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51. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督① 松田定次」
1954年、娯楽版の大ヒットから始まった、およそ10年に渡る東映娯楽時代劇黄金期では、片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大と月形龍之介を中心に、美空ひばり、中村錦之助、大川橋蔵、東千代之介、大友柳太朗というスターたちが華やかに表舞台で活躍しました。
彼らの活躍を陰でしっかりと支えたのが娯楽時代劇職人監督陣です。
東映トップ監督で牧野省三演出の流れをくむ松田定次、それに次ぐ佐々木康。東映応援団の大監督マキノ雅弘、渡辺邦男。東映娯楽版を支えた、萩原遼と新人河野寿一、そして松竹から来た内出好吉と新東宝から参加の佐伯清。後半の新時代劇で活躍した加藤泰、沢島忠、工藤栄一、山下耕作。今節では東映の綺羅星のごとき監督たちをご紹介いたします。
松田定次 東映娯楽時代劇の基本形を作ったトップ監督
1920年、日本映画の父・牧野省三は、恋人お照が経営するお茶屋「瀧の家」の離れに俳優養成所を創設します。養成所に参加していた研究生の月形龍之介や高木新平らはそこで寝泊まりもしていました。
1906年、省三とお照の子として松田定次は生まれます。異母弟の牧野正唯(後のマキノ正博、雅弘)より1年3か月早い誕生でした。1921年、中学校を卒業した松田は、省三が日活から独立して等持院の寺内に作った牧野教育映画製作所技術部に入社、フィルム洗いや現像作業に取り組み、その後撮影助手に転身します。そして、1925年5月公開二川文太郎監督『或る殿さまの話』で初めてカメラマンとして一本立しました。
6月、省三は東亜キネマから独立し、マキノ・プロダクションを設立。等持院を離れ御室天授が丘に撮影所を建設して、松田もそちらに異動しました。
1928年、監督に転向、省三について監督業を学び、6月公開『雷電』、7月公開『佐平次捕物帖 謎 前篇』で省三と共同で監督デビューします。松田は、12月公開根岸東一郎主演『かはいさうな大九郎』で単独の初監督を飾ると、以降、喜劇タッチの娯楽映画を中心に作品を重ねていきました。
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その年、マキノ正博(当時)も、マキノ・プロで『浪人街 第一話 美しき獲物』を監督。興行的には苦しみましたがキネマ旬報第1位に選出され高い評判を呼びます。
1929年7月、牧野省三が逝去。松田は、翌30年にマキノ・プロを退社すると現在の東映京都撮影所の場所にあった帝国キネマに入社し、1931年6月公開『相会傘三両侍』河津清三郎主演を監督。新興キネマに改編された後もそこに在籍して娯楽時代劇作品を監督しました。1932年1月には元マキノプロのスター松浦築枝と結婚します。また、10月には『明暗三世相 前篇』で、後の東映でも名コンビを組むカメラマン川崎常次郎(新太郎)と初めて仕事を組みました。
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1935年11月、松田は、マキノ正博が設立したマキノトーキー製作所に参加、ここで脚本家比佐芳武と出会いました。
マキノ・トーキーが1937年に解散すると、京都に新しく誕生した協同映画社で1本監督した後、翌1938年日活に移籍します。
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日活では3月公開嵐寛寿郎主演『鞍馬天狗 角兵衛獅子の巻』をマキノ正博と共同で監督した後、嵐寛や月形主演作を中心に監督。翌1939年2月公開『長八郎絵巻 月の巻花の巻』で初めて片岡千恵蔵主演作を監督しました。
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1942年に日活、新興、大都を統合して誕生した大映では、1944年6月公開嵐寛主演『高田馬場前後』を監督します。
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大映で、戦後第1作1946年1月公開伊藤大輔脚本千恵蔵主演『明治の兄弟』を監督すると6月には阪妻主演の『国定忠治』を担当しました。
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そして、年末に、比佐脚本千恵蔵主演の現代劇『七つの顔』を公開すると大ヒット。その後、多羅尾伴内は千恵蔵の人気シリーズとなります。
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1947年6月公開の多羅尾伴内シリーズ第2作『十三の眼』も大ヒット。1948年7月公開第3作『二十一の指紋』、12月公開第4作『三十三の足跡』、といずれもヒットし、比佐脚本、松田監督、千恵蔵主演の多羅尾伴内シリーズは大映の戦後に貢献しました。
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1947年7月20日、東横映画は大映から京都第二撮影所を賃借し、東横映画京都撮影所を開所、松田は比佐脚本で、千恵蔵が主演の金田一耕助を演じる12月公開『三本指の男』を監督しました。
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この作品の後、千恵蔵、松田、比佐のトリオは東横映画で『にっぽんGメン』を撮影、両作品とも大ヒットし、金田一耕助シリーズ、にっぽんGメンシリーズは東横の名物シリーズとなります。
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1948年に永田雅一との確執で大映を離れた千恵蔵は、マキノ満男の支援を受け、松田、比佐と連合映画作家協会を設立、その第1回製作映画『白虎』を作り、松竹配給で1949年6月公開しました。
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1949年、千恵蔵、松田、比佐らは東横映画に参加、10月に誕生した配給会社東京映画配給株式会社の記念すべき第1回配給作品をトリオで担当し、11月『獄門島』、12月『獄門島 解明篇』を公開すると大ヒット。良き東横スタートを切ります。
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続いて1950年1月には市川右太衛門が共演した『にっぽんGメン 難船崎の血闘』を公開。この後、松田、比佐コンビは東横映画で阪妻主演『獅子の罠』や右太衛門の人気シリーズ『旗本退屈男』の戦後第1作も手がけ、チャンバラが禁止され興行成績に苦しむ東横をヒット作で支えました。
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1951年4月に東映が誕生すると、千恵蔵、右太衛門両御大作品を主に松田と比佐は八面六臂の活躍で東映娯楽映画の基盤を作っていきます。二人は以前からの千恵蔵の現代劇、金田一耕助シリーズ、にっぽんGメンシリーズ、少し間をおいて多羅尾伴内シリーズ、右太衛門の旗本退屈男シリーズと東映黄金期を生み出した人気シリーズの基本形を構築しました。
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松田はその後も両御大の大作を中心に監督を続けるとともに、1957年4月公開、東映が社運を賭けた日本初ワイドスクリーン映画、大友柳太朗主演『鳳城の花嫁』や若手スター中村錦之助主演大作『ゆうれい船』などの監督を任されました。
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1959年には、錦之助に次ぐ若手スターの大川橋蔵が主演する『新吾十番勝負』を監督します。3月に公開すると大ヒット、橋蔵人気が爆発してシリーズ化され、橋蔵の映画代表作となりました。
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また、1956年、東映創立5周年記念作『赤穂浪士 天の巻 地の巻』は東映初のイーストマンカラーによる東映時代劇オールスター映画として企画され、監督には松田が選ばれます。
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1月に公開されると大ヒットし、その年の配給収入第1位に輝きました。
この大成功を受け、この後、東映時代劇オールスター映画は盆正月を飾る名物シリーズとして1963年正月まで12本続きます。会社からの信頼が厚い松田はそのうち10本を監督しました。
特に、この『赤穂浪士 天の巻 地の巻』、1959年の『忠臣蔵 櫻花の巻 菊花の巻』、1961年『創立十周年記念 赤穂浪士』の赤穂義士本伝を扱う三作品は東映時代劇黄金期の総決算とも言える作品で、松田はこの三本をすべて監督しました。
本伝を映画化できるということは、その映画会社にスターが揃っている証であり、一流の映画会社として認められる名誉で、日本映画界で本伝を3回も監督したのは、戦前の日活オールスター映画の巨匠・池田富保と戦後の東映オールスター映画の名匠・松田定次、二人の名監督のみです。
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オールスター映画で、両御大をはじめとする大スターたちそれぞれの見せ場を作り、テンポ良く細かくカットを繋ぐ松田の演出は、スターのバランスを配慮し、計算しつくした名人芸と言われました。まさにスターシステムの東映時代劇を体現する監督が松田でした。
脚本家の比佐芳武とペアを組み、数多くの人気シリーズを立ち上げ、東映時代劇オールスター映画を完成させた松田定次。牧野省三の血を受け継ぐ男は、東映トップ監督として東映娯楽時代劇の黄金期を作り上げました。
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