97. 第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第3節「岡田茂・事業整理開始」
岡田茂が社長に就任して新規事業への取り組みを開始した1972年、逆に大川時代に開発された事業の整理を始めます。
事業整理① 東京タワー交通
まずは、1972年5月、1960年設立の東京タワー交通を解散しました。
タクシー車両増加の認可を受け、増大するタクシー需要に対応するべく運用台数を増やし、1970年11月には板橋に新社屋も完成しましたが、現在のタクシー会社と同じく慢性的に運転手不足に悩まされており、2月に営業を停止、5月末日を持って解散となります。
一方、京都の東映タクシーは何とか運転手を確保し踏ん張っていましたが、8年後の1980年6月10日、洛東タクシーに譲渡し、ここに東映のタクシー事業は終わりを告げました。
事業整理② 東映フライヤーズ
1954年から東急ベースボール倶楽部より経営を委託されていた東映フライヤーズでしたが、1971年の大川博の逝去後は、大川毅がオーナーを務めました。その年は5位に終わり、翌1972年は一時2位に浮上するも結局4位でシーズンを終了します。
先代社長大川が長年にわたり愛し、1962年には日本一にも輝いた東映フライヤーズでしたが、毎年多くの赤字を抱えていたこともあり、東急社長の五島昇と東映社長の岡田が話し合い、シーズンオフに譲渡先を探しました。
初めはパイオニアと交渉を進めましたが、先方が断念したため、五島と岡田の知人である西村昭孝が経営する不動産会社日拓ホームに交渉先を変え、1973年1月16日に譲渡、球団名は日拓ホームフライヤーズになりました。
しかし、日拓はこのシーズン終了後に球団経営を放棄し、日本ハムへ売却。前期後期の2シーズン制に分かれた1974年から日本ハムファイターズとして、現在に至るまで、パシフィックリーグにて活躍しています。
次節で東映フライヤーズ後半の歴史をご紹介いたします。
事業整理③ ボウリング事業
1964年、横浜に東映ボウリングセンターをオープンして以来、東映は他の映画会社に負けじと翌年事業部長に就任する大川毅を中心に積極的にボウリング事業を展開し、東映の経営の一翼を担うまでの事業に成長しました。
1971年、中山律子ブームに沸いたボウリング人気は頂点に達し、その年8月、社長に就任した岡田も、翌1972年正月の経営方針で、更なる施設の拡充を発表します。
ただ残念ながら、大いに盛り上がったボウリング熱も、1972年から下降に転じました。
その年8月、26番目の池田東映ボウリングセンター、27番目の音更東映ボウリングセンター、9月に28番目となる会津東映ボウリングセンターを開場させるまで、岡田は積極的にボウリング事業の拡充を続けます。
しかし、5月から始まったボウリング人気の急激な下降によって、1973年2月28日、千葉東映ボウリングセンターを閉鎖するに至りました。
岡田は、7月には、経営悪化のボウリング事業を立て直すため、8月末までに経営回復の見込みのない14センターの閉鎖を発表します。
7月31日付にて、昨年新設したばかりの氷見を始め14センターを閉鎖しました。
1974年、10月31日の徳山を皮切りに、1975年1月31日に京都・名古屋・高岡・音更、2月28日土浦、4月10日釧路、8月31日福岡・池田・八代、10月21日明石、10月31日最後の会津、ここにすべての東映ボウリングセンターが閉鎖され、ボウリング事業から完全撤退します。
1972年に新設した池田、音更、会津のボウリングセンターは十分に稼働することもなく役目を終えました。
事業整理④ 東映観光サービス
(株)東映観光サービスは、前社長大川博が逝去する直前の1971年5月に設立し、死後に営業を開始しましたが、利幅も薄く、多くの大手旅行代理店が競合する業界で苦戦し、岡田は1974年5月29日をもって解散します。
大川が始めたホテル事業は、旅行需要が拡大したことや直営劇場再開発とのからみで、岡田も積極的に展開しましたが、旅行代理店業からは早々に撤退したのでした。
岡田は、大川が始めた多くの事業はそのまま継続しましたが、タクシー事業、球団経営事業、ボウリング事業、旅行代理店事業からは撤退、経営の合理化を図ります。
直営事業だったボウリング場に派遣されていた社員たちは、関連事業室やビデオなど収益が拡大する子会社などに籍を移し、その後の東映を支えて行きました。
〇 社員定期採用縮小から停止
1951年4月、東映社長に就任した大川博は、会社の信用を高め、将来を担う人材確保をめざし、社員の定期採用制度を導入。翌1952年4月には大卒23名他高卒社員が入社します。
東映の経営状況は依然危機的でしたが、明日の東映を作るためには新しい人材が必須と考えた大川の英断でした。ここから東映は毎年定期的に大卒、高卒の社員を採用し人材を確保、彼らを中心に東映映画黄金時代を築いて行きます。人材こそ企業の財産と考えた大川は、社員の合理化を進めながらも逝去する1971年まで大卒、高卒の定期採用を続けました。ちなみに、大卒採用が最も多い1960年には、大卒104名、高卒55名の計159名、合理化を進める1971年でも大卒7名、高卒22名(うち女性14名)の計29名が東映に入社しています。
新社長に就任した当初、岡田も、1972年に大卒8名、高卒19名(うち女性14名)計27名、1973年にも、大卒8名、高卒21名(うち女性15名)、計29名を採用しました。
しかし、1972年、3月の藤純子引退から東映の映画人気を牽引してきた任侠映画が下火になり、組合問題によって6月には東映テレビ・プロ、8月には東映動画が12月まで臨時休業に入りました。
また、この頃、これまで東映を支えて来たボウリング事業全体の成績が急速に悪化、経営を圧迫し始め、岡田による東映フライヤーズ譲渡など事業の合理化や東盛商事設立など新規事業の開発がはじまります。
1973年1月、『仁義なき戦い』が大ヒットでシリーズ化、映画では実録路線に光明を見出しますが、7月のボウリングセンター大規模閉鎖などの合理化に伴う費用や新規事業開発のための設備費などで東映の借入金が一気に倍増しました。
これによって、1974年度の定期採用者は大卒4名、高卒女性5名、計9名と大幅に縮小されます。
1958年1月から続いてきた社内報『とうえい』もこの1974年9月号をもって 、映画村のオープンを発表する1975年10月号まで1年間休刊。その後も、11月、12月と休刊し、1976年も1月号で映画村開業の様子を報告、2月、3月は休刊、4月号でその後の映画村の好調や1月公開『トラック野郎』、放送中のテレビアニメ『一休さん』の大ヒットを伝え、5月、6月とまたまた休刊し、ようやく1976年7月号からこれまでのように毎月発行されるようになりました。
そして、岡田は1975年から1981年まで大卒定期採用を7年間停止します。
1977年4月から第26期短大卒女性の採用を開始、1982年4月、ようやく第31期大卒9名、短大卒女性10名、計19名の入社が再開しました。
トップ写真:1972年度入社式岡田茂新社長あいさつ