78. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第13節「子供向け特撮キャラクター作品プロデューサー・平山亨 前篇」
① 子供向け東映特撮キャラクタープロデューサー・平山亨の京撮助監督時代
東大文学部美学美術史学科を卒業した平山亨は、1954年4月、定期採用第3期として東映に入社、後に東映社長、会長に就任する高岩淡らとともに京都撮影所(京撮)にむかい、製作部の助監督、高岩は進行に配属されます。東山にあった寮に入り、早速、娯楽版『新諸国物語 笛吹童子』の助監督見習いとして東映人生をスタートしました。
『里見八犬伝』など娯楽版を手始めに時代劇の助監督経験を積んでいった平山は、市川右太衛門主演『影法師一番手柄 妖異忠臣蔵』で京撮のトップ監督・松田定次に就きます。
そして、1955年には松田の指名を受け右太衛門主演『風雲将棋谷』にて正式にフォース助監督として松田組に入り、以降、松田の薫陶を受けました。
松田の愛弟子のチーフ助監督松村昌治にかわいがられ、その推薦もあって、その年の暮れに撮影に入った創立5周年記念オールスター大作右太衛門主演『赤穂浪士』からサード助監督に上がりました。
松田組ばかりでなく、内田吐夢監督片岡千恵蔵主演『逆襲獄門砦』等、様々な監督の時代劇に参加して経験を積み、1957年春、マキノ雅弘監督大友柳太郎主演『仇討崇禅寺馬場』からセカンド助監督に昇進します。
1959年松田監督大川橋蔵主演『新吾十番勝負』でチーフ助監督に任命され、以降4年間にわたり務めました。
そして、チーフ助監督を続けながら、1963年10月公開里見浩太郎主演『銭形平次捕物控』にて監督デビューします。
翌1964年2月公開、近衛十四郎主演『三匹の浪人』を監督しましたが、第3作渡辺文雄主演『壁の中の野郎ども』は未公開に終わりました。
京撮最後の作品は松田組にチーフ助監督で付いた1965年2月公開の大川橋蔵主演の仁侠映画『バラケツ勝負』でした。
平山は、監督デビューする前、松田定次監督大川橋蔵主演『新吾二十番勝負 完結篇』にて松村昌治とともに脚本を書きます。
テレビの普及で映画人気が急激に落ち込み映画製作本数は激減、暇になった平山は、京撮で劇用馬を手掛ける高岡政次郎が東映馬場に設立した東伸テレビにて、八手三郎(やつでさぶろう)というペンネームでMBS系月形龍之介主演『それからの武蔵』(1964/03/23~1965/04/12)、TBS系ブラザー劇場月形龍之介主演『水戸黄門』(1964/11/02~1965/12/27)などのテレビ映画脚本を執筆しました。前者は松村昌治が監督、後者には松村とともに松田も監督を務めています。松田の監督作品には平山がチーフ助監督を担当しました。
こうして、見習いから始めた11年間の京撮時代に平山亨は130本を越える時代劇映画に休む暇もなく取り組みました。その間、脚本作りから監督まで、娯楽版から大作、そしてテレビ映画まで経験し、娯楽作品の作劇手法を徹底的に学びました。
1965年12月6日、平山は東京本社に異動、テレビ部企画者補佐の辞令を受けます。テレビ部は7階の映画部の隅にあり、部長は斎藤亮男、次長は営業の渡辺亮徳でした。佐久間良子や三田佳子、大川橋蔵などが主演する大人向けテレビ映画はすでに先輩プロデューサーたちが担当しており、平山は引き受け手がなかった子供向け作品の企画担当になります。
② 子供向けキャラクターテレビ映画初企画NET系『悪魔くん』
1966年7月に企画者に昇進した平山は、なかなか企画が決まらず、東映同期でNETに出向し、番組プロデューサーとして東映動画のアニメ番組『狼少年ケン』や『少年忍者・風のフジ丸』で活躍する宮崎慎一を訪ねます。
平山は宮崎に、目をつけていた貸本マンガ水木しげる作『悪魔くん』を提案しましたが、毒のある主人公は面白いけれどテレビ向きでないと色よい返事をもらえませんでした。この話を渡辺に紹介された講談社の内田勝『週刊少年マガジン』編集長にしたところ、実は子供向けに正義感の強い少年に書き直したものを少年マガジンに連載する予定であることを教えられ試し刷りを見せられます。これを預かって再度NETに話をしたところ、宮崎の協力も得て、同じく東映からNET出向の斉藤安代企画部長が即座に製作を決定しました。
作者の水木しげるも初のテレビ作品として全面協力し、改めてテレビ用オリジナルストーリーやキャラクターを平山と一緒に考えます。
一話完結の毎回違う妖怪が登場する『悪魔くん』(1966/10/06~1967/3/30)は、前年に誕生した東映東京制作所で制作し、NET系木曜夜7時からの30分枠で放送を開始します。
途中、メフィスト役の吉田義夫が体調を崩し、潮健児がその弟役で出演するなどのアクシデントもありましたが、子供たちの大人気を得ました。百目妖怪ガンマーやペロリゴンなどの妖怪は東映版怪獣であり、特撮は京撮時代『海賊八幡船』で知り合った矢島信男が担当しています。
ただし、平山の初企画作品は当初の制作予算を大幅にオーバー、大赤字となり2クールで終わります。
③ TBS系ウルトラ枠『キャプテンウルトラ』担当
TBS系日曜19時の30分枠は宣広社『月光仮面』から始まり、円谷プロ『ウルトラQ』(1966/1/2~7/3)『ウルトラマン』(1966/7/17~1967/4/9)と続く特撮人気の枠で、スポンサー名からタケダアワーと呼ばれていました。
円谷プロではこの枠の『ウルトラマン』後作品の制作が間に合わないこともあり、東映が念願のこの枠での企画を受けることになります。これは東撮からテレビ企画者に異動した東映労働組合委員長植田泰治が組合のつながりから獲得したものでした。
そこで、監督の佐藤肇を中心に、植田泰治、平山も協力し、エドモント・ハミルトン原作のSF小説『キャプテン・フューチャー』をベースにしたスペースオペラの企画を作ります。
基本ストーリーをSF作家の都築道夫と光瀬龍が監修し、音楽は冨田勲という東映テレビ部初カラー作品である本格SFテレビ映画は、TBSの意向もあり『キャプテンウルトラ』(1967/04/16~1967/09/24)というタイトルに決まり、3台のロケットが合体するシュピーゲル号などの特撮は矢島信男が担当しました。
視聴率は初回31.7%と高視聴率でしたが、全番組の『ウルトラマン』の最終回が37.8%であり、第2回の32.2%をピークに第1クールは20%半ばで推移したことで、関係者からは失敗とみなされました。第2クールではテコ入れもしてアカネ隊員(城野ゆき)の人気や数々の怪獣の登場もありましたが、結局平均視聴率は25.6%で、円谷プロ『ウルトラセブン』にバトンタッチします。
しかし、『キャプテンウルトラ』で生まれたTBSとの関係は、東映東京制作所のプロデューサー近藤照男が引き継ぎ、土曜の夜9時1時間枠での『キイハンター』へつながっていきます。
次回は平山の京都撮影所凱旋企画『仮面の忍者 赤影』から始めます。