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Obbligato:社内報に見る「東映の支柱」⑨
「大道具さんの一日」(社内報『とうえい』1958年3月1日発行第3号)
今回の「東映の支柱」は、第1回目に掲載いたしました「大道具さんの一日」を再度掲載いたします。前回は記事掲載のみでしたので、改めて京都撮影所(京撮)の大道具の歴史についてのご紹介を加えました。
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東映京都の美術は大きく分けて4つの係で構成されています。作品の美術を牽引する美術監督、美術デザイナーが在籍する美術係、セットを作る装置係(大道具)、セットや俳優を飾る装飾係(小道具)、それら3つの部署を取りまとめる管理係です。
装置係は撮影用セットを作る部署で、建込(大工)、背景、建具張物、塗装、特殊造形、造園、解体などの部門に分かれます。これまでの記事で、塗装と背景の名人をご紹介いたしました。今回は京撮建込(大工)さんの歴史です。
東映のセット作りの歴史は1947年、東映の前身にあたる東横映画京都撮影所の誕生から始まります。満洲映画協会(満映)出身の撮影所長、マキノ光雄、美術課長・堀保治の下に集ったのが、同じく満映帰りの装置係長・松本五郎ら大工たちでした。マキノ、堀、松本の3人は、戦前の日活太秦撮影所現代劇部から多摩川撮影所に移った同志でもあります。東横映画設立目的の一つが大陸帰りの映画人たちの職場復帰だったこともありますが、その中でも装置係は村居常次郎(建込)、森繁雄(建込)、田代徳次郎(張物)、小西十四一(建具)など満映出身者が班長として中核を占めていました。そこにマキノがいた松竹下加茂撮影所から弥田勇造(建込)が加入、造園の河本富三郎、背景の池田金三郎も参加し東横映画撮影所の装置係が発足します。
東横映画は始まった当初から赤字に陥っていたので、特に費用のかさむ装置部門は常に厳しいやり繰りを強いられました。
何もない一からのスタートのため、松本の指示で、購入する時は木材の木柄の大きさ、襖の寸法、釘の寸法等を揃え、柱や壁を何度も使えるように計算の上でセットを組み立て、撮影終了後はセットを壊すのではなく丁寧に解体して次のセットに使用するなどの工夫をこらします。そうして節約を重ねながら、少しづつ自前の建具、襖、道具等を増やして行きました。
厳しいスケジュールの中、装置係長の松本自ら先頭に立ってトンカチを振るって徹夜の作業に取り組み、それを見た係員一同も一丸となって努力します。装置係は少ない予算と時間に追われながらも、関川秀雄監督『きけ、わだつみの声』(1950年)、伊藤大輔監督・マキノ雅弘監督『レ・ミゼラブル』(1950年)など名作のセットを作ることができました。
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1951年、東映が設立された時の美術課長は松本五郎、装置班長は森繁雄、弥田勇造など東横映画のスタッフがそのまま移行します。後に松本は美術部長、森は装置課長、弥田は装置第一係長として東映時代劇映画黄金期の美術を牽引します。
松本は、戦前、日活太秦撮影所に出入りし、堀や松本と顔見知りの大工で東横映画の建物の営繕を行っていた加藤貞雄を誘いました。忙しい時のセット作りを手伝った加藤は、1953年に入社、そのまま班長として活躍し、後には装置係長に就任します。
やがて映画に黄金時代が訪れます。時代劇でトップを走る東映京都撮影所では様々なセットが生み出され、松本を頭に100人を優に超える大工がかき集められました。
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それでも人は足りず、セットを建てても次の作品の建て込みが入る。撮影が終わればすぐ解体し、壁に塗った塗料が乾く暇もない。セットを建てるステージの数は19まで増えましたが、常に奪い合いでした。「いつも走っている」と言われた東映のスタッフは実際に皆、走っていたそうです。
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1960年、第二東映が設立され、2年間にわたり大幅に製作本数が増えた東映京都。なんと2年の間に200作に近い数の時代劇映画が量産されました。撮影所内は臨時雇用スタッフであふれかえり、セット作りも多忙を極めます。弥田勇造、加藤貞雄、矢守好弘、上田正直など8名の建込班長の下にそれぞれ15名の大工が付き、ローテーションで作品を担当していきます。それでも足りないので国松建設など協力会社の職人が応援に入ることで量産に対応しました。
そんな娯楽時代劇で忙しい間にも、田坂具隆監督『親鸞』、内田吐夢監督『宮本武蔵』、伊藤大輔監督『反逆児』、今井正監督『武士道残酷物語』など巨匠の名作、東映トップ監督松田定次監督のオールスター大作『水戸黄門』『赤穂浪士』が時間と予算をかけて作られました。松本配下の大工たちは、美術にこだわる巨匠監督たちのハイレベルな要求にも応えます。「早い、安い、うまい」セットを数多く手掛けながら、技術や工夫を磨いた賜物と言えるでしょう。
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彼ら経験豊富な班長の下で修業を積み、研究を重ねた稲田源兵衛、梶谷信男、三浦公久ら若手の大工たちはやがて班長となり、時代劇から任侠映画や現代劇、娯楽作品から文芸大作まで、部下を率いてセット作りで京撮を支えます。
映画、テレビと数多くの作品を量産する東映の様々なセットを作ってきたことにより、稲田などの名匠は図面がなくとも寸分の狂いもなく考証に基づいた家を建てることができたといいます。稲田は1967年中島貞夫監督『あゝ同期の桜』では、実物と見間違えるほど精巧なゼロ戦を木材で作ったとも聞きます。
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現在の棟梁は佐藤政義さんです。宮城県出身の佐藤さんは高校卒業後、母方の従兄の務める宮大工に弟子入りしました。そこで5年間の修業の後、京都の叔父から頼まれて経営する工務店に移ります。
翌1964年、叔父から応援を頼まれて、大映三隈研次監督『座頭市血笑旅』の手伝いに入り、そこで、国松建設先代社長の国松安雄さんに仕事ぶりを見込まれスカウトされました。叔父の町場の仕事を手伝いながらも国松さんから頼まれて撮影所の仕事もするようになり、やがて正式に入社して撮影所の仕事を本格的に取り組みます。
東映の仕事では、1974年シドニー・ポラック監督『ザ・ヤクザ』や東映太秦映画村の角櫓(現・忍櫓)、大手門を先輩の大工、行武さん、田上さん、佐藤さんの3人で建設しました。東映の現場で彼らは三人組と呼ばれていたそうです。
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佐藤さんに思い出に残る仕事をうかがうと、2001年堀川とんこう監督『千年の恋 ひかる源氏物語』の明石御殿や2005年佐藤純彌監督『男たちの大和』の戦艦大和、2009年田中光敏監督『火天の城』の安土城などを挙げられました。
梶谷信男班長の下、『ひかる源氏』では三人組で明石御殿を建設するにあたって昔の宮大工や茅葺屋根の経験が大いに役に立ち、城作りの大工の話である『火天』では大量の太い材木を扱い、『大和』では、大和の副砲などを作ったとのことです。
佐藤さんは2019年に国松建設を退職され、現在は東映で装置の棟梁として今も現役で活躍されています。
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また、国松建設以外の建込業者では、かつてあった東映京都テレビ・プロダクションで曽根美工が建込を担当していました。看板を作っていた京秀がナカノ工房に変わり、解散後、大工さんたちが新たに圭心アートを立ち上げて現在もお世話になっております。
時代劇に精通した多くの職人がおり、経験がない監督も安心して時代劇に取り組める。それが東映京都撮影所です。
美術OBはこう語ります。「時間と予算さえあれば、どの会社にも負けないセットは作ることができた」と。