100.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第5節「東映ゼネラルプロデューサー岡田茂・映画企画の歩み➁実録映画」
2.日下部五朗・吉田達(とおる)の実録映画と俊藤浩滋実録任俠映画:菅原文太と安藤昇そして松方弘樹
かつて、全盛を誇った東映京都の娯楽時代劇映画は、黒澤明の『用心棒』、『椿三十郎』、2作のリアルな迫力のあるアクション時代劇の登場によって、様式的な殺陣が嘘くさく見えたこともあり、急速に人気が低下しました。
日本映画の黎明期、歌舞伎由来の旧劇と呼ばれた映画が、リアルな殺陣を売りにした時代劇に変わって行ったように、1960年代、黒澤のよりリアルな時代劇映画の登場で、東映時代劇は映画の世界からテレビの世界に活動の場を移して行きます。
東映時代劇が苦闘する中で、当時ギャング映画路線を成功させた東映東京撮影所(東撮)所長の岡田が、東映設立の立役者で日本映画界の知恵袋と呼ばれた根岸寛一の助言に従って見出したのが、時代劇の様式性を残した任俠映画でした。
岡田は時代劇のメッカである京都撮影所(京撮)所長に異動後、俊藤という実際のやくざ世界を熟知するプロデューサーを得て、任俠映画という時代劇に代わるヒット路線を確立します。
俊藤の作る任俠映画は、他社の任俠映画と一線を画す本物のリアルな迫力と凄みを持っており、髷(まげ)の無い近代時代劇でした。
そして10年を経て、今度は任俠映画の有する様式性が飽きられ、戦後を舞台にしたより身近でリアルな実録映画が台頭してきます。
① 1973年 東映京撮実録映画『仁義なき戦い』の誕生
1973年1月、菅原文太主演の深作欣二監督『仁義なき戦い』が公開されました。
この作品は、元美能組組長美能幸三が獄中で書いた手記を基に、元新聞記者の作家飯干晃一が1972年5月から『週刊サンケイ』にて連載を始めた「広島やくざ・流血20年の記録 仁義なき戦い」を原作として、脚本家笠原和夫と、俊藤の下で任俠映画を担当してきたプロデューサー日下部五朗が、実際に起こった事件の関係者への取材と調整を重ね、フィクションでありながらよりリアルなやくざの姿を描いた本格的なやくざ映画でした。
実際に起こった話をモデルにした、現代劇のメッカ東撮出身深作監督によるアナーキーな暴力と欲望が炸裂する実録映画は、これまでの任俠映画とは全く違う迫力とリアル感が評判を呼び大ヒットします。
この作品の成功を見た岡田は、義理人情の任俠路線から仁義なき実録路線へと舵を切り、すぐさま『仁義なき戦い』のシリーズ化を決めました。
しかし、10年近くにわたり鶴田、高倉と男らしさと義理人情を追求する任俠路線を歩んできた俊藤にとっては、岡田が進める鶴田、高倉を外して人間的なリアルな姿を描く実録路線への方針転換をそのまま受け入れることができず、岡田との確執が生まれます。その結果、俊藤は続く『仁義なき戦い』2作目の企画から離れました。
② 京撮生え抜きプロデューサー日下部五朗『仁義なき戦いシリーズ』大ヒット
この後、日下部五朗が企画する『仁義なき戦い』シリーズは、4月『広島死闘篇』、9月『代理戦争』と続き、翌1974年1月笠原が最後の話として書いた『頂上作戦』が公開されます。
しかし、岡田は大入りが続くシリーズの継続を指示したことで『頂上作戦』で終わりと考えていた笠原が外れ、6月公開『完結篇』の脚本は、笠原から後を託された高田宏冶が担当しました。
岡田の思惑通り『完結篇』はこれまで以上に大ヒットします。
映画館に客が入りきらず、扉を開けたまま肩越しに立って見る光景は、全盛期の映画ブームが戻って来たようだったと言われました。
また、1973年度のキネマ旬報ベストテンでも第1作が2位、第3作『代理戦争』が8位、翌1974年度の第4作『頂上作戦』が7位に選出され、大衆からも批評家からも圧倒的な支持を得ます。
『完結篇』後も岡田の指示で、深作監督、菅原主演で『新仁義なき戦い』(1974年12月公開)、『新仁義なき戦い 組長の首』(1975年11月公開)、『新仁義なき戦い 組長最後の日』(1976年4月公開)と『新仁義なき戦いシリーズ』が3作製作されました。
これまで8作続いた『仁義なき戦いシリーズ』も、さすがに集客力が落ちてきたこと、また、実績を作った深作監督が引っ張りだこになったことなどでしばらく休止します。
そして、岡田は、1979年、日下部五朗、奈村協の企画で、5年ぶりにメガホンをとった工藤栄一監督、唐十郎主宰「状況劇場」を退団した根津甚八を主演に『その後の仁義なき戦い』を製作、5月に公開しました。
宇崎竜童、松崎しげるが共演する、これまでのシリーズとテイストが違った青春やくざ映画は、澤田幸弘監督・松田優作主演『俺達に墓はない』が併映で公開されましたが成績は今一つでした。
その後、世紀が変わった2000年に東映ビデオが企画製作した阪本順治監督・豊川悦司主演・布袋寅泰共演『新・仁義なき戦い』、そして2003年の橋本一監督・高橋克典主演『新・仁義なき戦い/謀殺』、と『仁義なき戦い』シリーズは計11作つくられ、東映の代名詞的映画シリーズとなりました。
『新仁義なき戦い』から、冒頭に「この映画はすべてフィクションであり、登場人物団体等の名称も架空のもので、実在のものとは何等関係ありません。」の文言が付くようになります。
実話に基づいていることが売りの一つでもあった『仁義なき戦い』シリーズには付けられていませんでした。
③ 東撮生え抜きプロデューサー吉田達(とおる) 安藤昇主演実録シリーズ
一方、東撮では、この1973年3月、前年に俊藤と吉田達(とおる)の企画で公開した安藤昇主演任俠映画『やくざと抗争』の続編として、リアル感を出すため実録をタイトルに入れた実録任俠映画『やくざと抗争 実録安藤組』を製作します。
前作『やくざと抗争』では波のマークが出る前に「この映画はすべてフィクションで・・・。」という文言がありましたが、この作品から『実録安藤組 襲撃篇』まで無くなりました。
この作品もヒットしましたが、この後『仁義なき戦い』同様、任俠映画を標榜する俊藤はこの映画からも離れ、吉田の企画で東撮にて安藤主演の実録映画シリーズが進んで行きました。
④ 俊藤企画の実録任俠映画大作『山口組三代目』大ヒット
実録路線への方針転換を図る岡田と鶴田・高倉の任俠路線を作って来た俊藤の確執は、五島昇の説得と高岩淡の仲介により、8月公開山下耕作監督・高倉健主演実録任俠映画『山口組三代目』の公開でひとまず和解となります。
徳間書店『アサヒ芸能』に連載中の「山口組三代目 田岡一雄自伝」を原作にしたこの作品は、『仁義なき戦い』を超える大成功をおさめました。
俊藤は、岡田からゼネラルプロデューサーの肩書を与えられ、参与に就任します。
『山口組三代目』の大成功を受け、東映は翌1974年8月に、高倉主演、小沢茂弘監督で『三代目襲名』を公開。この作品も大ヒットとなりました。
この年、東撮は、劇画家さいとうたかおが高倉健をモデルにして描いた『ゴルゴ13』を、高倉主演に佐藤純彌監督で映画化します。
俊藤が同行し、イランでオールロケしたこの映画も話題を呼びヒットしました。
1973年、岡田の路線変更によって、俊藤が関係する映画は12作と大幅に減少します。
⑤ 1974年 特攻映画大作『あゝ決戦航空隊』と空手映画ブーム
1974年、岡田が進める実録映画からは距離を置いた俊藤ですが、岡田が製作として力を入れた京撮の特攻隊映画、9月公開山下耕作監督『あゝ決戦航空隊』に総指揮として参加しました。
鶴田浩二主演で特攻に送る側の苦悩を描いた映画は、主人公のモデルとなった神風特攻隊創始者大西瀧治郎の元部下だった児玉誉士夫が協力した大作として話題を呼びます。
この作品に主演した鶴田は、この後1977年1月公開の日本版『ゴッドファーザー』を目指した映画大作『やくざ戦争 日本の首領(ドン)』まで東映映画への出演はありませんでした。
この1974年、京撮にて俊藤は、前年に東映が米国のワーナーと契約した合作映画、高倉健が助演したロバート・ミッチャム主演シドニー・ポラック監督『ザ・ヤクザ』のエグゼクティブプロデューサーを担当します。
また、俊藤は、ゼネラルプロデューサーとしてノンクレジットですが、千葉真一主演『激突!殺人拳』やヤマシタ・タダシ主演『ザ・カラテ』などの空手映画にも関わります。
一世を風靡した実録ヤクザ映画が徐々に下火になるなかで、ここから、千葉を中心とした空手映画がブームになって行きました。
1974年、参与を退任し、ゼネラルプロデューサーの肩書を降ろした俊藤は15作の東映作品に関係しました。
この年、日下部五朗は、美能幸三から聞いた実在の脱獄囚の話から、松方弘樹主演で中島貞夫監督『脱獄広島殺人囚』を企画します。
その後、松方主演で1975年6月中島監督『暴動島根刑務所』、12月山下耕作監督『強盗放火殺人囚』と脱獄シリーズとして続けて公開しました。
⑥ 1975年 実録映画の極北『仁義の墓場』
『仁義なき戦い』シリーズで盛り上がった東映実録映画に、病気で療養していた元日活の人気スター渡哲也も参加しました。
渡は、東撮にて、元やくざの藤田五郎が書いた『関東やくざ者』を原作に深作欣二が監督した『仁義の墓場』に主演します。
やくざ映画の極北にあると言われるこの映画が1975年2月公開されると大ヒット、また、キネ旬8位と高い評価を得ました。
好評を受け、翌1976年10月に今度は京撮にて、渡、深作コンビで撮影された『やくざの墓場 くちなしの花』が公開されます。この作品もヒットし、キネ旬8位に選ばれました。
⑦ 1975年 俊藤の実録映画『神戸国際ギャング』で生まれた高倉との溝
1975年、前年に東映から独立した俊藤は、京撮にて日活の田中登監督を起用した高倉健主演『神戸国際ギャング』を企画。この映画は山口組幹部菅谷政雄をモデルにした実録任俠映画で、高倉と菅原が対決する大作でした。
しかし、この映画での撮影をめぐり、義理人情に厚く不器用でストイックなイメージを追求する高倉とプロデューサー俊藤との確執が生まれます。
その上、俊藤が起用した監督の田中が京撮スタッフから総スカンとなるは、撮影中に高倉は大ケガするは、興行成績も上がらず、この映画は踏んだり蹴ったりの散々な結果に終わりました。
また、11月には実録路線で、やくざ映画ではありませんが、岡田裕介が3億円強奪犯人として出演する石井輝男監督『実録三億円事件 時効成立』も公開されました。
1975年、観客のやくざ映画離れもあり、京撮内に事務所を置き独立プロデューサーとなった俊藤が関係した作品は5作にとどまります。
⑧ 1976年、高倉健、東映から独立。国民的スターへ
1976年1月、高倉は東映との専属契約を解除しました。
2月には、大映で主演した佐藤純彌監督『君よ憤怒の河を渡れ』が公開され、以降、1977年6月、東宝・森谷司郎監督『八甲田山』、10月、松竹・山田洋次監督『幸福の黄色いハンカチ』などの名作に出演。他社で活躍した高倉は国民的スターへの道を歩み出します。
この年、俊藤がクレジットされた作品は10月公開菅原文太主演中島貞夫監督の『バカ政ホラ政トッパ政』など4作でした。
⑨ 1977年 実録風映画大作『やくざ戦争 日本の首領〈ドン〉』
『仁義なき戦い』を大成功させ、実録映画プロデューサーとして東映を支える日下部五朗は、東映実録映画人気が下降する中、飯干晃一の原作で山口三代目をイメージしたフィクション『日本の首領〈ドン〉』を企画しました。
山下耕作監督の任俠に寄った『山口組三代目』より高田宏冶脚本中島貞夫監督で実録調を強くしたこの映画は、俊藤の了解を得て、『ゴッドファーザー』を意識していた岡田茂によって『やくざ戦争 日本の首領〈ドン〉』と命名されます。
実録映画を断って来た鶴田浩二を主演に、首領役には佐分利信を迎えたこの映画は、1977年1月に2本立てで公開され大ヒットしました。
そして、この後、「球界のドン」「政界のドン」「芸能界のドン」など業界の実力者に対して「ドン」という称号が付けられるようになります。
『ゴッドファーザー』の主人公、マフィアのボス・ドンコルレオーネから、「首領」という漢字に〈ドン〉という読み仮名を付けたのは、原作の飯干晃一でした。
角川映画から始まった1本立ては、徐々に映画界の主流となり始め、『やくざ戦争 日本の首領〈ドン〉』の成功から、遅ればせながら東映も『日本の首領』の続編から大作1本立て興行に踏み切ります。
10月に佐分利信を主演に『日本の首領(ドン) 野望篇』、そして翌1978年9月、三船敏郎主演で『日本の首領(ドン) 完結篇』とそれぞれ大作として公開された両作ともヒットし、2本立て以上の興行成績を上げました。
この結果を見た岡田は、これまでのプログラムピクチャーによる2本立て興行から徐々に1本立て興行を増やして行きます。
それによって、この年、京撮作品の公開本数は昨年より5本減の14本となり、そのうち俊藤作品は4作でした。
また、俊藤は東撮にて、寺山修司を監督に起用し菅原文太主演『ボクサー』を作り10月に公開されました。
この作品は興行的には今一つでしたが、キネ旬8位に選ばれます。
⑩ 1977年 実録映画の終焉
実録路線で『やくざの墓場 くちなしの花』まで刺激の強さをエスカレートしていった東映京撮は、これまで俊藤浩滋も参加した『山口組三代目』を皮切りに、1974年4月『山口組外伝 九州進攻作戦』(山下耕作監督・菅原文太主演)、1975年5月『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』(山下耕作監督・小林旭主演)、1976年1月『実録外伝 大阪電撃作戦 』(中島貞夫監督・松方弘樹主演)、9月『沖縄やくざ戦争』(中島貞夫監督・松方弘樹主演)など実際の事件をモデルにした実録映画を製作してきました。
しかし、徐々に集客が減り、1977年2月公開の深作欣二監督・松方弘樹主演『北陸代理戦争』は、現実の事件に影響を与えてしまい、興行成績も振るわず、実録路線はこの作品にて終焉となりました。
⑪ 1978年 俊藤と高倉健、最期の映画『冬の華』
1978年6月、俊藤プロデュースの下、降旗康男監督で高倉健が主演する『冬の華』が公開されました。
これまで俊藤をはじめとする東映のオファーを断って来た高倉健でしたが、高倉の熱烈なファンである倉本聰が脚本を書き、高倉がそれを気に入ったことで実現にこぎつけることができました。
京撮で撮影されたこの作品は1本立てで公開され、キネ旬8位など社内外から高い評価を得ましたが、興行的には振るいませんでした。
以降、高倉健は東映やくざ映画に出演することはなく、この映画が俊藤浩滋との最後の作品となります。
高倉は、この後、10月、角川映画・佐藤純彌監督『野性の証明』、1980年1月、東映・森谷司郎監督『動乱』、3月、松竹・山田洋次監督『遥かなる山の呼び声』、そして1980年11月、東宝『駅 STATION』で再び倉本脚本・降旗監督とタッグを組みました。
実録映画というプログラムピクチャー路線が終了したことで、1978年度京撮作品の公開本数は7本と前年より半減、俊藤は京撮で2作、大映で1作(東映配給)の計3作を担当しました。
⑫ その後の俊藤と東映実録任俠映画
その後、俊藤は、1979年4月、菅原文太が主演し、鶴田浩二・安藤昇が助演した中島貞夫監督『総長の首』、そして、10月、『ああ決戦航空隊』で話を聞いた児玉誉士夫をモデルに『日本の黒幕(フィクサー)』を佐分利信主演、降旗康男監督で公開します。
しかし、残念ながら、これら2本の実録任俠映画はかつてのようには興行的に振るわず、俊藤の映画はしばらくとぎれ、3年後の1982年10月、京撮の生え抜きエース・中島貞夫が監督し三船敏郎主演の『制覇』が公開されます。
この作品は、6月、五社英雄監督の『鬼龍院花子の生涯』が大ヒットし、女性文芸エロス路線という新たな鉱脈を見出した京撮が、久しぶりに取り組んだ、実話を背景に首領の家族関係に焦点をあてたオールスター実録任俠映画でした。
興行的にはそこそこの結果でしたが、経費がかかった割に期待したほどの成果が上がらず、やくざ映画の退潮が語られました。
そのため、俊藤の次作は1984年11月公開の『修羅の群れ』まで2年ほど間が空きます。
この作品は、「修羅の群れ」というタイトルで稲川聖城をモデルに作家大下英治が徳間書店『アサヒ芸能』に連載した小説を原作として、大下と共に取材を重ねた俊藤が企画した久々の実録任俠映画でした。
久しぶりの本格やくざ映画は話題を呼び、やくざ人気が衰退する中で、かつてのような成績には至りませんでしたがそこそこの結果となります。
俊藤は、続いて正延哲士『最後の博徒・波谷守之の半生』を原作に広島のやくざ波谷守之の実録任俠映画を企画。翌1985年11月、『最後の博徒』として公開されました。
鶴田浩二やプロ野球の江夏豊が出演したこの映画は、前作のように話題が広がらず、興行的に振るいませんでした。
⑬ 日下部プロデューサー企画『極道の妻たち』大ヒット、シリーズ化
翌1986年、日下部五朗は、家田荘子原作『極道の妻(つま)たち』に注目し、家田の了解を得て京撮にて『極道の妻(おんな)たち』というタイトルで映画化、11月に公開しました。
『鬼龍院花子の生涯』で姐さん役を演じた岩下志麻を主役に五社英雄が監督した異色のやくざ映画は、これまで脇役であったやくざの妻を主役に、やくざ社会での女の戦いを描き、東映やくざ映画が無視してきた女性客も集め大ヒットします。
『極道の妻たち』はシリーズ化し、東映が10作、その後東映ビデオが6作、2013年まで計16作続き、東映を代表する人気シリーズとなりました。
第1作で主役を務めた岩下志麻はそのうちの8作に主演、助演したかたせ梨乃は9作、極妻人気に貢献します。
⑭ 俊藤実録任俠映画の終焉
『最後の博徒』が期待に応えられなかった俊藤は次作まで3年のブランクが空きます。
その間に日下部の『極妻』の大ヒットもあり、1988年、俊藤は藤田五郎の小説『女侠客』を原作に『姐御』を企画しました。
東撮の『化身』で映画に主演デビューした元宝塚の黒木瞳を主役にビートたけしが助演、中島貞夫が監督したこの作品は、11月に公開されると興行的には今一つでしたが、当時拡大しつつあったレンタルビデオで配給収入を超える売り上げを記録します。
やくざ映画がレンタルビデオで需要が高いことがわかった東映は、この後、京撮にて俊藤の製作で、1989年9月公開山之内幸夫原作・一倉治雄監督・三浦友和主演『悲しきヒットマン』、志茂田景樹の『首領(ドン)を継ぐのは俺だ』を原作に1990年9月公開の中島貞夫監督・中井貴一主演『激動の1750日』、続けて、中井貴一主演松山千春共演で1991年11月公開中島貞夫監督『極道戦争 武闘派」と、やくざ映画の色の無い若手俳優を主役に、実際の事件をモデルにした3本の実録任俠映画を製作しました。
1991年5月、「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(暴対法)が成立し、翌1992年3月の施行が決定します。
やくざに対する法律ができたことによって、やくざ映画への風当たりも強くなりました。
俊藤は、勝目梓『掟の伝説』を原作に、東撮にて、和泉聖治監督・小林旭主演『修羅の伝説』を製作、1992年1月に公開します。
興行的には不振でしたが、レンタルビデオはヒットしたこともあり、同じく和泉聖治監督・小林旭主演で『民暴の帝王』を製作、翌年1993年6月に公開しました。
しかし、再び興行成績は惨敗に終わり、これ以降、俊藤の企画を東映が製作することはなくなります。
そのため俊藤は自らリスクを背負い、山平重樹著『残俠 会津小鉄・図越利一の半生』を原作に、関本郁夫監督・高島政宏主演の実録任俠映画『残俠 ZANKYO』を京撮で製作しました。
1999年2月に東映が配給したこの映画も興行的には振るわず、俊藤の東映最後の作品となります。
岡田茂と俊藤浩滋のコンビで30年に渡り作り続けられ、かつては社会現象にまでなった東映やくざ映画は、その間、東映の経営危機を何度も救い、東映の代名詞となりました。
その東映やくざ映画は、俊藤浩滋というプロデューサーがいなければここまでの成功はなかったでしょう。
俊藤が企画に加わったやくざ映画は、実録映画時代になっても義理と人情、男の世界を志向する実録任俠映画でした。
そして、東映岡田茂時代の終わりとともに俊藤が進めた東映やくざ映画も終わりを告げます。
トップ写真:『総長の首』客演時の俊藤浩滋とマキノ雅弘