㊾ 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第4節「東映巨匠映画 田坂具隆」
田坂具隆
1924年、日活大将軍撮影所に入社した田坂具隆は、助監督として村田実や溝口健二らに付き、3年目の1926年、『かぼちゃ騒動記』で監督デビュー。太秦に移転後の1931年に監督した、入江たか子主演『心の日月』が大ヒット、キネ旬第2位に選ばれました。
1932年、日活で起こった争議で内田吐夢、伊藤大輔、村田実、小杉勇、島耕二らと七人組を結成、独立して新映画社を設立します。
新映画社解散後、1934年、入江ぷろだくしょん、入江たか子主演で『月よりの使者』、翌1935年、引き続き入江ぷろで『明治一代女』を監督し、続けて大ヒット。田坂はヒットメーカーとして注目されました。
そして、根岸寛一率いる、ウェスタントーキーを備えた日活多摩川撮影所で、1936年5月、小杉勇主演『追憶の薔薇』、1937年6月、小杉主演『真実一路』を監督します。
1938年1月、小杉主演の戦争映画『五人の斥候兵』、9月公開の片山明彦主演『路傍の石』と続けて大ヒット、両作品はそれぞれ、その年のキネ旬第1位、第2位に輝きました。特に『五人の斥候兵』は、日本が同盟を結ぶイタリアの第6回ヴェネツィア国際映画祭でイタリア民衆文化大臣賞を受賞、田坂具隆の監督としての名声は増々高まりました。
翌1939年も、2月小杉主演『爆音』、3月、見明凡太郎主演『空襲』、10月、小杉主演『土と兵隊』と3本の戦争映画を監督、『爆音』はキネ旬第8位、『土と兵隊』は第3位に選ばれ、第7回ヴェネツィア国際映画祭の日本映画総合賞を受賞します。
1941年、田坂は本社と撮影所の対立から日活を離れ、松竹の子会社興亜映画に移籍。1942年、興亜を吸収した松竹太秦で風見章子主演『母子草』、1943年12月公開の国策大作『海軍』山内明主演を監督しました。1945年2月には松竹オールスター出演東西撮影所合同国策大作『必勝歌』の原作を担います。
その後、召集を受け、広島で入隊した田坂は、原爆に被爆し、当時松竹京都両撮影所の所長だったマキノ雅弘の世話を受け、長い闘病生活に入ります。そして、1949年6月、元日活多摩川撮影所だった大映東京撮影所の『どぶろくの辰』辰巳柳太郎主演でようやく監督復帰しました。
大映では、1951年3月公開、水戸光子主演『雪割草』、1952年3月公開、京マチ子主演『長崎の歌は忘れじ』を監督の後、再び3年間にわたる闘病生活を送ることになります。
体力が回復した1955年、撮影を再開した古巣日活が調布に新設した撮影所に移り、6月公開、左幸子主演『女中っ子』を監督。キネ旬第7位にも選ばれ再復帰を飾りました。
日活では1956年11月、芦川いづみ主演『乳母車』、1957年6月、北原三枝主演『今日のいのち』、1958年4月、石原裕次郎主演『陽のあたる坂道』、1959年1月、石原裕次郎主演『若い川の流れ』などを監督します。
その中でも石坂洋次郎原作の『陽のあたる坂道』は裕次郎の爆発的な人気もあり、その年の配収で第2位となる好成績を収めましたが、3時間にもおよぶ長さの件を巡り、日活と大きなしこりを残しました。
そうした中、1959年、東映企画本部長の坪井与は部下の渡邊達人の提案を受け、田坂具隆を訪ね、中村錦之助主演で企画中の『親鸞』の監督をオファー、東映に招聘します。
坪井のオファーを応諾した田坂は、翌年6月公開『親鸞』9月公開『続親鸞』を京都撮影所で監督、その後も東映で日本映画史に残る名作を次々と公開して行きます。
続いて東京撮影所にて監督した、1961年11月ニュー東映公開の有馬稲子主演『はだかっ子』はキネ旬8位を記録します。
京撮で1962年6月公開、中村錦之助主演『ちいさこべ』を監督の後、東撮で撮った1963年11月公開の水上勉原作佐久間良子主演『五番町夕霧楼』は、清純派の佐久間が大胆な濡れ場シーンのある汚れ役に体当たりで臨んだことが話題を呼び、この年の配収第8位と大ヒット、キネ旬でも第3位と高い評価を得ました。
この作品に女優からの信頼の厚い芸術監督である田坂を起用することで、佐久間の新たな魅力が花開いたと岡田茂は語っています。岡田茂が導いた東映文芸エロス路線の嚆矢がこの『五番町夕霧楼』です。
その後、京撮で中村錦之助主演で『鮫』、『冷飯とおさんとちゃん』と続けて監督。『鮫』は配収で第3位と大ヒットし、『冷飯とおさんとちゃん』は興行的には苦戦しましたが、キネ旬で第6位、作品評価は大変高く、この二作品に出演した三田佳子は、ライバル佐久間に続き演技開眼、ここから大女優の道を歩み始めました。
中村錦之助が去り、東映が時代劇映画から任侠映画に完全方向転換した1966年、田坂は11月公開水上勉原作『湖の琴』を監督、『五番町夕霧楼』と同じく佐久間良子主演で、キネ旬第4位に選ばれます。
しかし、残念ながら田坂もこの作品で、文芸路線を廃して過激娯楽路線に本格的に舵を切った東映を去りました。
その後中島貞夫監督『大奥㊙物語』、山下耕作監督『大奥絵巻』などエロチシズム作品に出演した佐久間良子も、小幡欣治が書いた戯曲『あかさたな』を岡田茂が改題した、1969年3月公開『妾二十一人 ど助平一代』の出演を最後に東映を離れました。
作家水上勉は、生活に苦労していた時代にサスペンス小説『箱の中』という原稿を書き、東映企画室脚本課長の渡邊達人がこれを買い取ります。この原稿は4回改稿され、1959年に『霧と影』と言うタイトルで河出書房より出版されヒット、水上は一躍流行作家となりました。そして原稿を買い上げた東映は、1961年8月、石井輝男監督丹波哲郎主演『霧と影』をニュー東映にて公開します。
その後も水上と渡辺との付き合いは続き、文芸作家として有名になってからの作品、『五番町夕霧楼』は田坂具隆監督、『越後つついし親不知』は今井正監督、『飢餓海峡』は内田吐夢監督と東撮で次々と映画化、田坂監督の『湖の琴』は京撮で撮影され、後世に残る文芸映画として東映の評価を高めました。
来週は時代劇の父伊藤大輔を紹介いたします。