60. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第6節「東映京都名物プロデューサー 玉木潤一郎と坂巻辰男」
東映時代劇全盛期、片岡千恵蔵と市川右太衛門、二人の御大はそれぞれに専属の企画プロデューサーが付いていました。玉木潤一郎と坂巻辰男です。二人ともエネルギッシュで猪突猛進、しかし何故か憎めないところがある活動屋でした。
今節は個性的な二人の東映名物プロデューサーをご紹介します。
玉木潤一郎 千恵蔵との長い親交・宣伝マンから企画者へ
1901年香川県に生まれた玉木潤一郎は、高等小学校を卒業し、16歳の時、剃刀一丁をもって大阪に出て、父の知り合いの理髪店に徒弟奉公に入りました。やがて本町のビルの地下にある理髪店に移り、そのビルに東亜キネマの設立準備事務所ができ、小山内薫や佐藤紅緑の散髪をするようになります。演劇好きの玉木は同行の士を集め劇団を設立、佐藤も見に来て親交を深めました。
1924年2月、東亜キネマ甲陽撮影所に脚本部長として入った佐藤のカバン持ちとして玉木も入社します。6月に牧野省三が製作部長として乗り込んでくると玉木は映画俳優として活動を始め『おもちゃ屋の小僧』などに出演しました。
翌1925年、牧野が東亜を離れて御室天授が丘にマキノプロダクション撮影所を作ると、玉木もそこに移り、喜劇俳優として活動を続けます。
そのうち仕事もなくなった玉木は、都新聞の小林勇吉と知り合い映画の雑文を書き始めました。ところが書いた記事が問題となり、責任を取ってマキノを退社。日活大将軍を経て、1928年に独立した片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)に宣伝部長として入社しました。
千恵プロでは、製作本読みを活発に行い、玉木もそこでシナリオについて学びます。宣伝部長としては、都新聞・小林との関係で東京の中央紙に次第につながり、京都の一プロダクションでしかない千恵プロのニュースが全国に知れ渡りました。
有力後援者とのトラブルで千恵プロを退社した玉木は東亜キネマの代行会社として1931年に誕生した東活映画社に企画部長として入社します。翌1932年、東活は解散。玉木は小林の世話で、丸山耕が創刊した日本演芸通信と提携し、日本演芸関西通信社を経営することになりました。これまで築いてきた玉木の映画界での人脈や経験により、業界紙として、大きく成長しました。
1941年、戦時統合により、合同通信と合併して通信合同を作りましたが、玉木は翌年身を引き、松竹の支援で新大衆劇団を結成します。しかし、戦争激化により、1944年劇団は解散しました。
戦争末期から戦後にかけて苦しい生活を送り、選挙違反で拘留もされた玉木は、小林と月形龍之介の尽力で1949年東横映画に宣伝課長として入社します。通常の宣伝業務は部下に任せ、宣伝部長の肩書を刷った名刺を作り、先頭に立って特殊な企画に取り組みました。
1951年4月に東映が誕生、11月に企画に転進すると、片岡千恵蔵作品の企画担当プロデューサーになります。当時、企画を決めるのはマキノ光雄のワンマン体制であり、玉木に降りてきた企画を予定通りのスケジュールで良い作品に仕上げるのが役割でした。
玉木は1952年以降、千恵蔵が出演する映画のほぼすべての作品に企画として参画し、1956年に定年を迎えます。けれども、翌日から嘱託として引き続き企画者として千恵蔵作品を担当、1964年2月末に嘱託解除となるまで12年に渡り数多くの名作を千恵蔵と二人三脚で作り上げました。
千恵蔵主演の娯楽映画、遠山金四郎シリーズ、現代劇地獄シリーズ、多羅尾伴内シリーズ、東映時代劇オールスター映画シリーズなどほとんどの作品に玉木の名前があります。
玉木は日本に帰国した内田吐夢監督の復帰第1作千恵蔵主演『血槍富士』を担当して以来、内田が京撮で監督した17作品のうち10作品の企画を担当し、千恵蔵が出演していない作品にも企画として参加しました。
また、玉木自身が企画した作品に、月形龍之介主演『水戸黄門漫遊記』シリーズがあります。このシリーズは1954年から1957年まで10作続き、後に月形と言えば水戸黄門と言われるようになりました。月形黄門の始まりは玉木の企画です。
1957年8月には東映オールスター映画佐々木康監督『水戸黄門』として公開されました。
その他に玉木は1954年、1959年と2回にわたり、東映娯楽版『里見八犬伝』を企画します。
また、元宣伝マンの玉木は映画のタイトルを生み出す才能があり、『血槍富士』、遠山金四郎シリーズの『はやぶさ奉行』『火の玉奉行』『たつまき奉行』『さいころ奉行』など、数多くのヒット作品タイトルを作りました。
長年にわたりスターを見て来た玉木は、今井正監督『米』の主演俳優を探していたマキノに、京撮の大部屋でくすぶっていた江原真二郎を紹介し、主役に抜擢された江原はそこから目覚ましい活躍をして東映のニュースターになります。
千恵蔵作品、内田監督作品、月形の水戸黄門とヒット作を次々とプロデュースする玉木は、マキノ光雄亡き後、京撮のヘッドプロデューサーとして経営に貢献しました。
1963年12月25日には「玉木潤一郎映画生活四十年をたたえる会」が京都ホテルで盛大に催され、活動屋玉木の映画界への貢献を多くの人々から称賛されました。
1964年2月、岡田茂京撮新所長就任で時代劇スタッフの合理化が図られ、玉木も嘱託解除になります。
玉木が現場に付いた最後の作品は1963年12月公開片岡千恵蔵主演工藤栄一監督『十三人の刺客』でしたが、企画として1964年12月公開大川橋蔵主演加藤泰監督『幕末残酷物語』、1965年5月公開大川橋蔵主演井上梅次監督『大勝負』に名前が刻まれています。
玉木潤一郎は東映京都の宣伝マンから企画者となって片岡千恵蔵、月形龍之介主演作を中心に124本の東映作品を担当しました。
劇作家の大御所長谷川伸が「嵯峨の名物かずかずあれど、異彩放つは玉木潤」と称えた玉潤は、艶福家で映画を愛した忘れることのできない東映名物プロデューサーです。
トップ画像:玉木潤一郎 東映プロデューサー
坂巻辰男 右太衛門担当宴会芸の達人プロデューサー
東映を代表する二人の御大、片岡千恵蔵と市川右太衛門。千恵蔵のプロデューサー玉木潤一郎に対して右太衛門のプロデューサーは坂巻辰男でした。
坂巻は東映設立の陰の功労者である根岸寛一と戦前から深い関係がありました。1931年、日本新聞聯合社(新聞聯合)総支配人古野伊之助が、親友根岸の為に演芸部を創設し演芸部長として就任させ、やがてそこに入ったのが坂巻です。坂巻は根岸一家の狭い自宅に居候しました。
ちなみに、1936年に日本電報通信社(電通)と日本新聞聯合社が国からの指示で合併して誕生した会社が戦前の国策通信社同盟通信社。戦後、GHQの命令で解散し、一般報道部門などは共同通信社、経済報道部門などは時事通信社になりました。
坂巻は京都支局に転勤、京都の映画界に出入りし、日活の元社長横田永之助の知己を得ます。やがて1935年、新聞聯合社長岩永祐吉の推薦で根岸が日活多摩川撮影所長に就任すると、後を追って坂巻も進行見習いとして日活多摩川進行部に入り、1937年に企画部に転じます。当時の日活多摩川は根岸所長の下、自由闊達の気風にあふれ、監督では内田吐夢や田坂具隆、脚本家では八木保太郎、荒巻芳郎などが活躍していました。
翌1938年、松竹と東宝との日活の経営権をめぐる争いが激化、し、満洲映画協会(満映)からの誘いを受けた根岸はマキノ満男を伴い満洲にわたります。坂巻も荒牧と共に二人の後に従って満映に入社、撮影課長に就任しました。1941年には作業管理所長となり、部下に、後日東横映画で再会する芸術班長堀保治、録音班長大森伊八などの人々を従えます。
終戦で引き上げ時に八路軍に迷い込み、持ち前の要領の良さで八路軍に加わり各地を転戦したため、日本帰国が大幅に遅れました。
1950年末あたりにようやく帰国した坂巻は、1951年5月、当時東映と提携していた、マキノ光雄の義理の兄である高村将嗣経営の宝プロに入社、1953年7月公開萩原遼監督嵐寛寿郎主演『源太時雨』などの進行を担当します、
1953年9月、東映京都撮影所と企画者契約をし、1954年12月公開松田定次・松村昌治監督大友柳太朗主演『残月一騎打ち』で企画デビューしました。
1955年には、3月公開娯楽版内出好吉監督月形龍之介主演『彦左と太助(二部作)』、4月公開佐伯清監督大友主演『御存じ快傑黒頭巾 マグナの瞳』を企画します。
そして、これまで市川右太衛門作品の企画を手掛けていた大森康正に代わって、6月公開河野寿一監督『虚無僧系図』、11月公開河野監督『薩摩飛脚』『薩摩飛脚 完結篇』を担当、これ以来片岡千恵蔵の企画者玉木潤一郎に対抗する、右太衛門の企画者となり、この年は右太衛門3作、大友2作、月形2作の計7作品を担当しました。
1956年には嘱託契約になりますが、大友の『快傑黒頭巾』シリーズや右太衛門作品に加え、大川橋蔵主演娯楽版萩原遼監督『江戸三国志(三部作)』も担当、11作品を企画しました。
1957年1月公開松田定次監督右太衛門主演『旗本退屈男 謎の紅蓮塔』からは『旗本退屈男』シリーズも担当します。この年は右太衛門専属で10作品が公開されました。
1958年も大車輪の活躍で、2月公開内田吐夢監督『千両獅子』、3月公開小沢茂弘監督『葵秘帖』、4月公開松田定次監督『大江戸七人衆』、5月公開加藤泰監督『浪人八景』、8月公開松田定次監督「市川右太衛門出演三百本記念 旗本退屈男』、9月公開小沢茂弘監督『喧嘩太平記』、11月公開佐々木康監督『修羅八荒』と右太衛門主演8作品、大友主演3作品と計11作品の企画を担当しました。
1959年も坂巻が担当した作品は、1月公開佐々木康監督『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』から始まり、すべて右太衛門出演作の9作品でした。
1960年も正月のオールスター映画の後、退屈男を始めとする右太衛門主演作品を担当します。
2月に部長待遇に昇進した坂巻は、3月に第二東映が誕生すると6月、企画第一部次長として第二東映の企画責任者に就任。そして、11月公開井沢雅彦監督里見浩太郎主演『地雷火組』などを企画しました。
この年は、右太衛門出演7作品と里見主演2作品、大河内伝次郎主演1作品の計10作品を担当。
1961年に第二東映はニュー東映と名前を変え、現代劇専門に衣替えしたことにより、坂巻も第一東映で右太衛門出演7作品を担当します。
この年7月、坂巻は部長待遇の企画者から演技部長に異動。翌1962年1月には新たに発足した東映歌舞伎準備会の幹事として本社に移り、5月に執行委員会の幹事となります。8月に第1回東映歌舞伎公演を大成功裡に終えた坂巻は、1963年1月、東映との契約打ち切りを自ら発表しました。
契約解除後も右太衛門との関係は続き、8月公開佐々木康監督『雲切獄門帖』、1964年1月公開の右太衛門映画出演最後の作品佐々木監督『忍び大名』を担当します。
その後も、映画の企画者として東映京都で2作品を担当し、1966年3月公開の工藤栄一監督田村高廣主演『女犯破戒』と中島貞夫監督大川橋蔵主演『旗本やくざ』を最後に映画界から離れました。
片岡千恵蔵担当プロデューサー玉木潤一郎と市川右太衛門担当プロデューサー坂巻辰男。二人は良きライバルでしたが、午後、撮影所の企画室にやって来た二人の間に交わされる会話は周りに笑いをもたらし、漫才コンビのようだったと言います。
酒と女性、そして映画を愛した二人は東映時代劇の全盛期を彩りました。