No.9ステージに構えた望遠カメラからNo.10のセットを撮影することが可能になります。当時は撮影本数も多く普段は別々に稼働するステージを連結させることで大作映画の撮影が可能になる大型ステージに変わりました。
元京撮所長だった映画プロデューサー坂上順(すなお)は連結ステージについて「レンズと被写体の間に距離が生まれる事でその間にある空気感が表現できる。二つのステージをつないだこの距離が大事。」と述べていました。
京撮のステージは、スケールの大きな映画を撮影するために工夫されたステージなのです。
そんな岡田が目標としていたのは京撮所長のマキノ光雄でした。マキノは日本映画の父牧野省三の次男で、東横映画撮影所を立ち上げ軌道に乗せ、東映専務兼東映映画のゼネラルプロデューサーとして東撮京撮を問わず映画作りに辣腕を振るっていました。その周りには右翼から左翼まで、大スターから大部屋俳優まで、警察官からヤクザまで、映画に関係する様々な人物たちが集まり、マキノは映画作りに関して大変な求心力のある人物でした。
1957年12月9日、映画を作る人々には右翼も左翼もない大日本映画党を掲げるマキノが48歳の若さで逝去します。
マキノの背中を見て映画作りの何たるかを学んだ岡田は、その8日前の12月1日に京撮製作部長に就任、1961年2月には京撮所長、半年後東撮所長兼製作部長に異動、1962年10月、取締役に就任、1964年2月には再び京撮所長に復帰しました。
東撮では、前任の坪井与所長が敷いたギャング映画路線をより過激に推進し、深作欣二、降旗康男、佐藤純彌などの若手監督を抜擢、ベテランの小沢茂弘、坪井が新東宝から招聘した石井輝男などを起用し、高倉健、鶴田浩二、丹波哲郎などのスターを柱にギャング映画を量産することで東撮を勢いに乗せます。1963年には沢島忠監督鶴田浩二主演で『人生劇場 飛車角』のヒットで任侠映画の口火を切りました。
京撮に戻ってからは、東映京都テレビ・プロダクションを設立、時代劇映画のベテランスタッフたちをテレビ時代劇に、その他のスタッフを本社や東映動画に異動させる超合理化の大ナタを振るいます。これによって、テレビ特撮の平山亨や東映動画の勝間田具治など京撮時代劇のノウハウを身に着けた若手スタッフが新天地で活躍し、新たな地平を切り開きました。
映画製作では、プロデューサーに俊藤浩滋を起用した、小沢茂弘監督鶴田浩二主演『博徒』、マキノ雅弘監督高倉健主演『日本侠客伝』が大ヒット、共にシリーズ化し、岡田の京撮は俊藤が企画する任侠映画路線へと舵を取ります。
また、若手助監督だった中島貞夫の企画『くノ一忍法』を中島と倉本聰の脚本で監督に中島を起用して製作し、ヒットすると中島で続篇を作り、岡田主導で好色映画路線も進めました。
岡田が去った東撮でも、蒔いた種が花開き、石井輝男監督高倉健主演『網走番外地』、佐伯清監督高倉健主演『昭和残侠伝』が大ヒット、シリーズ化しました。
1966年10月、常務に昇格した岡田は、1968年5月には、京撮所長に加え本社の企画製作本部長も兼務します。その年9月には、京撮撮影所長のまま、企画、製作から営業まで含めた映画部門のトップである映画本部長を命ぜられ、本社に異動、ここで東映映画部門のゼネラルプロデューサーとなった岡田茂は、その師匠であるマキノ光雄の後継者となりました。
その後、1971年1月にテレビ部門のトップのテレビ本部長にも就任、併せて組合対策の労務担当も委嘱されました。
東映の創業20周年に当たる1971年は、これまで経営を担ってきた大川博の突然の死による経営者の交代という激震の年でした。
そして、東映のみならず映画界全体にとっても大きな節目の年でもあります。
1942年に創業した永田雅一の大映は、この年11月に業務停止、翌月に不渡りを出し破産宣告を受け倒産、年末に上場廃止となりました。
1970年に大映と提携し共同配給会社ダイニチ映配を設立した日活は、翌1971年6月にこれまで長きにわたりトップとして会社を牽引して来た堀久作が電撃辞任。8月に大映との提携を解消し、11月から低予算のロマンポルノ路線にシフトします。
東宝は、この年東宝映画(藤本真澄社長)、東宝映像(田中友幸社長)という制作子会社を設立し、翌年映画製作を本体から切り離しました。
1965年京都撮影所を閉鎖し、映画製作を減産していた松竹は、1969年から始まった山田洋次監督『男はつらいよ』が盆正月のヒットシリーズとなり、ザ・ドリフターズなどの喜劇を中心に持ち直してきます。1971年12月には、戦前から松竹の映画部門を指揮してきた城戸四郎が会長に退き、大谷隆三が社長に就任しました。この12月、閉鎖中の太秦撮影所にボウリング場「太秦松竹ボウル」がオープンします。撮影所は、1975年1月にボウリング場が閉鎖され、京都映画が移転してくるまで10年間閉鎖されたままでした。
このように、1971年は戦後の映画ブームが終結し、新たな時代の幕が上がった年でした。
岡田家の豆知識
1958年頃から一時期、岡田茂は岡田守弘と名乗っていました。キネマ旬報1959年5月下旬号にもこの名前で「大量生産のエネルギー」という記事を書いています。ペンネームではなく当時の岡田家玄関の表札も岡田守弘でした。
長男の本名は剛(つよし)ですが、親族や友人間の呼び名は裕介(ひろすけ)で、マキノ光雄(本名・多田光次郎)同様、岡田茂は占いによって自分の子供たちの名前を変えていたようです。
ちなみに岡田裕介は、俳優になった時の芸名として読み方をゆうすけにしたそうです。
トップ写真:社長就任時、社内報のインタビューに答える岡田茂