99.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第5節「東映ゼネラルプロデューサー岡田茂・映画企画の歩み①任俠映画」
1971年に東映社長に就任した岡田茂は、後にインタビューの中で自らを東映映画のゼネラルプロデューサーと語りました。
ここでのゼネラルプロデューサーとは、マキノプロの牧野省三から始まり、松竹の城戸四郎、大映の永田雅一など、個々の企画を担当するプロデューサーとは違い、自身が所属する会社の映画部門全体に目を配り企画を判断する人物のことを意味しています。
東映では1957年に逝去したマキノ光雄がゼネラルプロデューサーに近い存在でした。マキノの後は、満映以来の部下坪井与が企画本部長としてマキノの路線を引き継ぎ、東映時代劇全盛時代を支えます。
東撮所長時代にギャング映画で成功した岡田は、1964年に京撮所長に復帰した後、プロデューサー俊藤浩滋を中心とした任俠映画の大ヒットで京撮を立て直すとともに合理化を進めました。
実績を上げ常務に昇進した岡田は、1968年5月、坪井の後を継いで企画本部長に就任し、社長の大川から、マキノ光雄の時より増して、東映の映画企画製作部門の全権を委任されます。
岡田は、映画作りにおいてテレビとの差別化を図るためにこれまで掲げて来た不良性感度をより一層鮮明にし、任俠路線に加えて好色路線、残酷路線をより過激に推進しました。
そして、1971年の大川逝去で社長に就任してから、自他ともに認める東映映画のゼネラルプロデューサーとなった岡田は、およそ30年の長きにわたり東映映画企画のハンドリングを行います。
今節では、坪井の後を継いで映画本部長に就任し東映のゼネラルプロデューサ―の道を進み出した岡田茂の映画企画の歩みをご紹介いたします。
1.俊藤浩滋の任俠映画:鶴田浩二と高倉健そして若山富三郎と藤純子
1961年9月、東京撮影所(東撮)所長に就任した岡田は、前所長の坪井が新東宝から招いた石井輝男と抜擢した深作欣二、二人の若手監督を使って生み出した新しいスタイルのギャング路線をより過激に推進しました。このギャング映画から、東撮で高倉健、千葉真一、丹波哲郎など新スターが登場します。
① 大映『悪名』、日活『花と龍』など任俠映画のはじまり
1961年9月、大映は勝新太郎主演、田中徳三監督で今東光原作『悪名』を公開。勝演じる博徒八尾の朝吉と田宮二郎のモートルの貞のコンビは人気を呼び、以後31作も続く勝の人気シリーズとなりました。
また日活は、1962年12月、石原裕次郎主演・舛田利雄監督で火野葦平原作の『花と龍』を公開します。
これまで洋服を着ていた裕次郎が和服のやくざを演じる任俠映画はこの年、黒澤明の『天国と地獄』に次ぐ2番目の大ヒットとなりました。
新たな鉱脈を見つけた日活は続けて、翌1963年7月に、高橋英樹主演『男の紋章』がヒットし、シリーズ化、日活の任俠映画が始まります。
② 1963年 東映任俠映画の始まり
日活『花と龍』の大ヒットを見た東撮所長の岡田は、1963年3月、尾崎士郎原作『人生劇場』の中の登場人物である俠客を主人公に『人生劇場 飛車角』を公開します。
時代劇の名手沢島忠が監督し、飛車角を演じた鶴田浩二を主演に高倉健が助演する、この任俠映画も日活同様大ヒットしました。
ここから岡田が主導した、東映のやくざ路線が始まります。
そして、岡田がやくざ路線を進める時に大きな役割を果たしたのがプロデューサー俊藤浩滋でした。
③ 1964年 京撮任俠映画スタート 俊藤浩滋活躍開始
翌1964年の2月、岡田は、時代劇映画が低迷する京都撮影所(京撮)の立て直しのため、所長として再び京撮に赴任し、早速、京都テレビプロを設立、ベテラン時代劇スタッフを移籍させるとともに、任俠映画に取り組みます。
そこで岡田が白羽の矢を当てたのは、これまで『アイ・ジョージ物語 太陽の子』や人気テレビドラマ『てなもんや三度笠』『隠密剣士』などの映画をプロデュースしてきた俊藤浩滋でした。
岡田は、俊藤を、任俠映画のプロデューサーに起用します。
銀座の高級クラブのマネージャーだった俊藤は、大川博に頼まれ、常連客の巨人監督水原茂を東映フライヤーズに移籍する交渉を手がけた辣腕家で、大川からの信頼も厚く、芸能界他幅広い人脈を持つ顔が広い人物でした。
俊藤の映画との出会いは、戦後まもなく知り合ったマキノ雅弘の撮影の手伝いを行ったことから始まります。
岡田から話を受けた俊藤は、2本の任俠映画を企画しました。
7月、1960年に俊藤が東宝から東映に仲介した鶴田浩二主演の小沢茂弘監督『博徒』、そして続けて8月、高倉健主演・マキノ雅弘監督『日本俠客伝』を公開すると両作品とも大ヒットします。
俊藤の企画する映画は他社とは違う本物の雰囲気を持つ任俠映画として、他社の任俠映画を圧倒しました。
『博徒』は10作、『日本俠客伝』は11作続く任俠映画を代表する大人気シリーズとなります。
1964年、任俠映画に取り組んだ俊藤が企画を担当した作品は、10作公開されます。
④ 1965年 東撮『網走番外地』『昭和残侠伝』大ヒット
『博徒』『日本俠客伝』を企画した俊藤は、翌1965年、京撮で新たに4月公開鶴田浩二主演・小沢茂弘監督『関東流れ者』を企画しました。この作品もヒットし、この後『関東』シリーズとして5作作られます。
その頃、俊藤の企画ではありませんが、東撮で製作された1965年4月公開石井輝男監督・高倉健主演『網走番外地』が大ヒット、18作も続く映画史に残る大人気シリーズとなります。
この作品の主題歌『網走番外地』は、俊藤が東撮で企画を担当した1965年1月公開鶴田浩二主演・石井輝男監督のオールスターギャング映画『顔役』の中で高倉健が口笛で吹き、歌うメロディーでした。
その年9月には、京撮で鶴田主演・加藤泰監督『明治俠客伝 三代目襲名』が公開されました。撮影の途中で主役の鶴田と加藤監督が演出方法でぶつかり、一言も口を利かない状況になりましたが、お互いの意地の張り合いがうまく働き、任俠映画の傑作が誕生します。
1964年10月に岡田の盟友今田智憲が所長に就任した東撮でも、翌1965年10月公開、俊藤が企画した高倉健主演佐伯清監督『昭和残俠伝』も大ヒットし、9作続く任俠映画の代名詞となる人気シリーズが誕生。東西両撮影所で任俠映画シリーズが花開きます。
多くの健さんファンがカラオケで主題歌『唐獅子牡丹』を歌いました。
この年のキネマ旬報11月上旬号に、岡田が「映画界の不振を救うルール」は「不良性感度の開発」と語ったことが書かれており、また、社内報『とうえい』12月号では、「解放性感度の高いものほどヒット」と述べています。
この頃から、岡田は「不良性感度」という言葉を使い始めたようです。
1965年、俊藤が企画に関係した公開作品は20作にのぼり、任俠映画プロデューサーとして花形時代が訪れました。
⑤ 1966年 京撮時代劇映画から任俠映画へ 岡田常務昇進
1966年3月、マキノ雅弘監督で鶴田浩二主演『日本大侠客』が公開されます。この作品には、1963年のマキノ雅弘監督『八州遊侠伝 男の盃』で映画デビューした藤純子が九州弁をしゃべり懐にピストルを持つ馬賊芸者お竜役で出演。後に『緋牡丹博徒』のお竜のキャラクター作りに影響を与えました。
波に乗った俊藤は、この年4月には北島三郎主演・村田英雄共演の山下耕作監督『兄弟仁義』、7月、村田英雄主演・中島貞夫監督『男の勝負』が公開され、それぞれヒットし、『兄弟仁義』シリーズ9作、『男の勝負』シリーズ4作、とシリーズ化します。
この年岡田は、京撮では1954年4月公開『悪魔が来りて笛を吹く』以来12年ぶりに現代劇に乗り出すことを発表。その第1号として5月に中島貞夫監督・松方弘樹主演のモノクロ映画『893愚連隊』を公開しました。
任俠映画とは違う、愚連隊を扱ったこの現代劇は、ヒットはしませんでしたが、大学生など若者たちから高い評価を受けます。
岡田はこれ以降、京撮にて、次々と現代劇に乗り出しました。
10月、京撮所長岡田茂は、東撮所長今田智憲とともに常務に昇進します。
1966年、岡田の方針によって時代劇映画から任俠映画へのシフトが進められる中で、東映から市川右太衛門、中村錦之助が去り、任俠映画を進める俊藤が企画に携わった公開作品は、20作でした。
⑥ 1967年 鶴田浩二『博奕打ち』大ヒットシリーズ化
1967年1月、鶴田浩二主演・小沢茂弘監督『博奕打ち』が公開されヒットし、『博奕打ち』シリーズは9作続く人気シリーズとなります。
中でも1968年1月公開の山下耕作監督『博奕打ち 総長賭博』は名作として三島由紀夫が激賞しました。
⑦ 安藤昇東映参加
1967年2月、京撮にて松竹から移籍した元安藤組組長安藤昇主演の現代任俠映画、加藤泰監督『懲役十八年』を公開します。
1965年、安藤は、自叙伝『血と掟』を原作に製作された同名映画で主演デビューし、本人出演の作品は本物のやくざ映画としてヒットしました。
配給した松竹は、安藤と専属契約を結び、ここからやくざ映画に参入しました。
その後、松竹は安藤主演で数本作りましたが、やくざ映画の経験のない松竹ではなかなかヒット作が生まれません。テコ入れに主に東映で活躍するベテラン監督の加藤泰を起用した『男の顔は履歴書』でようやくヒット作が生まれました。
その加藤の紹介でやくざ映画の東映に移籍した安藤の第1作は大ヒット。この後安藤は、完全引退する2002年まで、東映及び東映ビデオで数多くのやくざ映画に出演し、東映に貢献します。
安藤の『懲役十八年』に併映された佐藤純彌監督『組織暴力』は、丹波哲郎を主演に東撮で製作された実録風現代ヤクザ映画で、冒頭に「この映画の内容及び登場人物はすべてフィクションであり事実にもとづくものではありません」という今ではお馴染みの文言が付いていました。
後年の実録ヤクザ映画の先駆作品『組織暴力』の6月に公開された佐藤監督『続組織暴力』には安藤昇が特別出演しています。
しばらく間が空いた1969年9月に公開された第3作佐藤監督『組織暴力 兄弟盃』は安藤昇が主演し、丹波哲郎、菅原文太が出演しています。
⑧ 俊藤企画特攻隊映画大ヒット
俊藤は、京撮で任俠映画ばかりではなく、鶴田浩二主演・中島貞夫監督の特攻隊映画『あゝ同期の桜』を企画し、6月に公開されます。はじめは千葉真一、松方弘樹を中心に話が進んでいましたが、大川博の後押しによって鶴田、高倉の出演が決まり、オールスター映画となりました。
この映画は大ヒットし、特攻隊映画シリーズとして、翌1968年1月、鶴田主演・小沢茂弘監督『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、6月、村山新治監督『あゝ予科練』が公開されます。
1967年、俊藤が企画を担当し、公開された作品は30作を数えました。
⑨ 1968年 若山富三郎・藤純子主演シリーズ大ヒット
俊藤は1968年には鶴田、高倉に続き、若山富三郎を主演に売り出します。 3月に公開したコメディ色の強い京撮作品、若山富三郎主演・山下耕作監督『極道』を企画しヒット。極道・島村清吉は11作続く若山の代表シリーズとなります。
若山主演作では、1968年8月公開京撮作品佐伯清監督『極悪坊主』も5作続く人気シリーズとなりました。
鶴田、高倉、若山と任侠映画三大スターが揃ったところで、8月に3人が出演するマキノ雅弘監督『侠客列伝』を公開します。
この映画も大ヒットし、小沢茂弘監督で12月『博徒列伝』、翌年12月『渡世人列伝』とシリーズ化しました。
続いて、京撮にて俊藤の実娘藤純子主演の山下耕作監督『緋牡丹博徒』が9月に公開されます。
日下部五朗が企画し鈴木則文が脚本を書いた『緋牡丹博徒』は大人気を呼び、8作続く映画史に残るシリーズが誕生しました。
お竜が髪の玉かんざしを抜いて、小柄のように相手に投げつけるシーンは山下耕作監督の第1作から登場しますが、第6作、7作の加藤泰監督演出で、玉かんざしを抜き取ると髷が解け長い髪が片方バサッと落ちた姿での立回りシーンは何度見てもゾクゾクものです。
その年、10月には東撮作品、巨匠内田吐夢監督の鶴田浩二主演『人生劇場 飛車角と吉良常』が公開されました。飛車角は鶴田、吉良常は辰巳柳太郎、高倉が宮川を演じたこの作品は大ヒットし、キネマ旬報ベストテン9位にも入賞します。
1968年、岡田は映画本部長に就任し、坪井に代わり東映のゼネラルプロデューサーになりました。この年、俊藤の名が企画にある映画は28作品公開されます。
⑩ 1969年 菅原文太台頭
1967年に安藤昇と共に松竹から東映に移籍してきた菅原文太が、1969年2月、東撮で降旗康男監督『現代やくざ 与太者の掟』に主演し、この現代任俠映画で菅原の実録映画につながる暴力的なチンピラやくざの姿が評判になりました。
この後、『現代やくざ』は東撮でシリーズ化され、『現代やくざ 与太者仁義』(1969年5月公開降旗康男監督)、『新宿の与太者』(1970年12月公開高桑信監督)、『現代やくざ 盃返します』(1971年4月公開佐伯清監督)、『現代やくざ 血桜三兄弟』(1971年11月公開中島貞夫監督)、『現代やくざ 人斬り与太』(1972年5月公開深作欣二監督)と6作作られます。
映画本部長に就任した岡田は、3月の社内報『とうえい』にて、映画の善良性と不良性について述べました。
7月、藤純子主演で山下耕作監督『日本女俠伝 俠客芸者』が公開され、この作品も人気を呼び、5作続くシリーズとなります。
8月には時代劇映画で若山富三郎主演・小沢茂弘監督『賞金稼ぎ 薩摩の首』を企画するとこれもヒットし、続けて12月に工藤栄一監督『五人の賞金稼ぎ』、1972年12月には第3弾、小沢茂弘監督『賞金首 一瞬八人斬り』を公開しました。
『賞金稼ぎ』は1975年から日本教育テレビ(NET)にて若山主演でテレビシリーズとなります。
11月、京撮にて菅原文太が主演した鈴木則文監督『関東テキヤ一家』が公開。この作品もヒット、シリーズ化され5作作られました。
東撮の『現代やくざ』、京撮の『関東テキヤ一家』、この年に始まった2つのシリーズから菅原の大スターへの道が開かれます。
1969年公開の俊藤が企画に関係した映画の数は、28作にのぼりました。
⑪ 1970年 ヒットメーカー俊藤企画担当作品、最多数公開
1970年6月、『緋牡丹博徒』のスピンオフ作品として熊虎親分若山富三郎主演・鈴木則文監督『シルクハットの大親分』が公開されます。
藤純子が出演するこの作品も人気を集め、同監督で11月にもう1作『シルクハットの大親分 ちょび髭の熊』が公開されました。
多数の人気シリーズを次々と量産する俊藤が1970年に手掛けた公開映画は32作、過去最高の作品数となります。
⑫ 1971年 菅原『まむしの兄弟』 岡田社長就任
1971年、年明け後の2月頃からこれまで東映を支えて来た任俠映画に陰りが見えてきました。
そんな折、京撮にて、菅原文太が川地民夫とのコンビで主演した6月公開中島貞夫監督『懲役太郎 まむしの兄弟』がヒットします。
大映の『悪名』のコンビに似て、コメディ要素が多く、任俠映画の対極にある下品なゴロ政と不死身の勝次、まむしの兄弟は人気シリーズとして、1974年の中島貞夫監督『極道VSまむし』も含めて9作公開されました。
8月、大川博逝去。岡田茂社長就任、名実ともに東映映画のゼネラルプロデューサーになりました。
以後、岡田はこれまで以上に過激な刺激路線を進めて行きます。
1971年、俊藤が企画に名を連ねる映画は28作公開されました。
⑬ 1972年 藤純子引退 任侠映画の衰退
1972年3月、マキノ雅弘監督『純子引退記念映画 関東緋桜一家』をもって藤純子が引退します。
京撮で撮影されたこの作品には、鶴田、高倉、菅原、若山と任侠映画スター総出演で、嵐寛寿郎、御大片岡千恵蔵も出演し、大ヒットを記録しました。
しかし、この藤の引退を契機に、任侠映画はより一層集客力が落ちます。
また、これまで大ヒットを重ね、東撮を支えてきた高倉主演の『網走番外地シリーズ』でしたが、1972年8月公開の降旗康男監督『新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義』が苦戦し、このシリーズも終了しました。
⑭ 東撮『女囚さそり』梶芽衣子登場
東撮プロデューサー吉峰甲子夫は、日活でデビューし1970年の『野良猫ロックシリーズ』で人気が出た梶芽衣子を企画中の映画の主役にスカウトします。
出演した日活『日本残侠伝』の監督マキノ雅弘に勧められ改名して運が開けた梶は、日活がポルノ路線に方針転換したことから退社、フリーとなってテレビで活躍していました。
東映は、藤純子引退の穴を埋めるため、1972年4月公開山口和彦監督『銀蝶主演デビューする梶をポスト藤純子として売り出すことにします。
高倉健『望郷子守唄』と併映のこの作品はヒットし、10月に第2作『銀蝶流れ者 牝猫博奕』が公開されました。
4月の『銀蝶渡り鳥』のヒットに続き、8月、梶主演の伊藤俊也監督デビュー作『女囚701号 さそり』が公開されます。
小学館『ビックコミック』連載、篠原とおるの人気作「さそり」が原作のこの映画は、梶の身体を張った演技で大ヒットしました。『女囚さそり』はシリーズ化され、梶はポスト藤純子の本命に躍り出ます。
また、梶が歌う主題歌『怨み節』は、第2弾『女囚さそり 第41雑居房』の公開に合わせて 12月に宣伝部によってテイチクからレコード化され映画ともども大ヒットしました。
しかし、翌1973年7月第3弾『女囚さそり けもの部屋』でこれまでの作品作りに不満を述べた梶は、第4弾『女囚さそり 701号怨み節』で監督の交代を要求します。
12月公開の長谷部安春監督の第4弾も大ヒットしましたが、岡田の方針に反発した梶はやがて東映を去りました。
⑮ 実録路線へのプロローグ
東映のゼネラルプロデューサーになった岡田は、およそ10年に渡り東映を支えて来た任俠映画の限界を感じ、実話を元にしたよりリアルで過激な実録やくざ映画への方針転換を考え始めました。
1972年5月、東撮で深作欣二が監督した、『現代やくざ』シリーズ6作目の『現代やくざ 人斬り与太』が公開されます。
野良犬文太が吠える暴力映画は、高い評価を得ました。
9月、ストックしていた東撮の安藤昇主演実録風任俠映画、佐藤純彌監督による『やくざと抗争』を公開したところ、多くのファンが集まり話題となります。
10月、続けて東撮にて深作、菅原コンビで作られた『人斬り与太 狂犬三兄弟』が公開され、この映画も好評を博しました。
『人斬り与太』で深作欣二監督によって描かれた生の暴力は、翌年の京撮『仁義なき戦い』へのプロローグとなります。
俊藤はこの年6月に、テレビで人気の笹沢佐保原作時代劇『木枯し紋次郎』を京撮にて菅原主演・中島監督で製作しました。
1972年、俊藤の関係した映画は26作公開されますが、藤純子の引退を契機に任俠映画は急速に観客が減り、岡田は実録映画へ望みを託します。
梶芽衣子への岡田の言葉
「傑作や名作はオレたちが作るんじゃない。お客さんが作るんだ。映画は多くのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ。」
次回、2.岡田茂と俊藤浩滋:実録映画とその後の実録任侠映画に続きます。
トップ写真:1968年『荒野の渡世人』オーストラリアロケ出発風景 左から高倉健・坪井与・俊藤浩滋・藤純子