170.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第34節「東映ビデオ事業①パッケージビジネスの拡大」
1960年代に教育映画事業から派生した8ミリ映写機販売事業に端を発し、1970年代に誕生したビデオ事業は1980年代以降大きく拡大、その後の東映を支える一大事業となりました。
今節では東映のビデオ事業についてその成り立ちから最盛期に至るまでをご紹介いたします。
1. 東映ビデオ事業の始まり
1969年10月、ソニーはカセット式ビデオプレーヤー「ソニーカラービデオプレーヤー」を発売。関係者一同に影響を与え、ビデオパッケージ時代が幕を開けました。
1970年1月にフジサンケイグループのニッポン放送がポニー、2月に日本テレビ・日本クラウン他共同出資で東映を退社の今田智憲(ちあき)が専務取締役に就任したユニオン映画など、各社が将来の家庭用ビデオの普及を見据えビデオ会社を創設します。
東映社長大川博も1970年2月に「ビデオ・パッケージ特別委員会」(坪井与委員長)を設置、6月、教材映機本部特機映像室を発展させ、東映子会社東映ビデオ㈱を設立し大川自ら社長に就任しました。
取締役営業部長には東映ビデオ設立に尽力した小林秀次を起用し、小林は部下の小黒俊雄とともに事業の拡大を目指します。
1971年の年頭挨拶で大川は、今後大きく成長が予測されるビデオ業界で先行体制を確立することを目指し東映ビデオを設立したこと、ビデオ事業の推進を語りました。
7月にはビデオ・ソフトウェアの業界団体として「日本ビデオ協会」が発足、東映ビデオは理事会社となり、大川は理事に、理事代理の小林が業務部会長として協会を牽引して行きます。
その年8月に大川が急逝、東映社長を継いだ岡田茂が東映ビデオ第2代社長に就任しました。
10月、ソニーは「Uマチック」という商標でカセット型4分の3ビデオテープによるプレーヤー及びレコーダー(VTR)を発売します。
それによってカセットビデオはホテルやバス、船舶などの業務用での使用が広がりましたが、まだ高額なことから一般家庭への普及はなかなか進みませんでした。
1972年5月、全国の販売代理店を集め、初めての販売連絡会議を開催します。
東映ビデオは、16ミリフィルム販売時代に開拓したホテルやバス、船舶などの業務用使用での販売に注力しました。ポルノ映画路線を進める岡田の下で原価のかからない東映ポルノ映画の再編集版「東映ムードビデオ劇場」を販売、業務用での商機を見出します。
1973年3月、岡田は盟友で東映を離れユニオン映画にいた今田智憲を第3代社長に起用しました。
家庭用ビデオパッケージ販売が停滞する中、東映ビデオは10月から富士フィルムと提携し家庭用8ミリフィルム「富士フィルム東映8ミリ映画劇場」の販売を開始、「お茶の間を映画館に」のキャッチフレーズで大ヒットします。
この8ミリ映画シリーズは人気を呼び、ビデオ再生機が家庭に普及する1981年まで続き、家庭で映画を見る習慣が広がりました。
1974年3月、東映ビデオは営業強化のため関西営業所を開設します。
10月、これまで東映ビデオを引っ張ってきた小林秀次で逝去、会社設立当初から小林の下で共に事業拡大を目指してきた小黒俊雄がその後を継ぎました。
1975年5月、ソニーが小型で画質の良いベータマックス方式のVTRを発売。東映ビデオは、ソニーと提携し6月に家庭用ビデオソフト『東京オリンピック ハイライト』、11月にはカラー版家庭用ビデオソフト『ピンク・フロイドの幻想』(60分)、『任侠に咲いた花 藤純子』(30分)など5作を「ホームビデオシリーズ」として販売開始します。
翌年9月には日本ビクターがVHS方式のVTRを発売し、本格的なVTRの普及が始まりました。
東映ビデオはVHS方式でも「ホームビデオシリーズ」の販売を開始します。
ようやく待ちに待ったホームビデオ時代の幕が上がりました。
ソニーのベータ方式と日本ビクターのVHS方式は互いにシェア拡大を争いながら併存し、家庭用ビデオ市場は一気に拡大します。
それとともに東映ビデオがリリースする作品数も加速度的に増加しました。
1977年6月、日本ビデオ倫理協会が誕生、業界をリードしてきた東映ビデオ小黒俊雄部長が理事長に就任します。
2. 東映芸能から東映芸能ビデオへの展開
1965年10月、東映社長大川博は、東映歌舞伎をはじめとする実演や広告出演など俳優に関する演劇活動の拡大を鑑み、自ら社長に就任し東映芸能(株)を設立しました。
1967年8月に東映歌舞伎が終了した翌年8月、東映芸能社長に今田智憲、副社長に俊藤浩滋が就任します。
11月には新宿厚生年金大ホールで鶴田浩二、高倉健、若山富三郎、梅宮辰夫、藤純子、千葉真一、里見浩太郎、菅原文太など東映任侠映画オールスターが勢ぞろいした「スターパレード 歌の祭典」を、翌年1月には東映こども劇場と称し「ゲゲゲの鬼太郎ショー」を新宿伊勢丹ホールにて開催しました。
1969年4月には今田が退任、再び大川が社長に就任し、副社長の俊藤が東映劇団を旗上げ、翌年1月には俊藤が社長となります。
1971年4月、MBSが製作し東映東京制作所が生田スタジオにて制作した『仮面ライダー』(1971/4/3~1973/2/10)が始まり、大ヒットしました。
その中でロケ撮影時にタイアップで行った「仮面ライダーショー」が評判を呼び、無料の番組宣伝キャンペーンとして拡大して行きます。
11月、東映テレビ企画営業部長の渡辺亮徳(よしのり)が東映芸能を兼務することになり専務に就任しました。
12月、渡辺は、関東支社時代の部下相原芳男を東映芸能に異動させます。
翌年1月、東映芸能は神田共立講堂にて有料にて「仮面ライダーショー」興行を開催、以降「キャラクターショー」として本格的に始動を開始しました。
渡辺から「キャラクターショー」の営業拡大を命じられ販売方法を研究した相原は、試行錯誤を繰り返しながら、ショーを制作し有料で販売する代理店制度を全国に組織します。
「キャラクターショー」は全国で人気を集め、1973年には「アルプスの少女ハイジショー」、1975年には「秘密戦隊ゴレンジャーショー」と大ヒットショーも誕生し、東映歌舞伎に代わる東映芸能の事業の柱に成長しました。
1977年8月末、東映芸能が東映ビデオを吸収合併する形で東映芸能ビデオ株式会社が誕生、岡田茂が社長に、副社長には今田と渡辺、常務に相原が就任しました。
10月、東映芸能ビデオは全国に販売代理店組織を立ち上げ、関西営業所の管轄である関西地区と中四国地区を除く地区の11社を代理店として流通網を構築します。
代理店のうち北海道、仙台、関東、北陸、広島、九州、沖縄の7販社は「東映ビデオ販売」の名称を使用しました。
1978年6月、東映ビデオ関西営業所は新たに設立された東映関西支社映像事業部ビデオ事業室に営業を移管、7月には全国の販売網を確立します。
1980年3月1日、東映にイベントなど映像関連事業を統括する映像事業部が設立されます。
これまで東映芸能ビデオで相原が担当してきたキャラクターショーなどの芸能部門が相原以下スタッフともども映像事業部芸能事業室に異動しました。
1981年11月には東映芸能ビデオ社長に今田智憲が就任します。
家庭用ホームビデオ市場はますます拡大の一途をたどり、逆にこれまで家庭用娯楽映画視聴を担ってきた家庭用8ミリフィルムの販売は終了しました。
3. セントラル・アーツ
1977年12月1日、岡田茂は、この年4月に日活を退社した黒澤満(みつる)をスカウトし、東映芸能ビデオ製作部の嘱託として雇用します。
12月10日には東映セントラルフィルム株式会社を設立、黒澤に東映セントラルフィルムの製作部門を任せました。
東映芸能ビデオは、1978年6月に部長待遇の正社員となった黒澤を通じ映画、テレビドラマ制作にも乗り出します。
11月11日、東映芸能ビデオは子会社として株式会社セントラル・アーツを設立、黒澤が取締役社長に就任しました。
黒澤率いるセントラル・アーツは、にっかつ撮影所をベースにテレビシリーズの制作から始まり、角川春樹の信頼を得て数多くの角川映画を手掛けまて行きます。
さらに東映の洋画配給部作品として『ビー・バップ・ハイスクール』や『あぶない刑事』などの人気シリーズを生み出しました。
『ビー・バップ・ハイスクール』でデビューした仲村トオルは先輩の松田優作同様にセントラル・アーツに所属し、シリーズを通じ一気に人気アイドルスターとなります。
また、1986年に日本テレビで始まった舘ひろし、柴田恭兵主演の『あぶない刑事』は映画化され、現在まで続く大ヒットシリーズとなりました。
4. 東映ビデオ
今田が社長に就任した1981年から家庭用ビデオ市場は攻勢に転じます。
1982年、ビデオソフトの売り上げが100億円を突破、翌1983年262億円と倍々ゲームで一気に拡大しました。
1983年5月、東映芸能ビデオは経営実態にあわせ東映ビデオに商号変更します。
この年12月公開された角川映画『里見八犬伝』では、公開と同時にビデオ発売を敢行し、2か月で出荷累計4万3000本、新記録を樹立しました。
ビデオソフト産業は数年後には1000億円市場になると予想され、レコード、出版、放送関連など様々な企業が参入し競争が激化します。
1984年5月、過当競争に対応するため東映は本社内にビデオ事業部を設置、ビデオ販売を東映が統括することでグループ挙げてビデオ事業に取り組む体制を組み、常務取締役テレビ事業部長の渡辺亮徳がビデオ事業部長を兼務、東映ビデオ取締役事業部長の小黒俊雄がビデオ企画部長に就任しました。
1980年代に入り登場したレンタルビデオ店は、1983年頃から急増し、無許諾の市販作品や大量にコピーした海賊版などを扱う店が増加します。
その対応に迫られた日本ビデオ協会は 1983年4月、「個人向けレンタルシステム」のガイドラインを策定実施し、翌1984年には「違法レンタル撲滅キャンペーン」を行いました。
急速に拡大するレンタルビデオ店は、開店にあたりビデオソフトを大量に購入するため、過去コンテンツを大量に有する東映は旧作をどんどんビデオ化、レンタルビデオの売り上げも急拡大します。
東映本社ビデオ事業部と東映ビデオは黄金時代を迎えました。