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㊻ 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第2節「新しい時代劇映画への挑戦 後編」
剣豪近衛十四郎のリアルな殺陣
1932年18歳の時、目黒寅一は、奈良あやめ池の市川右太衛門プロダクションの研究生、芸名長岡秀樹として俳優人生をスタートしました。日活太秦を経て、1934年4月、大阪の枚方市京阪牧野駅近くに白井戦太郎が創設した亜細亜映画旭ヶ丘撮影所にて、白井監督『叫ぶ荒神山』吉良の仁吉役で主演デビュー。その際、白井監督命名で近衛十四郎という名に改名します。
倒産後、近衛は白井監督と共に東京の大都映画に移り、数多くの時代劇映画に主演、バッタバッタとなぎ倒す力強いチャンバラで子供たちのアイドルスターになりました。
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徴兵で出征した近衛は、大都に戻った1941年、共演者の水川八重子と結婚。戦時統制により、映画製作本数が制限されたため、夫婦で一座を組み、全国に巡業の旅にでました。
1942年、大都が大映に統合される前、大都最後の作品『宮本武蔵 決戦般若坂』佐伯幸三監督に主演、大映には入社せず、映画界を離れ全国を巡業、舞台に専念します。
終戦後、外地から引き揚げてきた近衛は、GHQによって時代劇映画が制約されたこともあり、再び巡業に戻り、映画出演の機会を待ちました。ようやくチャンバラ映画が公開され出した1952年、嵐寛寿郎の綜芸プロと契約、映画界に復帰します。東映『遊侠一代』小崎政房監督、『危うし!鞍馬天狗』加藤泰監督などに出演後の1953年、松竹大曾根辰夫監督に認められ、綜芸を離れ松竹に入社しました。松竹では脇役から始めて豪快な殺陣で徐々に存在感を示し、1955年5月『風雲日月双紙』酒井辰雄監督、6月『元禄名槍伝 豪快一代男』芦原正監督で主演を務めると、以降、松本幸四郎、高田浩吉に次ぐスターとして活躍します。
1959年、『柳生旅日記 天地夢想剣』萩原遼監督で柳生十兵衛役を演じ、翌年1960年3月続編『柳生旅日記 竜虎活殺剣』に主演した後、時代劇が少なくなった松竹から東映に移籍します。
東映では、右太プロ時代にお世話になった市川右太衛門作品などに助演、第二東映が立ち上がると『砂絵呪縛』井沢雅彦監督に主演しました。
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その後近衛は第二東映にて『遊侠の剣客 片手無念流』井沢雅彦監督など、剣戟を主とする映画に主演を重ね、翌1961年3月、改編したニュー東映で井沢監督『柳生武芸帳』『柳生武芸帳 夜ざくら秘剣』と続けて主役柳生十兵衛を演じました。
この二作品では、後にテレビシリーズで名コンビを組む品川隆二が十兵衛のライバル、霞の多三郎役で共演しています。
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その年、黒澤監督『用心棒』によって、社内で迫力ある殺陣の重要さが再認識されると、近衛の力強い殺陣が注目を集めます。
1961年10月、東映本番線『柳生一番勝負 無頼の谷』松村昌治監督に再び柳生十兵衛役で主演すると、翌1962年9月『柳生武芸帳 独眼一刀流』松村昌治監督、1963年2月『柳生武芸帳 片目の十兵衛』内出好吉監督、5月『柳生武芸帳 片目水月の剣』長谷川安人監督、8月『柳生武芸帳 剣豪乱れ雲』内出好吉監督、12月『柳生武芸帳 片目の忍者』松村昌治監督、1964年10月『十兵衛暗殺剣』倉田準二監督と、ニュー東映『柳生武芸帳』から全9作、近衛が演じる柳生十兵衛がシリーズ化されました。そのうち、『片目の十兵衛』から脚本は、後に『仁義なき戦い』を書いた笠原和夫に代わることでよりリアルなドラマが展開され、また、『独眼一刀流』から『片目の忍者』までの5作では長男の松方弘樹が共演しています。
特に『十兵衛暗殺剣』における、冷徹な敵役を演じた大友柳太朗率いる湖族との琵琶湖でのすさまじい戦いは、迫力ある名場面として語り継がれています。
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近衛十四郎の豪快で迫力のある殺陣は、これまでの東映時代劇の舞うような殺陣と異なるリアルな殺陣の魅力を生み出し、近衛は新しい東映時代劇の主役として、また強い敵役として、数多くの映画に出演しました。
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やがて、東映京都の映画は時代劇から任侠へとシフトし、近衛もテレビ時代劇に活躍の場を移します。 1965年10月からNET系で始まった近衛主演『素浪人 月影兵庫』が大ヒット。豪快な殺陣はそのままに、これまでの近衛のイメージを変える三枚目のおちゃめな剣豪は、品川隆二演じる相方焼津の半次ともどもお茶の間の時代劇ファンに愛され、このコンビのドラマは『素浪人 花山大吉』など、タイトルを変えながらも長年にわたって継続されました。
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近衛十四郎は、力強くスピードのある殺陣で、それまでの東映時代劇映画の色を変える新しい時代劇を生み出した剣豪スターでした。
東映集団時代劇
1961年9月に岡田茂が東京撮影所長に異動したことにともない京撮所長を引き継いだ山崎真一郎は、翌1962年1月、所長の席を高橋勇にかわります。
高橋所長時代、京都撮影所の企画は、中村有隣を中心に玉木潤一郎、栄井賢の三人の企画部次長によって回していました。1963年2月、中村が過労で倒れ、本社企画本部から黒住盛太郎文芸課長が企画部長、渡辺達人が企画部次長として新たに配属されまます。
新しく配属された渡辺は、黒澤監督『用心棒』にショックを受け、新しいリアルな殺陣を考案することを目標としました。そして単独で売れる錦之助、橋蔵以外は、御大を筆頭にマスの力で勝負するべく、集団時代劇に取り組みます。
7月、後に人気作家池宮彰一郎となる池上金男を脚本に起用し、若手の長谷川安人監督で『十七人の忍者』を製作しました。
最後まで生き残る主役の伊賀忍者は里見浩太郎。伊賀忍者の棟梁大友柳太朗、その部下に東千代之介、品川隆二、加賀邦男、そして敵役の根来忍者に近衛十四郎を配した集団時代劇は、好評を博し、東映の新たな時代劇として第1歩を踏み出します。
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続いて12月、満を持して、片岡千恵蔵御大を主演に、池上脚本、工藤栄一監督で『十三人の刺客』を公開しました。この作品は緊迫感のあるスケールの大きい集団劇の名作として高い評価を得て、何度もリメイクされます。興行的には期待通りには行かず、苦戦しましたが、集団時代劇と言う東映の新たな試みは世間の注目を集めました。
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翌1964年、里見主演で6月工藤監督『大殺陣』、8月長谷川監督『集団奉行所破り』、1966年1月松方弘樹主演『十七人の忍者 大血戦』鳥居元宏監督、1967年夏八木勲主演『十一人の侍』工藤栄一監督と集団時代劇は作られましたが、時代劇退潮の流れを変えるには至りませんでした。
時代劇映画から任侠映画へ
東京撮影所長岡田茂は、1962年末に日活で公開された石原裕次郎主演舛田利雄監督『花と竜』の成功を見て、1963年、鶴田浩二主演沢島忠監督『人生劇場 飛車角』を製作、3月に公開、大ヒットし、任侠路線の手ごたえをつかみます。
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1964年2月、京撮所長に復帰した岡田は、膨れ上がった撮影所スタッフの合理化に取り組み、これまで東映時代劇を支えてきた佐々木康監督などベテランスタッフを、坪井与の尽力で新たに設立した東映京都テレビ・プロダクションに異動させました。また、助監督の平山亨や勝間田具治らスタッフの本社や動画等への配転を進めるとともに、利益を生み出せなくなった時代劇映画から任侠映画への転換を図ります。
そして、プロデューサーに俊藤浩滋を呼び、笠原和夫脚本、マキノ雅弘監督で任侠映画『日本侠客伝』を企画、京撮時代劇のトップスター中村錦之助に主役をオファーしました。
しかし、錦之助は撮影中の『鮫』のスケジュールが伸びに伸びていること、5月に俳優組合の代表になったこと、そして何より、時代劇への思いもあり、主役を断ります。
この騒動は、俊藤の錦之助への説得により、笠原が新たに作った流れ者役で出演することで落ち着き、主役は『飛車角』の演技が評価された東撮の高倉健が演じることになりました。
この作品は当時で2億5200万円の配収を上げ、この年『鮫』、『越後つついし親不知』に次ぐ国内5位になる大ヒット。『日本侠客伝』は1971年の第11作まで続く東映京都の人気シリーズとなり、主演の高倉健は任侠映画の大スターとなります。
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錦之助と橋蔵、東映映画との別れ
その後、中村錦之助は、今井正監督のリアリズム映画『仇討』、伊藤大輔監督『徳川家康』、田坂具隆監督『冷飯とおさんとちゃん』などの芸術作品に続けて主演し、これらの作品は名作として、また、錦之助は演技者として高い評価を得ました。
しかし、これらの作品は興行的には期待に届かず、特に『冷飯』の数字は惨憺たるものに終わり、京撮時代劇撤退への引き金となります。
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この年9月、5年間にわたり続いた内田吐夢監督錦之助主演宮本武蔵シリーズ最終作『宮本武蔵 巌流島の決斗』も予算の大幅な削減もあり、凡調な成績に終わりました。
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しかしながら、11月、錦之助は、山下耕作監督の仁侠映画『花と龍』、翌1966年4月には加藤泰監督の時代劇映画『沓掛時次郎 遊侠一代』に主演し、その存在感を示します。
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東映時代劇で思うように集客ができなくなった錦之助は、岡田茂に任侠映画への出演の条件として時代劇の復活を願いますが、岡田の時代劇撤退の意志は固く、1966年5月、五社英雄監督『丹下左膳 飛燕居合斬り』を最後に東映を去りました。
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一方、大川橋蔵は、1965年2月、松田定次監督『バラケツ勝負』に主演しますが、任侠映画はこれ1本で終わり、以後、5月日活出身井上梅次監督『大勝負』、6月山内鉄也監督『主水之介三番勝負』、8月工藤栄一監督『任侠木曽鴉』、10月山内鉄也監督『天保遊侠伝 代官所破り』と娯楽時代劇に続けて主演しましたがいずれも数字的には低調に終わります。
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そして、橋蔵も1966年、中島貞夫監督『旗本やくざ』を最後に映画からテレビ時代劇に移りました。
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東映京都テレビ・プロダクションに移籍した橋蔵は、1966年5月からフジテレビ系列で放送開始の『銭形平次』に主演、大人気を得て、1984年4月まで888回を数える長寿番組となり、橋蔵は長期間にわたる1時間ドラマの主演としてギネス記録に登録されます。
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時代劇映画の大スターからテレビ時代劇の大スターとなった大川橋蔵は長きにわたり東映に貢献しました。
近衛十四郎の力強い殺陣によるリアル時代劇、そして里見浩太朗を中心とした集団時代劇、錦之助、橋蔵が目指した芸術的時代劇、と東映はテレビでは見ることができない映画ならではの新しい時代劇を求めて様々な試みを行いました。
しかし、残念ながら試みは長くは続かず、岡田茂が進めた任侠映画から、鶴田浩二、高倉健といった新たなスターが生まれたことで、京撮は時代劇映画から任侠映画にシフトし、そして、時代劇のベテランスタッフの多くはテレビ時代劇や舞台に活躍の場を移していったのです。