95. 第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第2節「五島昇と大川博そして岡田茂」
社長に就任した岡田茂は、10月の株主総会にて新取締役に片山清、渡邊亮徳(よしのり)、高岩淡、石田人士の4名を任命します。高岩は、映画製作及び労務部門において岡田の右腕を務め、後に社長、会長となり、渡邊は、テレビ及びビデオ部門を牽引しました。
そして、新たに相談役として、東京急行電鉄(東急)社長五島昇と野村證券会長瀬川美能留を迎えます。五島は、1964年に取締役を辞任して以来、7年ぶりの就任でした。
1940年に東京帝国大学経済学部を卒業した五島昇は、1947年同学部卒である岡田茂の7年先輩にあたりました。大学時代は野球部からゴルフ部と運動部で鳴らし、その縁で東芝に入社します。
1943年に後継を嘱望されていた弟進が戦死したことで父五島慶太の後を継ぐべく1945年に東急に転職しました。1952年には取締役、翌1953年副社長、そして1954年5月に38歳の若さで社長に就任します。
若くして社長に就任したことに対し周囲が不安を持つ中、10月、財界の中枢である石坂泰三(東芝社長、後に経団連会長)、小林中(日本開発銀行初代総裁)、水野成夫(産経新聞社長)を相談役として五島の後盾に迎えることで懸念を一掃しました。
その後五島は、1956年東急観光(現東武トップツアーズ)、1959年東急建設、1960年銀座東急ホテル、1961年東急エージェンシー、1964年日本国内航空(後日本エアシステム・現日本航空)1967年東急百貨店、1968年東急ホテルチェーンなどを設立し、次々と事業を拡大して行きます。
1942年、五島慶太にスカウトされ、鉄道省から東急に入社した大川博は、1944年に合併を渋る京王を、五島の代理人として説き伏せて東急グループに参入させ、その手腕を発揮しました。
戦後1948年には、公職追放中の五島の意を受け、今度は京王、小田急、京浜急行、相模鉄道、江ノ電などをそれぞれ元の電鉄に分離独立させることに成功、その功績もあって東急の専務に就任します。
1951年、大川は、五島から多大な負債を抱え倒産寸前だった東映の社長を任され、その立て直しに奔走し、ひとまず経営危機を脱した1953年には五島昇と共に東急の副社長に昇任しました。
1954年2月、大川は東急フライヤーズの球団経営を引き継ぎ球団オーナーになり、5月、五島昇が東急社長に就任します。
この年から大川東映の快進撃が始まり、1956年から興行成績第一位の映画会社になりました。また大川はその年、東映動画を設立、1957年には設立した日本教育テレビ(現テレビ朝日)の会長に就任します。
1959年3月には日本色彩映画(現東映ラボテック)を買収、現像業に乗り出し、この月、雑誌『財界』の経営者賞を受賞、経営者として高い評価を得ました。8月には前年傘下に収めた広告代理店旺映社の商号を東映商事(現東映エージエンシ-・東映CM)に改め、社長に就任しました。
1960年、湯沢観光ホテルをM&Aしホテル業に進出、1961年には東映不動産を設立します。
このように、東急の副社長としてライバル関係にあった五島昇と大川博は、五島の社長就任後は東急と東映の社長として、互いに事業を拡大、切磋琢磨しました。
1959年8月の五島慶太逝去後も大川博は東急の副社長として、五島昇は東映の取締役として支えあいましたが、5年後の1964年9月末、東映は東急グループから離脱します。
そして、9月末の総会をもって東映の役員からこれまで苦楽を共にした東急出身の3名の常務と五島を含む2名の取締役が退任しました。
離脱に先立って五島に呼び出された岡田は、東急への移籍を打診されました。
東映取締役を辞した後、五島は京都撮影所(京撮)幹部たちに別れを告げに京都を訪れ、祇園の一力で皆が涙涙の大お別れ会が開かれました。
このように大学の後輩でもある岡田は、社長に就任するとすぐに五島に後盾をお願いしたのです。
東急社長に就任して17年目を迎えた五島は、経済界でも一目置かれる存在になっており、その指導の下、岡田は東映の経営ばかりでなく、財界でのネットワークも徐々に固めていきました。
トップ写真:瀬川美能留相談役(左)五島昇相談役(右)
閑話休題:電鉄と撮影所
東宝が阪急電鉄小林一三によって設立されたように、東映も東急電鉄五島慶太によって設立されました。このように、日本の映画業界は電鉄業界と深い関係の中で発達して来たと言えます。
第1章⑤⑥で電鉄の支援の下で作られた撮影所について少し触れました。ここで、電鉄と提携して誕生した撮影所を改めて紹介いたします。
電鉄と提携して誕生した撮影所
〇 大阪電気鉄道(現・近鉄):奈良・あやめ池遊園地
1927年 市川右太衛門プロダクション → 1936年全勝キネマ
市川右太衛門プロあやめ池撮影所
1927年2月にマキノ・プロダクション御室撮影所から独立した市川右太衛門は、4月、笹川良一の斡旋を受け、前年に大阪電気軌道(大軌)が作ったあやめ池遊園地内に撮影所を設立します。はじめは笹川が所長を務めていましたが、1年余りで右太衛門の義兄山口天竜が所長に就任しました。
代表作
全勝キネマ撮影所
1936年初に右太衛門プロが、京都双ヶ丘の改修された松竹京都第二撮影所に移ったことにより、5月、山口が全勝キネマを設立し、あやめ池撮影所を引き継ぎます。
子供向けに無声映画を量産した全勝キネマは、1941年に松竹が設立した興亜映画に合併吸収され、撮影所は閉鎖されました。
代表作
〇 京阪電気鉄道:大阪・枚方公園
1929年 國精映画協会(栗島狭衣・くりしま さごろも)
松竹蒲田の人気女優栗島すみ子の養父、朝日新聞の記者だった栗島狭衣は、記者時代に文士劇団を結成し、退社後は演劇俳優として一座を率い、映画出演や映画脚本執筆などでも活躍していました。
他電鉄会社の映画撮影所との連携をみた京阪電鉄は國精映画協会を設立した栗島と提携し、枚方に撮影所を建設することを模索します。
1928年11月、『キネマ旬報』にその記事が掲載されました。
実際に枚方楽園(現・ひらパー)で映画が撮影されたかどうかは不明です。
この頃、京阪電鉄より牧野省三に、マキノ御室撮影所を、枚方市の牧野の京阪が所有する土地に京阪が撮影所を建設して移す話が持ち込まれ、ほぼ決定していましたが、五私鉄疑獄に連座して、話を進めていた京阪の社長以下役員が総退陣したために流れた、とマキノ雅弘の著作『カツドウ屋一代』に書かれています。
枚方市の牧野に、京阪電鉄がスポンサーになってマキノ撮影所が移っていたら、日本映画の歴史も少し変わっていたかもしれませんね。当時の京阪電鉄は現在の阪急京都線も所有しており、阪急よりも大きい関西有数の鉄道会社でした。
栗島狭衣が撮影を行ったかもしれない枚方楽園の菊人形館では、戦後の1952年、児井プロダクション・新東宝製作、溝口健二監督の名作『西鶴一代女』が撮影されています。
ちなみに、枚方市牧野では1934年3月に、亜細亜映画社が設立され撮影所が誕生します。そこで、市川右太衛門プロダクションで監督として活躍した白井戦太郎が『斗ふ荒神山』を監督、松方弘樹、目黒祐樹の父近衛十四郎を抜擢して主演デビューさせました。残念ながら亜細亜映画社は2、3作品製作の後、解散します。
残ったスタッフは、その年6月に第一映画社という新映画会社を立ち上げ、白井監督で『天保からくり秘帖』を製作しますが、それもまもなく資金難で解散、撮影所も閉鎖しました。
〇 京成電気軌道(現・京成電鉄::千葉・谷津遊園
1931年 阪東妻三郎プロダクション
阪妻プロ谷津遊園撮影所
松竹の支援の下、1926年に太秦に撮影所を構え、ユニヴァーサル映画と提携するなどで話題となった阪東妻三郎プロダクションでしたが、1930年あたりからヒット作に恵まれず、1927年に松竹下加茂撮影所から人気スター林長二郎(長谷川一夫)が登場したこともあり、松竹と次第に溝が生まれます。
1931年に松竹と袂を分かった阪妻は、大日本自由映画プロダクションを立ち上げ、京成電気軌道(現・京成電鉄)の支援を受けて千葉の谷津遊園に撮影所を設立しました。
パラマウント社の支援を得て阪妻主演東隆史監督『洛陽餓ゆ』を製作しますが、この作品は失敗に終わります。
その後、新たに誕生した松竹子会社新興キネマと提携し、自らが監督を務めるなど苦しい経営の中で作品作りを続けましたが、1935年、撮影所は閉鎖してプロダクションを解散、大きな負債は新興キネマが肩代わりしました。
代表作
〇 武蔵野電車(現・西武鉄道):東京・豊島園
1932年 不二映画 → 1934年 富士フィルム→1941年日本映画社
不二映画社撮影所
1931年、松竹蒲田の人気スター鈴木傳明、高田稔、岡田時彦、渡辺篤などが独立して不二映画社を設立しました。
翌年、武蔵野電鉄が応援し、現在の豊島園の場所に撮影所を新設。鈴木、高田、岡田の主演映画を製作しましたが、無声映画だったこともあり人気が出ず、その年に解散します。
代表作
富士フィルム撮影所
その後、1934年に富士フィルムが現像所、工場用に購入し、撮影所はレンタルスタジオとして活用されました。そこで1934年の大ヒット作、入江たか子ぷろだくしょん『月よりの使者』などが撮影されます。
代表作
1941年、撮影所は、国策映画会社として新たに作られた日本映画社に引き継がれました。
〇 京王電気軌道(現・京王電鉄):東京・調布多摩川
1933年 日本映画 → 1934年 日活多摩川 → 1942年 大映東京第二 → 1945年 大映東京 → 1977年 大映 → 1983年 大映スタジオ → 2002年 角川大映 → 2013年 角川大映スタジオ
日活多摩川撮影所
1932年に解散した、京都の等持院撮影所を運営していた東活映画社の社長で政治家の中山貞雄は、翌1933年1月、京王電気軌道から京王多摩川原駅前の一等地を無償で提供を受け、日本映画株式会社を設立、撮影所を建設し2本の映画を製作しました。
しかし、すぐに経営破綻し解散。その後、志波西果監督設立の朝日映画聯盟がそこを使って月形龍之介を主演に映画を製作しましたが、撮影所は、1934年1月、日活に譲渡されます。
日活は、向島撮影所が震災で崩壊し、現代劇も京都の撮影所で製作されていましたが、時代劇部と同居で手狭なこと、京都では現代劇の撮影が困難なこともあり、現代劇部を多摩川に引越しさせました。
代表作
大映東京第二撮影所
1942年、戦時統合で大日本映画製作株式会社(大映)が設立され、日活の製作部門、新興キネマと大都映画は吸収合併されたことにより、日活多摩川撮影所は大映東京第二撮影所となりました。
戦後は、大映東京撮影所と名称が変わり、大映が倒産後も経営会社が変わりながらも大映の名は残っています。
代表作
1957年、五島慶太の四天王の一人で、大川博のライバルでもあった京王帝都電鉄社長三宮四郎、大映専務曽我正史、千土地興行(後日本ドリーム観光)社長松尾國三の三人は、共同して新たな映画製作会社日映を設立しようと計画します。しかし、発表直前に五島慶太、永田雅一の耳に入り、両者からの強い反対で計画は頓挫しました。
〇 武蔵野電車(現・西武鉄道):東京・練馬大泉学園
1935年 新興キネマ大泉 → 1942年大映東京第一 → 1947年太泉スタジオ(太泉映画)→ 1951年 東映東京
新興キネマ大泉撮影所
松竹の子会社新興キネマは、京都太秦の撮影所で時代劇、現代劇の撮影をしていましたが、現代劇の需要が高まる中で東京での撮影所を検討していた際、武蔵野電車の支援を受け、1935年、大泉学園に撮影所を新設、現代劇部を移行しました。
代表作
1942年、戦時統合で大映が設立され、新興キネマ大泉撮影所は大映東京第一撮影所となりましたが、戦争激化により軍需工場に売られ、終戦と同時に閉鎖されました。
太泉スタジオ
戦後、1947年10月東宝、日活、東横映画、東急電鉄、、そして吉本株式会社が発起人となり、株式会社太泉スタジオを設立、レンタルスタジオとして撮影所を再開しました。
代表作
1951年4月、太泉映画は合併して東映株式会社が誕生。東映東京撮影所となりました。
〇 阪神急行電鉄(現・阪急電鉄):兵庫・宝塚
1938年 第一映画 → 1940年 宝塚映画 → 1948年C.A.C → 1951年 宝塚映画製作所 → 1983年宝塚映像
宝塚映画撮影所
1930年、電力会社東京電燈の副社長も兼ねていた、阪急電鉄創業者小林一三に、大同電力社長増田次郎を介してアメリカで人気の早川雪洲のスタジオを沿線にという話がもちこまれ、地元の有力者と協力して立ち上げた宝塚ホテルを中心に、宝塚映画株式会社を作りました。この話は頓挫しますが、小林はここから映画界進出を目指し、PCLやJOスタジオを吸収し、1937年、東宝映画を設立しました。
そして、1938年8月、宝塚歌劇スターの映画作りを目指し、宝塚運動場(宝塚球場)跡地に、歌劇団の付帯事業として第一映画撮影所を作ります。1940年に宝塚映画撮影所と改称しますが、翌1941年戦争により閉鎖しました。
シネマ・アーチスト・コーポレーション(CAC)
戦後、1948年5月、映画監督のマキノ正博が、宝塚映画撮影所内に映画製作会社シネマ・アーチスト・コーポレーション(Cinema Artist Corporation, CAC)を設立します。社長にはマキノの姉婿の高村正次が就任。設立第1作は、長谷川一夫の新演伎座との共同製作で、マキノ監督長谷川主演の『幽霊暁に死す』でした。しかし、CACは全9作を製作して解散します。
代表作
その後、1951年に阪急電鉄が全額出資して宝塚映画製作所を設立、撮影所を改修し映画製作を再開します。
宝塚映画製作所 代表作
1953年に撮影所が全焼しますが、1956年に最新設備の撮影所がオープンし、そこで東宝配給の数多くの作品が製作されました。
このように電鉄各社は、事業発展の過程における沿線開発の一環として遊園地事業と映画撮影所誘致を同時に進めていったのでした。