
79. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第13節「子供向け特撮キャラクタープロデューサー・平山亨 中編」
④京撮子供向け特撮キャラクターテレビ時代劇『仮面の忍者赤影』参上
1966年、東映社長大川博は、大映京都撮影所が製作、4月に公開された子供向け特撮時代劇映画『大魔神』に対抗し、講談社『週刊少年マガジン』連載の人気漫画白土三平作『ワタリ』の映画化許諾を受け、『隠密剣士』の船床定男監督を起用、京都撮影所(京撮)で金子吉延主演『大忍術映画ワタリ』を製作します。7月公開にむけてこの映画を撮影するにあたり京撮は、大映特撮に負けない本格的な特撮を行うため、大川の了解を得て米国から特撮フィルム合成用ブルースクリーン・プロセスの機材を購入、東映化工や東映動画の協力のもと、倉田準二を特撮監督とする特撮班を編成しました。

『ワタリ』は大ヒットし、三洋電機をスポンサーに大阪の関西テレビでテレビ映画の企画も進みましたが、娯楽映画作りを目指す東映との方向性の違いから原作者の許諾が得られず、テレビ部次長の渡辺亮徳はプロデューサー平山亨を連れて、小学館『週刊少年サンデー』で新連載の依頼を受けたばかりの横山光輝を訪ね、直談判の末誕生したのが『仮面の忍者赤影』(1967/4/5~1968/3/27)です。

横山は、スポンサー三洋電機がカラーテレビの宣伝を主目的としていることから、依頼のあった忍者漫画の主人公を光の三原色から赤影、青影に決め、『飛騨の赤影』の少年サンデー連載を始め、テレビ放映に合わせて漫画タイトルも『仮面の忍者赤影』に変更しました。
平山はこの時TBS『キャプテンウルトラ』(1967/04/16~1967/09/24)も担当しており、東と西で特撮テレビ映画を同時に抱えることになり、京都での撮影の仕切りは東映京都テレビプロの先輩プロデューサー高田正雄が受け持ちます。

『赤影』の破天荒な脚本は、宣広社に入社して『遊星王子』で脚本家デビューした伊上勝(いがみ まさる)。伊上は、宣広社で『快傑ハリマオ』や『隠密剣士』などの人気テレビ映画の脚本をてがけ、東映では1964年の映画版『隠密剣士』を担当し、1966年には船床が監督した『ワタリ』や山内鉄也監督・自雷也役松方弘樹主演『怪竜大決戦』の脚本も書きました。

テレビプロデューサーデビュー作『悪魔くん』で伊上を起用した平山は、『赤影』の脚本全話を伊上に託し、横山に脚本を毎回見せながら了解を得て、伊上は原作にないUFOや怪獣たちなど自由に創作の輪を広げていきます。
原作にあった怪獣の千年蝦蟇(がま)は、『怪竜大決戦』で作った大蝦蟇を加工し使用、その他の怪獣たちの着ぐるみは大映の『ガメラ』や『大魔神』の造形を担当したエキス・プロダクションに発注しました。京都の美術が描いたデザインをもとに東京で作り、京都に運んでおり、スケジュールに余裕のない場合は直接車で取りに向かったとのことです。


『赤影』シリーズでは、『ワタリ』で特撮監督を務めた倉田準二がメイン監督に起用され、ワタリ役の金子吉延は青影、四貫目役牧冬吉は白影として続けて出演しました。
主役の赤影を演じた坂口祐三郎は、1960年高校卒業後第8期東映ニューフェイスとして東映に入社した涼しい目のイケメン俳優です。

青影役の金子吉延は、内田吐夢監督『宮本武蔵 巌流島の決斗』(1960年)や五社英雄監督『丹下左膳 飛燕居合斬り』(1961年)などの出演で京撮にもなじみが深く天才子役と称され、後に東京撮影所(東撮)にて平山が企画した『河童の三平 妖怪大戦争』や『どっこい大作』に主演します。
『赤影』ではコミカルな「だいじょーぶ」や「がってん、がってん、しょーち」などのセリフとポーズが人気を博しました。

白影は、宣広社『隠密剣士』伊賀忍者霧の遁兵衛(とんべえ)役で大人気を得て『ワタリ』ではワタリの父親四貫目役で金子と共演した牧冬吉が演じます。金子とはその後も東撮『河童の三平』でコンビを組みました。その他、東撮での平山作品『柔道一直線』『好き好き魔女先生』などに助演し、『変身忍者嵐』では伊賀忍者名張のタツマキとして忍者役を務めます。
『赤影』では大凧に乗って空から赤影たちを助ける空中戦が見せ場でした。


主題歌の「忍者マーチ」や劇伴音楽は、1965年第7回日本レコード大賞作曲賞を受賞した小川寛興(おがわ ひろおき)が作曲しました。
服部良一の内弟子から独立した小川は、服部の推薦で宣広社『月光仮面』の音楽を担当、川内康範作詞の主題歌『月光仮面は誰でしょう』は大ヒットしました。続けて川内康範が手がけた東映『七色仮面』の音楽を受け持った後、手塚治虫の初テレビアニメ『鉄腕アトム』の有名な主題歌を作ります。『月光仮面』『鉄腕アトム』の主題歌は、テレビ黎明期の思い出の歌として番組にたびたび取り上げられ、人々の記憶に一生残る曲となりました。
『快傑ハリマオ』『隠密剣士』など宣広社作品の音楽を支えた小川は、1966年、NHK連続テレビ小説第6作樫山文枝主演『おはなはん』の音楽も引き受け、売っ子作曲家として大活躍しました。
この年、東映では、京撮のテレビ映画『忍者ハットリくん』と映画『ワタリ』の音楽を請け負い、続けて忍者の流れで『赤影』の音楽を担当。『ワタリ』の主題歌は、出だしのメロディーが印象的で、ヤング・ショップが歌う『赤影』主題歌「忍者マーチ」はたくさんの子供たちに歌われます。
『仮面の忍者赤影』は大ヒットし、放送が終わった後も何度も再放送されて長きにわたり多くの子供たちを楽しませました。
⑤東撮『ジャイアントロボ』『河童の三平 妖怪大作戦』の成功と失敗
平山亨が主に担当した東撮『キャプテンウルトラ』は好視聴率でしたが、前作『ウルトラマン』のより高い視聴率と比較され低い評価で終わり、TBSタケダアワー枠を円谷プロ『ウルトラセブン』にバトンタッチします。
平山は赤影の打ち合わせの時、横山光輝の仕事場で見たロボットの絵に注目します。『週刊少年サンデー』で近々連載予定の作品とのことで早速横山の承諾を得てNETの宮崎慎一に話を持ち込み企画が成立、こうしてロボット特撮の名作NET系『ジャイアントロボ』(1967/10/11~1968/4/1)が誕生しました。


東京制作所で製作し、『悪魔くん』で好演した金子光伸が、ジャイアントロボを操縦する主演の草間大作少年を演じます。最終回のジャイアントロボが少年の命令を無視し、敵方BF団の首領ギロチン帝王を抱えて宇宙で自爆して地球を救うシーンは、多くの子供たちの哀しみと感動を呼びました。

矢島信男らが特撮監督を務め、人形工房が造形を担当。20倍の速度で撮影ができるハイスピードカメラを導入し、ロボや怪獣の着ぐるみを直接ワイヤーで釣り、空中を飛ばしました。曳光弾や爆発もふんだんに使い、特撮の迫力が子供たちを魅了します。
『ジャイアントロボ』は子どもたちの人気を集め大ヒットしましたが、マーチャンダイジングによるビジネスモデルがまだできていないこの時点では、受注金額では撮影経費を賄うことができず制作費の大赤字を抱えたため、NETからの継続要請を断り、2クールで終了しました。

その後、NETの宮崎より『悪魔くん』に続く妖怪物の企画のオファーを受けた平山は、水木しげるの貸本時代の名作『河童の三平』の許諾をもらい、妖怪の怨念や怖さを前面に出した企画『河童の三平 妖怪大作戦』(1968/10/10~1969/3/28)を作ります。
伊上に脚本を任せ、『仮面の忍者赤影』の金子吉延を主演河原三平に起用、三平の母を訪ねて共に旅をする相方の河童、甲羅の六兵衛は牧冬吉、カン子姫は松井八千栄が演じました。

東映テレビ・プロの制作で始めますが、第2ク-ルからは東京制作所の制作に移ります。この作品も人気が高く、視聴率も好調でしたが、受注金額では撮影経費がまかなえず赤字となり2クールで終了しました。

平山は、『河童の三平 妖怪大作戦』と同じ頃、NTV系で、当時大人気の漫才師青空はるお・あきお主役の子供向けコメディー『怪盗ラレロ』(1967/10/7~1967/3/24)も担当します。

この作品は、視聴率が上がらないまま、2クールで終わりました。
⑥京撮子供向け特撮ヒーローテレビ時代劇第2弾『妖術武芸帳』の失敗
『仮面の忍者赤影』が大ヒットした後、しばらく子供向けテレビ時代劇の無かった京撮で、久しぶりに特撮ヒーローテレビ時代劇の撮影が始まります。
平山亨は、TBSタケダアワーで放映された円谷プロ『怪奇大作戦』に続く番組として、伊上勝の脚本でロカビリー歌手佐々木功を主役に『妖術武芸帳』(1969/3/16~6/8)を企画しました。

この作品は、佐々木演じる神変抜刀流の達人鬼道誠之介と藤岡重慶の少林寺拳法と棒術の達人覚禅が、原健策演じる婆羅門の妖術師毘沙道人とその手下林邑八楽士から日本を守る戦いを描いた特撮ヒーロー時代劇で、初回は21%の視聴率でしたが、回を重ねるごとに下がって13%まで落ち、2クールの予定が9回で打ち切られます。

タケダアワー『妖術武芸帳』の後番組として、1968年にテレビ部長に昇進していた渡辺亮徳は梶原一騎を口説き落とし、『柔道一直線』(1969/06/22~1971/04/04)の権利を取得、番組作りを平山に任せ、大成功に導きました。

しかし、京撮においては『妖術武芸帳』の失敗以降、平山亨が子供向け特撮ヒーローテレビ映画をプロデュースすることはありませんでした。
次回は、特撮テレビ映画製作の赤字を埋めて利益を生み出す契機となった『仮面ライダー』の話をいたします。