氣(気)って何だったんだ?
東洋医学は気の医学です!とか、よく言われます。「万物は気が集まって出来ている」「生きている身体は気が流れている」って聞いたことがあると思いますが、「それなら、気とか言わず今なら分子、原子で良くね?」というツッコミが可能になります。
一方で「気はエネルギーのこと」という説明もよくされます。
どちらも、そんなに間違ってはいません。確かに物質もエネルギーに転換されるものと考えれば、何とかなるかもしません。しかし、そもそもの疑問をここで発したいのです。何故、多くの人は気の説明を、「知っている別のもう一つの言葉」に置き換えようとするのでしょうか?
気に限らず、伝統医学の用語の理解の難しさは、この言葉の置き換えを容易にしようとするところから始まります。いっそ全部が日常使わない未知の用語ばかりなら、良かったのかもしれません。心臓とか肝臓とか、今でも使っている言葉がいくつもあるので余計に混乱するのです。臓腑の名前は同じだけど、あれは全然概念が、違うものなんですよなあ。
気の話に戻ると、その言葉がどんな使われ方をしているかで考えてみれば良いことになります。
自分なりに結論づけると「気とは、何かしらの変化そのもの、またはそれに必要な力や現象」というものになります。
少なくとも漢代の人々が医学書を編纂する時に、気という言葉に神秘的な意味を込めたとは思えません。彼らは、人体に起きる様々な現象について説明をする必要がありました。説明をするということは、聞いた他人が「分かる」ものでないといけない。それは、当然「分けられた」あとの物事ということになります。
起きている物事を説明するのに、彼らが使っていた便利な言葉が「氣」だったわけです。現象の因果関係を説明するということに限って考えれば、現在の科学者と同じ目的を持った者です。ただ使う言葉が違う、見るものの分け方、切り取り方が違っていたということです。