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Obbligato:社内報に見る「東映の支柱」②
「馬かたさん」(社内報「とうえい」1959年10月号)
今回は、東映行進曲の連載を一休みして、昔の東映社内報記事「東映の支柱・馬かたさん」を紹介いたします。
支柱の取材先は、東映時代劇映画全盛期に劇用馬を一手に引き受けていた故高岡政次郎さんの長男・高岡正昭さん。
新たに高岡さんにインタビューした記事と貴重な写真も掲載致します。
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高岡さんは御年82才。現在も「明馬会」代表として葵祭や上賀茂神社、下鴨神社の祭礼時に馬を手配し、元気に現役で活躍していらっしゃいます。
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高岡さんのお話によりますと、戦前に牧野省三の千本座で大道具や下足番として働いていた祖父の勝次郎さんはそこでお茶子(飲食物の売り子)をしていた祖母のまささんと結婚されました。
お二人の長男・久次郎さんは東映でスチールマン、次男・政次郎さんは東映で馬方、長女は女優、次女は宝プロで食堂を任されるといった映画一家でした。戦後、勝次郎さんは東横で庶務として勤め、毎日両御大が撮影を終えて入る、一番風呂を沸かしていたとのことです。そして、東映が誕生した1951年9月8日、現役のまま、73歳で逝去されました。
正昭さんの父、政次郎さんは、両親の関係から、日活の大将軍撮影所で牧野省三監督・尾上松之助主演『児雷也』にて子役デビュー、そのままマキノプロの子役となり、1927年4月公開、嵐寛寿郎主演デビュー作「鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子」にも子役で出演しています。
ちなみに、阪東妻三郎は牧野等持院のエキストラ時代、勝次郎・政次郎さん宅に下宿していました。
18才の時、マキノプロが解散し、嵐山の渡月亭で板前をしていましたが、嵐寛寿郎プロに鞍馬天狗が乗る馬の調達、世話係として映画界復帰します。寛プロ解散後、他のスタッフとともに新興キネマに移り、戦後、東横が誕生した時には、特機(特殊機械・撮影効果)と呼ばれるカメラ用レールを引いたり、雨降らしや風を吹かせたりする仕事についていました。
1952年、松田定次監督・市川右太衛門主演『流賊黒馬隊』信州ロケの際、政次郎さんは、牧野以来の付き合いの松田監督から言われて馬の調達、世話、調教を行い、監督のアドバイスもあってそこで良い馬を購入して日通のトラックに積んで京都の撮影所に持ち帰り、現在の俳優会館の北側のJRの線路沿いに厩舎を設けて馬たちの世話を始めます。その後、東映時代劇ブームが起こり、劇用馬の需要も大きくなり、必要に応じて世話する馬の数もみるみる増え、手狭になっていきます。
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1956年、日本映画界で配給収入日本一となった東映は、撮影所の北、府営住宅のそばに1700平方メートルの土地を購入、専用馬場と厩舎を設営し、政次郎さんは、軍隊馬の調教で有名な堀池清六の指導の下、劇用馬の調教を行い、そこで剣会の面々のみならず、大友柳太朗や中村錦之助などの時代劇スターも乗馬練習をしました。また、美空ひばりが購入した名馬「白雪」や大友柳太朗が買った馬もそこで養育、調教していたそうです。
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幼いころから、父の指導で馬の飼育、調教、乗馬訓練を行っていた高岡正昭さんは、主に中村錦之助、東千代之介、美空ひばりなど若手スターの馬を担当し、また、優れた乗馬技術で、乗馬シーンのスタンドイン(俳優の吹替え、代役)を務め、河野寿一監督『風雲児 織田信長』、伊藤大輔監督の名作『反逆児』などで主演・中村錦之助のスタンドインとして名シーンを生み出しました。
そして、父・政次郎さんが片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介などの馬を担当し、東映時代劇を親子で盛り上げたのでした。
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正昭さんは中村錦之助にかわいがられ、錦之助が結成した草野球チームに入って試合に出場したり、錦之助と公私にわたるつきあいになりました。
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また、1957年10月、ジョン・ウェインがジョン・ヒューストン監督『黒船』の撮影のため来日、伊豆でロケーションが始まると、そこに高岡正昭さんが呼ばれ、馬の手配、世話、俳優の乗馬訓練と介助、スタンドイン、そして自らも乗馬アクションと活躍し、その技量がジョン・ウェインに認められハリウッドへも誘われます。
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1960年、東映は第二東映を設立したことで撮影本数が増加し、テレビ時代劇撮影を京都から東京に移しました。以来、1964年、東映京都テレビプロが誕生するまで、京都ではテレビ時代劇は撮影されませんでした。
しかし、第二東映、ニュー東映による映画本数拡大施策は、テレビによる映画斜陽もあり失敗、時代劇映画は急激に本数を減らし、全盛期を支えてきた時代劇スタッフの仕事が急減します。
そのような状況にあった1962年、東映時代劇映画全盛時代の撮影馬を一手に引き受けていた政次郎さんは、お世話になった牧野省三の子供、マキノ雅弘や松田定次に時代劇を監督してもらうため、乗馬場にテレビ制作プロダクション「東伸テレビ株式会社」を立ち上げました。
萩原遼監督・伊藤敏孝(後の林真一郎)主演『織田信長』や松村昌治監督・月形龍之介主演『それからの武蔵』など、東映京都撮影所が当時作っていなかったテレビ時代劇を、東映時代劇映画黄金期を支えた人々で製作します。
乗馬場の事務所二階に稽古場を設け、俳優の育成にも取り組み、太秦天神川添いの宝プロ撮影所(現在はスーパーライフ駐車場)を使って撮影しました。
1964年には、政次郎さん念願の、松田定次監督・月形龍之介主演、TBSブラザー劇場『水戸黄門』(後にC.A.L.が東映京都撮影所・太秦映像の協力でナショナル劇場として製作し一世を風靡する)、翌年、マキノ雅弘監督・依田義賢脚本・中野誠也主演MBS『竜馬がゆく』を制作します。
東伸テレビの作品には、後に東京に転勤して『仮面ライダー』など子供番組のプロデューサーとなった松田定次の弟子・平山亨(八手三郎)や東映京都の映画を支えた中島貞夫(守口等介)も脚本に参加しました。
しかし、大物俳優やスタッフで制作したテレビ時代劇が好評を博していた東伸テレビでしたが、1965年、制作経費の赤字もあり、不渡りを出して倒産します。
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倒産後もその場所でしばらくは乗馬場の運営と劇用馬の派遣の仕事は続けていましたが、1969年、乗馬場の土地は東映不動産の常盤団地として開発され、住宅が立ち並び、スターや俳優たちが練習した乗馬場の面影は全く消えました。
その際、政次郎さんは亀岡に土地を借りて馬の施設を移転、時代劇の減少で少なくなった劇用馬派遣事業から、葵祭や時代祭など、お祭りやイベントへの馬の派遣に徐々に変えて行き、その後、滋賀県の高島町へ拠点を移し、2000年1月6日に波乱に富んだ人生を終えました。
一方、正昭さんは、1966年、錦之助が東映を離れ、1968年に中村プロダクションを設立した時に誘われて鵠沼の錦之助宅に移り、およそ5年間にわたり錦之助と独立プロの苦労を共にした後、京都に戻り、これまでと全く異なるサラリーマン生活に入るのでした。
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政次郎さんは、東映時代劇が映画界を席巻した1950年代後半の東映時代劇劇用馬を一手に引き受けるだけでなく、松竹や大映などにも馬や乗り手を派遣していました。
正昭さんも、1968年、山内鉄也監督・中村錦之助主演『祇園祭』で、製作進行として働き、すべての馬を調達、1969年から始まった松竹テレビ時代劇、松本幸四郎(初代白鸚)主演『鬼平犯科帳』の馬も高岡さんの仕事でした。
高岡政次郎・正昭さん親子は、劇用馬の親方として太秦時代劇の黄金期を支えたのでした。
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来週も続けて「東映の支柱」です。