氣(気)って何だったんだ? 2
気とは、何かしらの変化そのもの、またはそれに必要な力や現象であるーと勝手に結論付けてしまいましたが、前回の話だけでは何のこっちゃ全然わからないので、少し具体例とともに説明をしていきます。
人が他の動物と違う能力は、反省や思考だという話を一番最初にしたのですが、病に対してだけでなく、生きていることそのものへの関心が、古典医学の基礎になっていることは確かです。生きている限り必ず不思議に思うことに対し、これを説明づけるように努力するのが知のあり方の一つでしょう。
例えば、人はモノを食って身体を作っています。稲の種子である米を食べても、身体から苗は生えてきません。野菜や魚肉を食べているのに、身体には何一つ残っておらず、骨や筋肉や脂肪やら髪の毛やらに変化していることは、とても不可思議な現象ではないでしょうか?
私たち現代人は答えらしきものを持っています。食物が分解され消化され、必要な成分が抽出されて、人体の随所に運ばれると。
一般的な科学では、モノを細分化しそれぞれに名前をつけ、またそれらの構成の違いによって別の名前が付けられることになります。それら名付けられた(または名付けられるべき)モノの移動、離散集合の発見が科学の発見であり、その説明の集積が科学の仕事でもあります。ヨーロッパを中心に栄えたこの仕事への執心というか欲望の凄まじさは、私たちの生活や考え方に直結しています。なので、痩せたいとか、インフルエンザにかかりたくないとかの話になると、どんな成分を摂ったらいいかという話が一番人気が出たりします。
しかし、こういう思考方法に慣れきってしまうと、子供の時に持っていた素朴な疑問をつい忘れてしまいがちになります。「食べたお米はどこにいってるの?」みたいなことです。古代人ももちろん考えたはずです。解剖もしてます。多分生きたままでもしてたんじゃないでしょうか。でも、そこでわかることは、今の常識に比べると大したものでもありません。何かドロドロになっているなあ、てなものです。
でも彼らは知っていました。水と食物が無いと死ぬこと。あと息ができないと死ぬこともです。
そこで気の話になるわけです。
彼らは考えました。口から入れるものを水穀と呼びましたが、人体に取りこまれるのは、それそのものではない「水穀の気(精微)」であり、これが尽きれば死ぬ、と。また息を吸うと必要な「清気」が取り込まれ、不要になった「濁気」が吐き出される、これもできなくなれば死ぬ、と。
水穀の気と清気が合わさったものを「宗気」と呼んでいます。これの働きに関しては、何ジャラホイな部分がだいぶありますが、とにかく「気」が生まれるということにしているんです。
食物という目に見えるものが、身体という目に見えるものに変わっていく「目に見えない過程」は、気という言葉を使うしかありませんでした。少なくとも古代医書での「気」の使われ方には、そういう面があると考えられます。そう思うと、神秘性がないわけでもないですね。ただし、それはテレビ番組で人をぶっ飛ばしたりする時に言っている安い「気の神秘」とは違います。当たり前に起きていることへの、不可思議性に感動や畏敬を持っておくという意味においてです。