169.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第33節「岡田茂の不良性感度重視の映画作り まとめ 後編」
15. 真田広之の活躍
『柳生一族の陰謀』を企画した日下部五朗は、柳生十兵衛役千葉真一のプッシュもあり、千葉率いるジャパン・アクション・クラブ(JAC)所属の真田広之を、根来衆ハヤテ役に抜擢します。この作品での活躍にて新人アクションスター真田に注目が集まりました。
続いて深作欣二監督『宇宙からのメッセージ』に出演した真田は、テレビ朝日(ANB)系で放映した続編『宇宙からのメッセージ 銀河大戦』(1978/07/08~1979/01/27)のゲン・ハヤト役でテレビ初主演を飾ります。
人気を確信した岡田茂の指示で日下部は、真田の映画初主演『忍者武芸帖 百地三太夫』(鈴木則文監督)を企画、1980年11月に公開しました。
翌年『魔界転生』(深作監督)で主演沢田研二とのラブシーンで話題を集めた真田は、「リポビタンD」のCMにも出演し増々人気を高めます。
そして1982年12月、真田主演の角川映画『伊賀忍法帖』(斎藤光正監督)が大ヒット。真田は押しも押されぬ人気スターとなりました。
また、真田に続きJACから黒崎輝や高木淳也、大葉健二、井原剛(現・伊原剛志)など若手アクションスターが次々と登場、関西テレビ系にて放映の千葉真一主演「影の軍団シリーズ」や東映製作の青春映画『伊賀野カバ丸』(鈴木則文監督)などで活躍します。
16. 天尾完次P東撮「戦争大作シリーズ」
『トラック野郎シリーズ』が大ヒットしていた頃、東撮所長の幸田清と企画部長の天尾完次は、日露戦争を題材にした映画を岡田に提案、東撮で10万枚の前売券販売する条件にて内諾を得ました。
前売券を地道に販売し、15億5000万円と言う大規模な予算をかけて製作した大作『二百三高地』(舛田利雄監督・仲代達矢主演)は、1980年8月に公開すると配収18億、1980年度年間邦画配収3位の大ヒットを記録します。
続けて舛田監督で製作した『大日本帝国』(1982年8月公開 丹波哲郎主演)も14億円の配収を上げ、邦画年間3位の大ヒットとなりました。
しかし、1983年6月公開の第3作三船敏郎主演『日本海大海戦 海ゆかば 』(舛田監督)は期待の数字に届かず、幸田、天尾の東撮戦争映画大作は3作で終了します。
17. 日下部P「京撮文芸大作シリーズ」確立
京撮では日下部Pが、菅原文太・松坂慶子主演に五木寛之原作のベストセラー『青春の門』を蔵原惟繕・深作欣二監督で映画化しました。1981年正月に公開するとヒット、続編も作られ翌年正月に公開されます。
文芸映画路線にヤクザ映画に代わる新たな鉱脈を見出した日下部は、続けて宮尾登美子の小説『鬼龍院花子の生涯』(五社英雄監督)を映画化しました。
1982年6月に公開したこの大作も夏目雅子の「なめたらいかんぜょ」のセリフが話題になり大ヒットします。
続いて日下部はカンヌ国際映画祭パルム・ドールを授賞した今村昌平監督『楢山節考』や「宮尾登美子シリーズ」など大人の女性に向けた文芸大作を次々と企画し路線を確立しました。
18. 角川春樹連携拡大 薬師丸ひろ子と真田広之
1970年代半ば、日本映画界に彗星のごとく登場した角川春樹は、次々と映画製作に乗り出しました。
東映では洋画配給部長鈴木常承が担当し、1977年10月角川映画第2作『人間の証明』(佐藤純彌監督・松田優作主演)、翌年10月には日本ヘラルドと共に第3作『野性の証明』(佐藤純彌監督・高倉健主演.)を配給、大ヒットします。
また元日活所長で東映芸能ビデオ嘱託プロデューサーの黒澤満(みつる)は、1979年8月公開の第5弾『蘇える金狼』(村川透監督・松田優作主演)の制作に協力、東映洋画が配給しました。
角川春樹は、佐藤純彌、村川透、深作欣二など東映で活躍する監督を起用し、東映との関係も拡大して行きます。
角川春樹は、東宝で配給した大作『復活の日』(深作欣二監督・草刈正雄主演)の後、大作路線からプログラムピクチャー路線にシフトし、『野性の証明』でデビューした薬師丸ひろ子を主演としたアイドル映画に乗り出しました。
その相手役には俳優の渡瀬恒彦、松田優作、真田広之など東映の主演俳優を起用します。
これらの薬師丸主演作は大ヒット、薬師丸ブームが興りました。
1985年、角川が自主配給を目指したことにより、岡田は角川映画との連携を休止します。
19. 日下部P「極妻シリーズ」
京撮にて「宮尾登美子シリーズ」など文芸映画路線を進める日下部Pは、『週刊文春』に家田荘子が書いたルポルタージュ「極道の妻(つま)たち」を原作に五社英雄監督・岩下志麻主演で『極道の妻(おんな)たち』と読み方を変え製作、1986年11月に公開すると大ヒットしました。
その後『極道の妻たち』は、主演女優を替えながら2013年6月公開の第16作『極道の妻(つま)たち Neo』(香月秀之監督・黒谷友香主演)まで続く大ヒットシリーズとなります。
そのうち日下部Pは、2001年7月公開の第14作『極道の妻たち 地獄の道づれ』(関本郁夫監督・高島礼子主演)まで担当しました。
20. 黒澤満P「ビー・バップ・ハイスクールシリーズ」
1980年11月、東映ビデオは制作子会社セントラル・アーツを設立、黒澤満が社長に就任します。
この会社では、草刈正雄、藤竜也主演『プロハンター』(NTV系 1981/4/7~ 9/22)などのテレビ作品を制作していましたが、角川春樹の信頼を得た黒澤は、角川の映画作りに協力して行きました。
その後、1985年、角川から独立した薬師丸ひろ子を主役にサンダンス・カンパニーが企画した『野蛮人のように』(川島透脚本・監督)の制作に協力するとともに、その同時上映作品として不良性感度の高い若者向け映画『ビー・バップ・ハイスクール』(那須真知子脚本・那須博之監督・仲村トオル、清水宏次朗主演)を製作します。
その年12月に公開すると大人気となり、シリーズ化しました。
松田優作同様にセントラル・アーツに所属した仲村は、次々と東映作品に主演し、スターへの階段を上って行きます。
21. 黒澤満P「あぶない刑事シリーズ」
映画『ビー・バップ・ハイスクール』の大ヒットで始まった1986年。セントラル・アーツからもう一つの人気シリーズ『あぶない刑事』(NTV系 1986/10/5~1987/9/27)が誕生しました。
舘ひろしと柴田恭兵が主演し、仲村トオルもレギュラー出演したこの作品は1987年12月に東映系で劇場版が公開され、1988年度日本映画配収第4位となる好成績を記録します。
「あぶない刑事」は、2024年5月、最新作『帰ってきた あぶない刑事』が公開され大ヒット。現在まで続く人気シリーズとなりました。
22. 岡田裕介P「吉永小百合主演シリーズ」
岡田裕介は、1974年まで東宝に所属し俳優として活躍していました。その後、俳優を続けながらもプロデューサーとして主に東映のテレビや映画作品を手がけて行きます。
映画では高倉健、吉永小百合主演『動乱 第1部海峡を渡る愛/第2部雪降り止まず』(森谷司郎監督)を企画し、1980年1月、東映で公開しました。
東映で製作を総指揮した、1984年6月に公開された『天国の駅 HEAVEN STATION』(出目昌伸監督)は、主演の吉永の汚れ役が話題となります。
1985年にはNHKで評判となった吉永主演ドラマ『夢千代日記』を東映京都撮影所にて『キューポラのある街』の浦山桐郎監督で映画化、6月に公開しました。
翌1986年1月には同じく吉永主演で企画した『玄海つれづれ節』(出目昌伸監督)を公開します。
1988年11月、岡田裕介は東京撮影所付ヘッド企画者兼第一企画製作部長、俳優センター映画担当部長として東映に入社しました。
そして、1990年6月、東京撮影所長兼第一企画製作部長(役員待遇)に任命され、1992年6月には東映の取締役になります。
23. 岡田茂代表取締役会長、高岩淡代表取締役社長就任
1993年6月、岡田茂は代表取締役会長、専務取締役の高岩淡が代表取締役社長に就任しました。
24. 岡田茂の映画作り まとめ
第二東映事業が終了しつつある1961年9月、東撮所長を任された岡田茂は、拡大するテレビをお茶の間で家族が一緒に見る健全娯楽と捉え、料金が必要な上にわざわざ映画館まで足を運ばなければならない映画は、こっそりと欲求を満たす大人の娯楽でないと集客ができないと考えました。
薄暗い映画館を、テレビでは見ることができない大人の空間として考えた岡田は、不良性感度を重視した映画作りに邁進して行きます。
そこで東撮では、主役を刑事や探偵物からギャングにした不良性感度の高いギャング映画に乗り出します。
試行錯誤の中でやくざを主役に、東映の得意とする時代劇の手法を活かした任俠映画に新たな鉱脈を見つけました。
時代劇映画の不振に苦しむ京撮の所長に異動した岡田は、その道に通暁した俊藤浩滋をプロデューサーを起用、鶴田浩二、高倉健、若山富三郎、藤純子など新たなスターを見出し任俠映画の路線化を確立します。
また、岡田自らは、天尾完次をプロデューサーに起用しもう一つの不良要素であるエロス映画を推進して行きます。
そして、これまで培ってきた健全娯楽としての時代劇は映画からテレビにシフトさせ大成功に導きました。
映画本部長、社長と昇進した岡田は、若手の日下部五朗や吉田達で実録映画や不良映画で1950年代後半から続く日本映画界での東映独走体制を1970年代まで維持します。
後半からはポルノ路線からシフトした天尾完次の「トラック野郎シリーズ」がブレイク、また、元日活所長の黒澤満を東映ビデオに招き、新たなアクション映画を開拓しました。
そして日本映画界に突如現れた風雲児・角川春樹と連携、関係を深めて行きます。
1980年代に入ると、映画館網の強みを活かした東宝が映画製作に乗り出したテレビ局と提携。テレビでは見ることができない映画ならではスケール感を打ち出した大作を配給することで激しく追い上げて来ます。
一方、東映はプログラムピクチャーにシフトした角川春樹と組み薬師丸ひろ子や真田広之のアイドル映画などで対抗、東撮の戦争大作や日下部の文芸路線も花開きました。
後半は黒澤満のセントラル・アーツから舘ひろしや柴田恭兵、仲村トオルなどのスターが誕生し東宝に対抗、2強時代を作ります。
また、岡田の長男岡田裕介が東映で吉永小百合主演映画を中心に製作、実績を重ね1988年に入社し、重役として東映の映画作りを徐々に引き継いで行きました。
映画界が斜陽と言われた時代、不良性感度を前面に出し、ゼネラルプロデューサーとして東映の映画作りを牽引した岡田茂は、「東映映画中興の祖」であり、その風貌と迫力から「日本映画界の首領」とも呼ばれた、大きな足跡を残した映画人です。