第30回振り返りと感想
ブックトークと哲学カフェ「想像の枠を越える!」にご参加いただきました皆様ありがとうございました。振り返りと感想を置いておきます。
集まりました9冊の本は写真をご参照ください。今回もまた本が被ることなく、テーマへの切り口も様々でしたが、あえて大雑把にいうと、空想の世界、知られていない過去の歴史(事実)、他者(家族または他人)の感覚、思考、心情にまつわるものにわかれていました。
何にせよ共通するのは「知らないから想像できない」未知という壁で出来た枠です。だからこそ読書という行為自体がこれを壊してくれる体験ではないか?と言われました。
「想像の枠を超える」といえば、技術的な新規の発想やアイデアがポンと突然浮かんでくるイメージもありますが、今回不思議とそれに類する本は出ませんでした。いや不思議ではありません。当初こくちーずにあげた文章が、ブレークスルー云々という文言になっていて参加が増えず、文を変えてから来た方が多いからです。(自分も言っておきながら見つかってませんでした(笑)
そういう発明みたいなものには目的のための合理的な解や、数学のように唯一の正解があったりするわけですが、他者の心情のようなものにそれはありません。
ただ視点を増やしたり変えたりすることと、何にせよ「わかろうとする態度」が発生しなければ始まらなあことは共通しています。ただ他者の内面みたいなものに至るには、それこそが最初の強固な枠ではないか?どうやってその態度が生じるのか?という問題が生じます。例えば加害被害(差別被差別)の関係では、相手の内面を知るには善意や公共性の意識、勇気が必要になりそうです。
「枠を超えて初めて枠があったことを知るのでは?」という意見がありました。確かにそうかもしれません。だとすると、先の「わかろうとする態度」を得ることは益々難しく思えてきます。読書でも映画でもよいから物語的なものから追体験することの重要性はよく言われますが、大人になると何でも自分で選択しますから情報さえ入らないこともあるでしょう。
そう考えると義務教育の中で半ば強制的に読まされる本、見せられる映画とか演劇の意味は大きそうです。場合によっては学校教育のせいで拒否感を持ったと思っている人もいます。それは個人を取り巻く環境の違いによるもので、これもまた想像の枠をこえるべき他者なのでしょう。
人類は科学技術だけが異常に発達した生き物ですから、戦争は絶えることなく、その上に昔より一瞬で大量に殺戮してしまいます。あれだけ人文的な努力をしてきたにもかかわらず、全体的な人間性が古代からそれほどの進歩をしてるように見えません。
その理由の一端は、この想像の枠の超え方の違いにあることがわかります。貧困を解消してきた力の多くは、増産を可能にしてきた科学技術によるものであり、分かち合いの精神ではないことは明白です。それを悲観的にまたは楽感的にとらえ過ぎないことが重要であると何となく感じています。
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対話中に出てこなかったえらい先まで一人でつらつら綴ってしまいました。哲学カフェ・対話の効能は終わってから始まりますから!