陰陽論6
重要なことをお断りしておきますと、天地にしても身体にしても、人の意思による操作の可能性と陰陽に関する記述は、古典に私の知ってる限りありません。現代でも誰か言ってるかもしれませんが、私は浅学のため確認ができておらず、既出であったり、もはや常識なのであれば教えていただきたく思います。
なので全て妄想と片付けられても当然の状態であると認識しています。その上で話の続きをお楽しみください。(楽しめるんだろうか?)
黄帝内経にある体幹と四肢の陰陽の関係をざっくりまとめると、こうなります。
(陰) 臓→腑→骨→筋→皮膚 (陽)
身体の外に近いものほど陽ということなので、こうなります。
でも、大体のところで意思との関係も一致してます。腸管というのは体外に接している場所で、自らの運動や刺激で、内臓よりずっと操作が可能です。 皮膚と筋肉はどうなんだろうという面はありますが、概ね外にあるものほど自由になるものなのです。。
そうなると、何で逆転するのかという理由が欲しくなります。
天地の間にいる人というのは、間とは言っても圧倒的に地に近いところに位置しています。地に縛られて生きているなどと表現するくらいのもんです。近いから、掘ったり、重ねたり、植えたり操作できるわけです。
身体というミクロコスモスでは、どうなのか?と考えたところで、というか、それ以前に気がついておられたでしょうが、そもそも天人地で分けるんなら、身体の中の「人」に当たるのは何なんでしょう?人の中にいる「意識」とか「意思」とかでしょうか?自由にできるという時の「自由意思」は肯定できるものでしょうか?
結論から言うと、私達が現在あると感じている意識がイコール自由意思というのは、無理があります。
とりあえず意識や意思というものが、古典の中で、どういう位置付けをされていたか、これを現代の言葉に替えたらどうなるか考えないといけません。
少なくとも「自由意思」とイコールになる語意の単語は見当たりません。
彼らが何を言おうとしていたのか探ろうとして、現代に得られた科学の知見を古典の読解に入れ込むことは、当然ナンセンスなこととして拒まれるべきではあります。しかしながら、古代人の想像力を踏まえて、「記述にはないが考えられたであろうこと」を考えることは意味のあることだと、私は思っています。
脳科学では前世紀に行われたベンジャミン・リベットの実験によって半ば解決されていますが、それ以前から思弁的な作業によって、我々の意識そのものが「自由意思」としてしまうことに矛盾が生じることは気付かれていました。
黄帝内経の中で、精神的活動の説明は他に比して決して多いとは言えません。しかしなかなか、興味深い記述があります。それを次回に紹介します。