㉜ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第5節「大衆娯楽主義 太秦の曲者役者二人」
量産体制に入った東映時代劇映画黄金期には戦前の映画会社各社で働いていた時代劇俳優が多数集結、そこで活躍していた二枚目スターたちも東映に来て個性派の役者,として濃厚な存在感を示しました。
今回はその中でも太秦に住み、準主役として東映時代劇に幅をもたらした二人の元二枚目曲者役者を紹介いたします。
原健策
映画村には戦前からの映画各社の台本が多量に保管されており、戦前の貴重な台本もあります。その中でも第一映画『浪華悲歌』溝口健二監督、千恵プロ『赤西蠣太』伊丹万作監督、日活『忠臣蔵 天の巻 地の巻』池田富保監督などの名作台本寄贈者が原健策(1953年より以前は健作)です。
1923年の震災後、原は、沢田正二郎とともに新国劇を創設した倉橋仙太郎が大阪南河内の瓢箪山に開校した演劇塾、新民衆劇学校に中学を中退して一期生として入校、少し遅れて入った二期生には大河内伝次郎がいました。そこで1年間学び、芸名を原健作として東京の新国劇公演に参加した後、新民衆劇公演に大河内とともに出演します。
1925年、連合映画芸術家協会とマキノプロが提携して製作の『弥陀ヶ原の殺陣』衣笠貞之助監督に新民衆劇が参加すると、原は主役国定忠治として映画デビューしました。
その年、新民衆劇は第二新国劇と改称、大河内との二枚看板で舞台に立っていた原は、翌1926年に退団、色々な劇団を転々としながら演劇活動を続けた後、演劇に限界を感じ、1934年10月に新興キネマ京都撮影所に入り映画俳優に転身します。
そして、1936年松竹『雪之丞変化(解決編)』衣笠貞之助監督や第一映画『浪華悲歌』溝口健二監督、千恵プロ『赤西蠣太』伊丹万作監督など名監督からのオファーによって数々の難役に挑み「難役の健さん」と言われるまでに実績を上げて行きます。
原健作(1934年頃)
1937年に日活太秦撮影所に入社すると、二枚目役沖田総司『鞍馬天狗 角兵衛獅子』マキノ正博監督、ヘタレ役本位田又八『宮本武蔵』稲垣浩監督、敵役銭鬼灯『髑髏銭』辻吉郎監督など多彩な役で多種多様の作品に出演、子供向け娯楽作品『まぼろし城』『天兵童子』 組田影造監督では立役(たてやく)をつとめ、ヒーローとして人気を集めました。
1940年日活『まぼろし城』 組田影造監督・小暮月之介役
1940年日活『神変麝香猫 第一部』荒井良平監督・丸橋忠弥役
1941年日活『天兵童子』組田影造監督・南木菩提次役
戦時統合で日活京都撮影所は大映になり、原はそこで国民映画に出演するなど戦後1947年まで活躍した後、フリーの期間を経て1949年東横映画に入社します。
1950年『いれずみ判官』渡辺邦男監督
1950年『天保人気男 妻恋坂の決闘』渡辺邦男監督
東横が東映に代わってしばらくして原健策と改名した「難役の健さん」は、300本をはるかに超える様々な時代劇で善玉から悪玉、そして怪人まで演じ、映画の撮影が無くなってからは数多のテレビ時代劇に出演し太秦時代劇を支えていきました。
また一方では数々の役柄を演じてきたベテラン役者として、後進の俳優達に時代劇に必要とされる様々な演技や所作指導を行うことで伝統技術の継承に努め、東映時代劇に欠かせない存在として貢献したのでした。
1951年『酔いどれ八萬騎』マキノ 雅裕監督・荒牧源内役
1952年『赤穂城』萩原遼監督・磯貝十郎左衛門役
1953年『女難街道』渡辺邦男監督・津久土の茂十役
1953年『大菩薩峠』渡辺邦男監督・土方歳三役
1953年『風雲八萬騎』佐々木康監督・酒井雅樂守役
1954年『真田十勇士』河野寿一監督・暗烏の伝蔵役
1955年『まぼろし小僧の冒険』萩原遼監督・筧十蔵役
1955年『天兵童子』内出好吉監督・南木菩提次役
1955年『夕焼け童子』小沢茂弘監督・宇田川大膳役
1955年『椿説弓張月』丸根賛太郎監督・毛国県役
1956年『異国物語 ヒマラヤの魔王』河野寿一監督・大乗寺多門役
1956年『忠治祭り 劔難街道』加藤泰監督・六兵衛役
1956年『隠密秘帖 まぼろし城』萩原遼監督・酒井丹蔵役
1957年『任侠清水港』松田定次監督・大政役
1958年『火の玉奉行』深田金之助監督・弥三郎役
1958年『喧嘩笠』マキノ雅弘監督・森の石松役
1959年『忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻』松田定次監督・片岡源五右衛門役
1961年『柳生武芸帳』井沢雅彦監督・山田浮月斎役
1963年『忍者秘帖 梟の城』工藤栄一監督・下柘植次郎左衛門役
1966年『ワタリ』船床定男監督・トリコ役
ある作品で原の演技が終わり、監督が「まあいいでしょう。」と言ってそのカットの撮影を終えようとしたことに対し、「まあいいでしょうとはどういうことや。納得いくまで俺はやる。」と激怒して撮影を続けさせたという、自らの演技に対し強いこだわりを持つ原らしい話を、若い頃にその現場に居合わせた小道具の担当者から聞きました。それからその担当者は原の道具の扱いには気をつけるようになったとのことです。
原は映画・テレビ時代劇で活躍する傍ら、岡田茂が東京に引越しした際、その空いた家で旅館業を営みました。その後太秦でお好み焼き屋「千明」を経営、看板娘の美人姉妹を目当てに集まった太秦の映画スタッフにとってそこは憩いの場でした。
戦前から映画界で活躍した原健策は、芸能界の浮き沈み、俳優たちの様々な姿を見てきました。末娘の松原千明が芸能活動をすることに大反対し、芸能事務所の担当者が父親の原に挨拶に来た時、門前払いをしたといいます。父の反対を押し切り、芸能界入りした千明は、探偵ナイトスクープ初代秘書役を務めた後、芸能活動を縮小しますが、名優の血は孫すみれまで受け継がれています。
原は若い頃からお酒を愛し、劇団で地方巡業をしていた時には一晩で十升もの酒を飲んだことがあったと話をしていたそうです。一升酒を飲み96才で人生の幕を下ろしました。
加賀邦男
1927年、舞台俳優をめざし、慶応義塾を中退して浅草の昭和座から俳優の道に進んだ加賀邦男は、1930年に大阪の剣戟一座で公演中、帝国キネマにスカウトされて長瀬撮影所『仇討太夫桜』鈴木桃作監督から映画俳優デビューします。
火災で太秦に移り、新興キネマに改編後もそこで若手二枚目時代劇俳優として数多くの作品に脇役出演、1940年に新興東京撮影所で現代劇にも挑戦した後、大映になってからも出演を重ね着実に演技の幅を広げていきました。
1933年新興『ひらかな三国志』村田正雄監督・忠信利平役
1936年新興『夜嵐お絹』渡辺新太郎監督・三崎豊役
敗戦間際に大映を離れ、地方巡業などを行っていましたが、1950年に東横映画に入社、東映では善悪、硬軟の役をこなせる準主役級の役者して原健策同様に300本をはるかに超える映画作品に出演、テレビ時代劇でも活躍しました。
1951年『江戸恋双六』萩原遼監督・友吉役
1952年『飛びっちょ判官』渡辺邦男監督・鍾鬼の半兵衛役
1953年『喧嘩笠』萩原遼監督・大前田幸之助役
1954年『水戸黄門漫遊記 闘犬崎の逆襲』伊賀山正徳監督・渥美格之進役
1955年『旗本退屈男 謎の決闘状』佐々木康監督・将軍綱吉役
1956年『悲恋 おかる勘平』佐々木康監督・寺坂平左衛門役
1957年『鳳城の花嫁』松田定次監督・秋山帯刀役
1857年『素浪人忠弥』佐伯清監督・水野十郎左衛門役
1958年『任侠東海道』松田定次監督・法印大五郎役
1959年『鞍馬天狗』マキノ雅弘監督・桂小五郎役
1960年『仁侠中仙道』松田定次監督・法印大五郎役
1961年『剣豪天狗祭り』小沢茂弘監督・武田真竜軒役
1962年『お姫様と髭大名』工藤栄一監督・黒沼刑部役
加賀は原健策の近所、太秦大映通りを少し入ったところに住み、六人の男の子を育てます。三男は、二枚目加賀邦男と違ってコワモテ志賀勝として東映やくざ映画で活躍しました。
原健策と加賀邦男。二人は共に演劇畑出身の芸達者であり、数々の東映時代劇に名を遺した名役者でした。
1952年『飛びっちょ判官』渡辺邦男監督・鍾鬼の半兵衛・後家安役
1953年『忠治旅日記 逢初道中』松田定次監督・馬吉・三太役