57. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督⑤ 内出好吉と佐伯清」
東映時代劇黄金期は、戦前に時代劇の助監督として腕を磨いたベテランの娯楽職人監督によって支えられました。その代表が内出好吉と佐伯清です。
今回はこの二人の名匠を紹介いたします。
内出好吉 松竹で腕を磨いた時代劇職人監督
1934年、内出好吉は早稲田大学を中退し、松竹下加茂撮影所の門をたたき、助監督として二川文太郎、井上金太郎、大曾根辰夫、伊藤大輔らに師事しました。1943年に召集され、復員した1947年に松竹に再び助監督復帰します。
1951年、師である伊藤大輔監督の1月公開阪東妻三郎主演『おぼろ駕籠』にチーフ助監督として担当。そしてその年12月公開嵐寛寿郎主演『薩摩飛脚』で監督デビューしました。
翌1952年5月公開市川右太衛門主演『月形半平太』、歌舞伎から映画に転身の嵐鯉昇改め北上弥太郎主演8月公開『柳生の兄弟』、1953年には、高田浩吉主演作を3本、松竹スター主演作を監督します。
1954年、歌舞伎界のプリンス中村錦之助の映画デビュー作、美空ひばり主演二人が所属する新芸プロが製作した、2月松竹公開『ひよどり草紙』を下加茂撮影所にて監督しました。
この作品の後、錦之助は東映に移籍しますが、内出も翌1955年には、東映京都撮影所に移り、3月公開月形龍之介主演『彦左と太助 』(二部作)を東映で初監督します。
続いて、6月公開伏見扇太郎主演の娯楽版『天兵童子』(三部作)を監督、これ以後、大友柳太朗や東千代之介主演の娯楽作を担当しました。
そして、1955年8月公開『牢獄の花嫁』で市川右太衛門、1956年9月公開『海の百万石』で片岡千恵蔵、両御大主演作を初めて監督します。
それから、伏見扇太郎主演娯楽版、1956年9月公開『緑眼童子』(二部作)、1957年12月公開『竜虎捕物陣』(二部作)、1958年5月公開『少年三国志』、1959年8月公開『里見八犬伝』(三部作)を担当しました。
その間、娯楽版では尾上鯉之助主演、1957年6月公開『さけぶ雷鳥』(三部作)を監督します。
内出は他に東千代之介、中村錦之助、里見浩太郎、大川橋蔵、美空ひばりなど主演の娯楽映画を数多く手がけました。
内出は右太衛門主演の娯楽映画、1959年2月公開『あばれ大名』、8月公開『榛名はやし 喧嘩鷹』、1960年2月公開『あらくれ大名』、1961年1月公開『鉄火大名』と、数多く演出しました。
かたや、千恵蔵主演では、1961年4月公開『さいころ奉行』を監督しています。
1960年の第二東映から量産体制に入り、他社から高田浩吉、鶴田浩二、近衛十四郎などのスターが次々と入社すると、内出も彼らの時代劇主演作を監督します。
また、朝日放送で人気の藤田まこと主演『てなもんや三度笠』を映画化し監督、1963年6月に公開しました。
1964年2月に岡田茂が京撮所長に復帰。東映京都テレビ・プロダクションを設立し、時代劇スタッフを映画からテレビへと移行させました。
内出も2月公開『大笑い殿さま道中』を最後に映画界から離れ、テレビの監督に転進します。
テレビでは1969年から始まったナショナル劇場『水戸黄門』、1970年からの『大岡越前』などを手掛け、1982年に現役を引退しました。
内出好吉は、プログラムピクチャーの名手として、娯楽時代劇を数多く監督し、映画、テレビの東映時代劇黄金時代を支えました。
佐伯清 伊丹万作の弟子 時代劇&任侠映画職人監督
1933年、松山中学を卒業した佐伯清は、学校の先輩である伊丹万作を頼って上洛、片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)に入社、伊丹の助監督を務めます。
その後佐伯は、師匠伊丹が、日活太秦、新興キネマ、千恵プロ、J.O.スタヂオ、東宝東京と渡り歩くに合わせ、助監督として行動をともにしました。
1938年、伊丹は『巨人傳』を監督した後、結核を病み、1940年に東宝を離れますが、佐伯は東宝に残り、島津保次郎や熊谷久虎作品に製作主任として参加しました。
そして、1945年、1月公開榎本健一主演の喜劇映画『天晴れ一心太助』で監督デビュー。終戦直前の8月には原節子主演『北の三人』が公開されます。
戦後の東宝争議で新東宝に移り、1947年7月公開藤田進主演『かけ出し時代』を監督、それ以降新東宝で長谷川一夫、高峰秀子、嵐寛寿郎などの主演映画を演出しました。
1951年4月、佐伯は新たに誕生した東映に参加します。6月公開、片岡千恵蔵主演『にっぽんGメン 不敵なる逆襲』を京都撮影所で監督、その後、新東宝、東宝の映画とともに東映の東撮で1952年2月公開水谷八重子主演『嵐の中の母』、京撮で4月公開花柳小菊主演『お洒落狂女』、 1953年4月公開早川雪洲主演『悲劇の将軍 山下泰文』などを監督しました。
また佐伯は、京撮で1953年7月公開大友柳太朗主演『残俠の港』、東撮で1954年3月公開藤田進主演『花と龍』(二部作)と、後年手掛けた仁侠映画の原点ともいえる作品を監督します。
両御大の時代劇作品では、1954年1月公開市川右太衛門主演『愛染道中 男の血祭』、1955年1月公開片岡千恵蔵主演『勢ぞろい喧嘩若衆』を担当しました。
1954年には、製作を再開した日活で3本監督しますが、その間、8月公開東映娯楽版大友柳太朗主演『霧の小次郎』(三部作)を手掛けました。
日活から帰って来た佐伯は、その後、京撮で時代劇、東撮で現代劇を数多く監督していきます。
1959年6月公開大友柳太朗主演『伊達騒動 風雲六十二万石』 を京撮で監督した後、東撮に腰を据え、高倉健、鶴田浩二、千葉真一、梅宮辰夫など主演の様々な現代劇に取り組みました。
1964年に高倉健主演マキノ雅弘監督『日本侠客伝』の大ヒットで任侠映画路線に鉱脈を見つけた東映は、『日本侠客伝』シリーズに続けて高倉主演で1965年4月に公開した石井輝男監督『網走番外地』が大ヒット、シリーズ化します。東映のトップスターに躍り出た高倉健を主役に佐伯監督で『昭和残侠伝』を10月に公開、この作品も大ヒットし、シリーズ化しました。
低迷する日本映画界で、この3つの大ヒットシリーズの成功で、東映は時代劇から撤退、任侠映画路線に完全シフトします。佐伯は9作続いたこのシリーズのうち5作品を受け持ちました。
1972年、仁侠映画人気が下降線をたどり、佐伯は12月公開『昭和残侠伝 破れ傘』を最後に映画界を離れテレビ界に移りました。
翌1973年1月公開深作欣二監督『仁義なき戦い』が大ブレイクし、東映は実録ヤクザ路線にシフトします。
時代劇から現代劇、子供向け娯楽版や喜劇から恋愛物、任侠物まで幅広く監督した佐伯清は東映両撮のプログラムピクチャーを支えた名匠でした。