53. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督 マキノ雅弘 前編」
マキノ雅弘 生まれた時からカツドウヤ
1908年2月29日、牧野正唯は日本映画の父・牧野省三の長男として生を受けます。幼くして3番目の姉の勝子、4番目の姉笑子とともに日活で子役として数多くの活動写真に出演しました。
1921年、省三が日活から独立し牧野教育映画製作所を等持院に設立してからも正唯は子役を続け、京都市立第一商業高校に入学後もかわらず撮影に借りだされます。学校から退校処分の警告を受けることでようやく俳優業を中断し、一時期、ラグビーを中心とした学校生活を送ることができました。
しかし、結局、省三の意向で高校を中退、東亜マキノ等持院撮影所に助監督として参加することになります。省三が等持院から離れ、1925年、妙心寺駅前にマキノ・プロダクション御室撮影所を建設すると正唯もそちらに移り、俳優として主演もこなしながら助監督として作品にも付きました。
1926年9月、17歳の正唯はマキノ正博に改名、10月公開『青い目の人形』で初めて脚本を書き、正博の名で監督デビューします。
ちなみに正博の母・知世子は、千本組侠客笹井三左衛門の弟分の材木商多田虎之助の娘で、省三との結婚時の約束により、弟、光次郎は生まれると多田の家の名を継ぎ、多田光次郎を名乗ります。省三はこの正博の改名に合わせて光次郎にもマキノ満男と言う名を付けました。
この後、正博はマキノ・プロにて、山上伊太郎脚本で数多くの作品を監督、1928年10月に公開した『浪人街 第一話 美しき獲物』はその年のキネマ旬報第1位に輝きます。
6月公開『蹴合鳥』は第7位、11月公開『崇禅寺馬場』も第4位に選ばれ、翌1929年9月公開『首の座』第1位、11月公開『浪人街 第三話 憑かれた人々』も第3位と、評論家筋から監督としての手腕が高く評価されます。しかし、これらの作品は興行的には失敗を重ね、マキノ・プロの経営はますます苦しい状況に陥りました。
苦しい中も省三は、これからはトーキーの時代が来ることを見越し、1929年7月、マキノ・プロダクション第1回トーキー作品として、日本初のディスク式トーキーによる正博監督南光明主演『戻橋』を発表します。この試みは大ヒットしましたが、劇場上映時、ディスクと画面の同期に大変苦労したため、後が続きませんでした。
そして、発表後の7月25日、長年の苦労がたたり、牧野省三が50歳の若さで逝去します。
後を引き継いだ正博は製作部長として陣頭指揮に立って娯楽作品を作りますが、ストライキなどによって経営はますます悪化。新会社設立にも動きましたが、1931年10月、マキノ・プロは解散に至り、多額の負債が長男マキノ正博の肩にのしかかりました。
翌1932年、省三の長女・富栄の婿、高村正次と新興キネマ重役の立花良介が母・知世子を所長として正映マキノキネマが設立しますが、直後に撮影所が火災で焼失する不運にも見舞われ、再び解散。24歳の正博は借金を背負ったまま満男と共に日活に入社、監督を続けました。
入社後、当時日活と提携していた千恵プロで『白夜の饗宴』を監督すると、チャンバラのないラブロマンス時代劇が話題になり大ヒット、正博の指導で演技開眼した山田五十鈴が一躍注目を浴びました。この作品はキネ旬第8位に選出されます。
ところが、当時日活社長だった横田永之助の指示で監督した、1934年2月公開杉山昌三九主演『岩見重太郎』が横田の不興を買い、日活を馘首されてしまいます。
正博は、父・省三の遺志を継ぎ、トーキー映画に本格的に取り組むことを決意します。兄貴分の宝塚キネマ重役笹井末三郎と相談し、東京の神楽坂でトーキー会社映音を経営していた太田進一の下で録音技師の勉強を始めました。
1934年12月、映音の協力で独自の録音機を開発した正博は京都に戻り北野のマキノ家を事務所に京都映音を設立し、各独立プロから録音の仕事を請け負います。
永田雅一の第一映画社から、撮影所ができる前に千恵プロを借りて撮影した伊藤大輔監督『建設の人々』、嵐寛寿郎の嵐寛プロから並木鏡太郎監督『修羅時鳥』、曽根千晴監督『鞍馬天狗』、新興キネマから 押本七之輔監督『銭形平次捕物控 濡れた千両箱』など次々と録音の注文を受けて各社のトーキー映画化に貢献しました。
そして、大阪の千鳥興業からの提案を受け、笹井末三郎の後押しで1935年11月にマキノトーキー製作所(現・松竹撮影所)を設立、太秦の竹藪を開いて年末にスタジオが完成します。
第1作目は12月の興行に間に合わせるため新興キネマのスタジオを借りて撮影したマキノ正博監督沢村國太郎主演『江戸噺鼠小僧』で、同時に月形龍之介主演『丹下左膳・剣雲必殺の巻』も完成させました。
1936年9月、マキノトーキーは資金集めのため、株式会社化しますが、経営状態はますます悪化、1937年4月、解散に至ります。
正博は、俳優やスタッフを新興キネマ京都撮影所長に就任した永田雅一などに託し、自身は弟・満男のいる日活に身を寄せ、松竹大谷社長と交渉して阪東妻三郎を日活に呼び、比佐芳武脚本で『恋山彦』を監督、大ヒットさせました。
続いて1937年12月阪妻主演で『血煙高田の馬場』、千恵蔵主演『自来也』、1938年3月嵐寛主演『鞍馬天狗 角兵衛獅子の巻』を監督、いずれも大ヒットし、日活の経営を支えます。
そして、1938年3月、牧野省三没後十年記念日活時代劇オールスター映画『忠臣蔵 天の巻』を根岸寛一からの依頼で東京撮影所にて監督、後半の『地の巻』は、省三の弟子池田富保が京都撮影所で同時に監督します。浅野内匠頭役片岡千恵蔵、大石内蔵助役阪東妻三郎、脇坂淡路守役嵐寛寿郎、原惣右衛門役月形龍之介、片岡源五右衛門役沢村國太郎、とマキノゆかりのスターたちが出演するこの映画は話題を呼び、大ヒットしました。
1939年12月にはオペレッタ映画の名作『鴛鴦歌合戦』を監督、主演の千恵蔵のシーンを2時間ほどの撮影で急遽仕上げた作品は、後に正博の戦前の代表作とまで言われます。
続けて、1940年1月公開千恵蔵と沢村國太郎で山上伊太郎脚本のオペレッタ映画『弥次喜多 名君初上り』を監督、この作品の撮影中、母・知世子が亡くなりました。
1940年5月、借金をすべて返済した正博は女優の轟夕起子と結婚。また、千本組の笹井靜一に頼まれ、東宝東京撮影所で長谷川一夫作品を監督することになります。
1941年の正月映画、長谷川主演で山田五十鈴が共演する『昨日消えた男』は9日間の早撮りにもかかわらず、見事な仕上がりは東宝内で評判を呼びました。続いて3月公開の大作『長谷川・ロッパの 家光と彦左』で再び東宝東京撮影所の敷居をまたいだ正博は、今度は、東宝京都撮影所で5月公開長谷川主演『阿波の踊子』を監督します。
次に日活多摩川で9月公開杉狂児主演『世紀は笑ふ』を監督の後、東宝と年間契約を締結し、1942年、長谷川主演ロッパ共演の正月映画『男の花道』、4月公開長谷川主演エノケン共演『待って居た男』、6月公開長谷川主演山田共演『婦系図』などを監督、いずれも大ヒットしました。
1943年、戦局が悪化する中で、フィルムの統制がますます厳しくなり、映画人も次々と大陸に渡ったり、戦線に召集され人員が不足してきます。東宝、松竹、大映の経営者たちも国策会社の運営をまかされるなど国の指導下に置かれ、撮影所の経営に手が回らなくなりました。
そして、話し合いの結果、8月1日、正博は松竹下加茂撮影所長に就任、満男も次長として京都に赴きます。
1945年10月、松竹の戦後第1作、小杉勇主演『千日前附近』を監督し、その後、1946年6月新藤兼人脚本高峰三枝子主演『待ちぼうけの女』(キネマ旬報第4位)などを次々と監督の後、12月公開、小杉勇主演轟夕起子共演『のんきな父さん』の撮影に取り掛かりました。
GHQの方針もあり、映画会社各社に組合が誕生、ストライキが勃発。松竹下加茂でもストライキの動きが興ると、先に下加茂所長を退任していた正博は今度は組合の執行委員長に就任。ストライキを決行しながらも『のんきな父さん』を完成させます。
その後、城戸副社長との約束で、大船で正月公開の小夜福子主演轟夕起子共演『満月城の歌合戦』を監督、ストライキで他社が新作を公開できなかったこともあり、これらの作品は大ヒットしました。
1946年当時、正博は、河原町六角の第一生命ビル駸々堂書店5階にMSC(ミュージック・スクリーン・クラブ)と言う会社を立ち上げ、ディック・ミネ、田端義夫、菊池章子、霧島昇、笠置シズ子などの人気歌手に、轟夕起子、月丘夢路、月丘千秋、灰田勝彦など人気俳優が集まっていました。松竹で、1947年10月公開『淑女とサーカス』、12月公開『愉快な仲間』など、彼らが出演する作品を監督し、ヒットしました。
1947年、マキノ満男が立ち上げた東横映画が映画製作を開始すると、正博は松竹を離れ、東横に参加します。
1948年1月公開上原謙、轟夕起子共演『金色夜叉 前篇』、2月公開『後篇』を監督し、これらのヒットは東横のスタートに花を添えました。
そんな折、戦犯指名され自宅待機中の小林一三に呼び出され、東宝の映画を6本監督することになり、MSCの製作部門を独立させたCAC(シネマ・アーティスト・コーポレーション)を宝塚スタジオ内に設立しました。
第1作目は長谷川一夫の新演技座との共同製作10月公開『幽霊暁に死す』を東横撮影所で、1949年3月公開、大河内傳次郎と嵐寛寿郎の共演『盤嶽江戸へ行く』を新東宝撮影所で監督します。その後、新しく建設された宝塚撮影所で、1949年2月公開若原雅夫主演『ボス』、5月公開、阪東妻三郎と大河内伝次郎共演『佐平次捕物帳 紫頭巾 前後篇』、1950年4月公開長谷川一夫主演『傷だらけの男』を監督しました。
東宝と新東宝間の紛争が起こり、またCACの社長に置いた高村正次の不祥事、ヒロポン中毒、轟との離婚も重なって、正博は失意のうちに京都に戻り、ぼろぼろの状態から心機一転、満男の東横映画で再び監督業に取り組みます。
次週、マキノ雅弘 後編に続きます。