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168.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第33節「岡田茂の不良性感度重視の映画作り まとめ 前編」
はじめに
第5章では東映ゼネラルプロデューサー岡田茂が目指した不良性感度を重視した映画作りとその作品について書いて参りました。
今節では岡田茂が進めた東映映画の歴史をまとめてお話いたします。
1. 東京撮影所(東撮)所長時代「任俠映画」の成功
1961年9月に京都撮影所長から東京撮影所長へ異動した岡田は、前任所長の坪井與が進めた深作欣二、石井輝男など若手監督を起用したギャング映画を継承、ヒットに導き、東撮を勢いづけました。
その後、日活の石原裕次郎主演『花と竜』(舛田利雄監督)の大ヒットを見た岡田は、東撮にて尾崎士郎作『人生劇場 残俠篇』に登場する侠客飛車角を主役にした任俠映画『人生劇場 飛車角』(沢島忠監督)を製作、鶴田浩二主演で大ヒットさせます。
シリーズ化も成功した岡田は任侠映画路線の手ごたえをつかみました。
2. 京都撮影所(京撮)所長時代 俊藤浩滋「任俠映画」路線確立
1964年2月、京撮所長に戻った岡田は、俊藤浩滋をプロデューサーに起用し本格的に任俠映画製作に乗り出します。
7月、鶴田浩二主演『博徒』(小沢茂弘監督)、8月、高倉健主演『日本侠客伝』(マキノ雅弘監督)と続けて大ヒット、シリーズ化も成功しました。
俊藤は、京撮での鶴田映画では橋本慶一P、高倉映画には日下部五朗P、東撮での高倉映画では吉田達Pとコンビを組み、京撮、東撮で任俠映画を量産します。
俊藤の任俠映画は次々と大ヒットし、続けて藤純子や若山富三郎など人気スターを輩出。鶴田、高倉、若山、藤に菅原文太と今を時めく人気スターが俊藤の下に集まりました。
1960年代後半から1970年代前半、東撮、京撮にて岡田と二人三脚で任俠映画を多数製作した俊藤は、日本映画界でおよそ10年にわたる東映独走に貢献します。
3. 時代劇映画路線廃止、「勧善懲悪」時代劇はテレビへ
岡田の京撮異動と同時に誕生した東映京都テレビ・プロダクション(京都テレビプロ・田口直也所長)がテレビ時代劇の制作を開始すると、岡田は時代劇映画のベテラン監督及びスタッフを次々と配置転換させました。
翌年、伊藤大輔監督主演『徳川家康』(年度9位)が予算に達せず、田坂具隆監督『冷飯とおさんとちゃん』が苦戦、これまで大ヒットしてきた内田吐夢監督「宮本武蔵シリーズ」第5作『宮本武蔵 巌流島の決斗』が低調に終わります。
この結果を見た岡田は本格時代劇大作から撤退を決めました。
1966年、市川右太衛門と中村錦之助は東映を退社。ここに十数年にわたって東映を支えて来た時代劇が転換点を迎えます。
同じ年京都テレビプロに移った時代劇スター大川橋蔵は、フジテレビ系『銭形平次』に主演すると大人気を博し、およそ18年間888回を数える長寿番組となりました。
時代劇スター近衛十四郎も京都テレビプロ制作「素浪人シリーズ」に主演し、共演の品川隆二と共に大人気を獲得します。
京都テレビプロでは、関西テレビ製作子供向け特撮時代劇『仮面の忍者赤影』など人気シリーズも制作されました。
1970年からはNETと制作した前進座4代目中村梅之助主演『遠山の金さん捕物帳』がスタート、2007年1月の松平健主演『遠山の金さん』まで主役が7代続く人気シリーズも誕生します。
他に、京都テレビプロでは高橋英樹主演で日本テレビ系『桃太郎侍』やテレビ朝日系「三匹が斬る!シリーズ」などが制作され高視聴率を得ました。
また、1965年7月に他プロダクション制作番組請負のために設立された東映京都制作所では、1969年8月からTBS系月曜20時ナショナル劇場にて東野英治郎主演『水戸黄門』の孫請制作が始まります。
『水戸黄門』は、1976年7月に東映太秦映像(神先頌尚所長)と商号変更した後も続き、2011年12月まで主役を替えながらも足掛け42年以上にわたる国民的人気シリーズとなりました。
『水戸黄門』の「助さん」役で人気の里見浩太朗は、日本テレビ系列の制作会社ユニオン映画から太秦映像が制作受注した『松平右近事件帳』や『長七郎江戸日記』などに主演し、テレビ時代劇でも大活躍します。
京撮自体も1968年4月の関西テレビ製作『大奥』からテレビ時代劇の制作受注を始めます。『大奥』は大ヒットし、後にフジテレビが「大奥シリーズ」を製作、この作品も京撮が制作を請け負いました。
京撮は1978年、テレビ朝日系松平健主演『吉宗評判記 暴れん坊将軍』を制作します。
「暴れん坊将軍」は評判を呼び、2025年1月4日放映『新・暴れん坊将軍』(三池崇史監督)まで続く人気シリーズとなりました。
映画全盛期を支えた東映京都の「勧善懲悪」時代劇は、家族そろってお茶の間で楽しめるテレビ時代劇で再び開花しました。
4. 岡田映画本部長就任、天尾完次P「異常性愛シリーズ」過激エロス映画路線企画
健全さが要求されるテレビドラマとの差別化を図り、映画作りで不良性感度を重視した岡田茂は、俊藤浩滋を起用し東撮、京撮で任侠路線を確立します。
同時に岡田は、テレビでは難しいエロス映画路線の確立を目指しました。
東撮所長時代、岡田は佐久間良子を起用し肌の露出の少ない文芸エロス映画に挑むとともに小川真由美、緑魔子で悪女エロス映画を企画、ヒットさせます。
京撮に異動した岡田は、三田佳子や佐久間良子を京撮に呼び文芸エロス映画を企画、翁長孝雄Pで佐久間良子主演『大奥㊙物語』(中島貞夫監督)を製作し大ヒットしました。
手ごたえを得てシリーズ化しますが成績が振るわずに終わり、失敗の原因は裸が少なく直接的な刺激が足りないことと考えた岡田は、天尾完次をPに起用して東撮で高倉健主演「網走番外地シリーズ」をヒットさせた石井輝男監督を京撮に呼び、過激なエロス映画を作らせます。
1968年5月、岡田茂は映画企画本部長に就任し東映映画企画の全権を掌握しました。
ゼネラルプロデューサーとなった岡田は、自らの進める任俠映画路線とエロス映画路線の確立に邁進して行きます。
この月、ピンク映画界から谷ナオミなど多くの女優を出演させ天尾・石井のコンビが作った過激エロス映画『徳川女系図』を公開、大ヒットさせました。
天尾・石井コンビはこの後「異常性愛シリーズ」と呼ばれる過激なエログロ映画を連発します。
グロテスク性が増大したことで観客が離れ、1年余りでシリーズは終了しましたが、めげずに同時進行で天尾Pは「温泉芸者シリーズ」を製作し夏の定番となりました。
1971年、天尾は「温泉芸者シリーズ」に鈴木則文を監督に起用、英語の「ポルノグラフィ」から「ポルノ」という用語を考え、池玲子、杉本美樹をポルノ女優として売り出します。
5. 東撮吉田達P起用「不良番長シリーズ」
映画本部長の岡田は、東撮では吉田達Pを起用し梅宮辰夫主演「不良番長シリーズ」などの不良映画路線を進めます。
6. 岡田茂東映社長就任、不良性感度の高い映画路線推進
1971年8月、大川博の急逝で岡田茂が社長就任しました。
社長になった岡田は、任俠映画とポルノ映画、不良性感度の高い二つの映画路線をより過激に推進します。
この年11月、日活はロマンポルノ路線に方向転換しました。
天尾完次・鈴木則文コンビは岡田社長の期待に応え、池、杉本を主役に、お色気シーンに重きを置いた「女番長(すけばん)シリーズ」や「恐怖女子高校シリーズ」、外国人ポルノ女優を起用した過激ポルノ映画を連発しました。
7. 日下部五朗P実録映画「仁義なき戦いシリーズ」の成功
1973年1月、菅原文太主演の深作欣二監督『仁義なき戦い』が公開されました。
この映画は俊藤の下で任俠映画を担当してきたプロデューサー日下部五朗が、飯干晃一の原作をもとに脚本家の笠原和夫と実際に起こった事件の関係者への取材と調整を重ね、フィクションでありながらよりリアルなやくざの姿を描いた実録映画で、これまでの任俠映画とは全く違う迫力とリアル感が評判を呼び大ヒットします。
この作品の成功を見た岡田は、義理人情の任俠路線から仁義なき実録映画路線へと舵を切り、すぐさま『仁義なき戦い』のシリーズ化を決めました。
日下部Pによる実録映画路線は、1977年2月の松方弘樹主演『北陸代理戦争』まで続きます。
8. 天尾P東撮転進「トラック野郎シリーズ」大ヒット
1973年9月、天尾は東撮企画部長に転進します。天尾とともに鈴木も東撮に移りました。
1975年、東撮にて天尾・鈴木のコンビは菅原文太主演「トラック野郎シリーズ」を立ち上げ大成功に導きます。
9. 千葉真一空手格闘映画路線化
2本立て興行を進める岡田茂はこれまで俊藤Pの任俠映画、日下部Pの実録映画の併映作として天尾Pのポルノ映画や吉田Pなどの不良映画などを組み合わせていました。
1973年にブルース・リーのカンフー映画が世界を席巻し国内でもブームになったことから岡田は、千葉真一を主演にした空手映画を両撮で製作させます。
京撮『激突!殺人拳』(小沢茂弘監督)、東撮『激突!殺人拳』(石井輝男監督)は共にヒットし、シリーズ化。この後、千葉、そして彼が率いるジャパン・アクション・クラブ(JAC)の志穂美悦子主演による空手格闘映画を路線化しました。
10. 岡田茂社長、鈴木常承洋画配給部長、角川春樹事務所と連携
1975年、角川書店社長に就任した角川春樹は、翌1976年、角川春樹事務所を設立、映画製作に乗り出します。
角川春樹事務所は、第1弾として横溝正史原作『犬神家の一族』を出資にも応じた東宝配給で1976年10月に公開、大ヒットしました。
岡田茂と鈴木常承映画・洋画配給部長は、角川春樹と交渉し、角川製作映画第2弾松田優作主演『人間の証明』(佐藤純彌監督)の配給を東映洋画で請け負うことが決まります。
1977年10月に公開すると年度2位の大ヒットとなり、この後、角川との関係を深めて行きました。
11. 洋画系にてSFアニメ映画配給、ブーム興る
1977年、営業部長兼洋画配給部長の鈴木常承は、東急レクリエーション興行部の紹介で『宇宙戦艦ヤマト』製作者の西崎義展と出会いチェーンマスターである東レクからの依頼もあり、岡田の了解を得て東京都内の東レク4館以外での配給を担当します。
テレビ版を再編集した『宇宙戦艦ヤマト』は、8月に公開すると公開前日から劇場前に徹夜の行列が並び配給収入で9億円も上がる大ヒットを記録しました。
以後、「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」や東映動画の松本零士原作『銀河鉄道999』などの劇場版宇宙SFアニメを洋画系にて配給し、アニメブームを巻き起こします。
12. 東映大作1本立て興行スタート「日本の首領シリーズ」
東宝、松竹が大作の1本立て興行に早くから乗り出す中、国内配収1位を続ける東映岡田は「トラック野郎シリーズ」などの2本立てが好調なこともあり、これまで邦画系での1本立て興行には慎重な姿勢で臨んでいました。
1977年1月に公開した俊藤P・日下部Pによる2時間を超える大作『やくざ戦争 日本の首領〈ドン〉』(中島貞夫監督)も『毒婦お伝と首切り浅』(牧口雄二監督)との2本立てで興行した東映は、10月公開の次作『日本の首領 野望篇』(中島監督)から1本立てで興行し、大ヒット、2本立て以上の興行成績を上げます。
以降、岡田は大作の1本立て大作を製作し長期間興行へと移行する方針を固めました。
そこから外れた小規模映画館への作品供給を目的として、独立プロ製作の低予算映画などを配給する東映セントラルフィルム株式会社を設立します。
13. 元日活撮影所長・黒澤満スカウト「遊戯シリーズ」
1977年12月、社長の岡田茂はこの年4月に日活を退社した黒澤満(みつる)をスカウト、東映芸能ビデオ製作部の嘱託として雇用し東映セントラルフィルムの製作部門を任せました。
黒澤は、日活ロマンポルノを立ち上げた元日活撮影所所長であり数多くの若手人材を育成した不良性感度の高い映画人で、独立プロに頼るだけでなく、東映でも若手監督や新しいスターの育成することを目指した岡田は、黒澤にその仕事を託します。
1978年、黒澤は松田優作を主役に村川透監督で日活撮影所にて東映セントラルフィルム旗揚げ第1弾『最も危険な遊戯』を製作しました。
この作品から黒澤の東映での活躍が始まります。
14. 日下部五朗P京撮時代劇大作復活
実録映画路線が終了した日下部五朗Pは、好調な映画村も出資した久しぶりの萬屋錦之介主演時代劇大作『柳生一族の陰謀』(深作欣二監督)を企画し1978年1月に公開すると大ヒットしました。
その後1980年5月の『徳川一族の崩壊』まで時代劇大作を4作企画製作します。
台頭するテレビドラマとの差別化を図り不良性感度を重視した映画作りを目指した東映ゼネラルプロデューサー岡田茂は、
1960年代後半、俊藤浩滋Pの任俠映画、天尾完次Pのエロス映画
1970年代前半、俊藤P、天尾Pに加え、日下部五朗Pの実録映画と吉田達Pの軟派不良映画
1970年代後半、天尾Pの「トラック野郎」、黒澤満Pのアクション映画などの自社製作作品+洋画配給部長鈴木常承が進めたアニメ映画や角川映画との連携
などの映画路線を確立することで日本経済成長時代の映画界をリードしました。
トップ写真:中村錦之助、伊藤大輔監督と岡田茂京撮所長